20240417

 前回、名前を出した荒川修作が考えていることを私が理解している範囲で、ごく大ざっぱに書くとこういうことだ。
「生き物は空間との関わりによって、形と動きを作り出される。だから、虫は虫で空間との関わりに応じてそれぞれいろいろな形になったし、鳥や魚や獣もそれぞれいろいろな形になった。
 人間もまたその延長に位置するはずなのだが、人間は空間との関わりを歴史を通じてどんどん希薄にしてしまって、それにつれて人間を形成しているはずの、肉体と精神の二つのうちの精神ばかり育ててしまった。
 精神が優位になりすぎたために空間がどんどんフラットで抵抗のないものになってしまったのだが、いまここで肉体に負荷をかけるという性質を空間に取り戻すことで人間の生命の様態が変わる。そのような空間では、個体としての肉体は滅んだとしても、生命は空間の中に生きつづけることになる。」
保坂和志『小説の誕生』 p.184-185)



 ものすごい夢をみた。しかし細部の記憶はすでにない。五十代の白人男性と二十代の若い女性——たぶんこちらも白人だったと思うが記憶が定かではない、もしかしたら中国人女性だったかもしれない——のふたりが主役の映画を見ている夢。ふたりは単なる知り合いらしい。もしかしたら同僚だったかもしれない。恋愛要素はまったくといってもない。その予感もきざしも気配もない。そこから物語がはじまるのだが、リアリティのある描写の積み重ねの果てに、そのふたりは最終的にある程度性的なスキンシップをもとめあうようになる。具体的にどのような描写があったのかは不明であるのだが(単純に目覚めとともに忘れてしまったのかもしれないし、夢のなかでも表象されていなかったのかもしれない)、いずれにせよ、その映画を最初から最後まで観たこちらはとんでもないショックを受けていた。こんなにまっすぐなリアリズム作品が現代でも可能なのか、と。ここまでリアリティのある、上品でつつましやかな、それでいて現実離れしているわけでもなければ過度に現実におもねっているわけでもない、ただひたすら微妙なニュアンスの積み重ねによるリアリズムが可能なのか、と。そしてその積み重ねだけで、このような関係のダイナミズムにここまで説得力をもたせることができるのか、と。リアリズムを志すのであればここまで徹底してやらなければならないとあたまをおもいきりどつかれたような気分だった。衝撃は起床後もしばらく尾を引いた。

 8時15分起床。トーストとコーヒー。午前中に授業がある日はめんどうくさいのでインスタントですませがちだが、今日はちゃんと豆から挽いた。嗅覚および味覚はだいぶ回復している。しかし二種類ある豆の香りを嗅ぎわけるにはまだいたらない。
 10時から一年生2班の日語会話(二)。第18課。前回の授業では男子学生を中心に内職が目立ったので方針を転換、簡単な質問でもかまわないので重複をおそれずガンガン投げまくることにした。簡単な質問であっても相手の発語をうながすことがいちおうできるわけであるし、場合によってはその返答が脱線のきっかけになるわけであるし、既習組にはやや歯応えのある問題をぶつけることもできるわけであるし、この方針でやったほうがいいかもしれない。明日の1班の授業でもやってみよう。二年生はとにかくモチベーションが高く明るいクラスであるので「全体に対する質問」が機能しやすく、それに慣れっこになっていたわけだが、もともとうちの大学はさほどモチベーションの高くない学生が大半を占めているわけであり、「全体に対する質問」を放りなげても返事が返ってこないのが普通だったのだ、だから質問は個人指名したほうがいいのだった、そのことをすっかり忘れていた。二年生が異端児なのだ。
 授業後、第四食堂入口のハンバーガー店で打包。となりにあるフルーツの盛り合わせの店——カットフルーツやヨーグルトやタピオカなどを好き放題タッパに盛ってグラム数で支払いをすませるタイプの店——から出てきた二年生のR.Hさんから声をかけられる。最近やたらとキャンパスで顔をあわせる機会が多い。第四食堂で鱼粉を注文したのだが、オーダーしたものが出てくるまでかなり時間がかかりそうだったので、その時間を利用してフルーツを買っていたとのこと。R.Hさん、こちらと日本語で会話を交わすことに最近は全然抵抗や緊張を感じていないようであるし、口語もどんどん上達しつつあるようにみえるし、もしかしたら今年のスピーチコンテストの代表は彼女になるかもしれない。本人も興味があると以前言っていたことであるし。
 帰宅。ハンバーガーを食ったのち、ベッドで30分ほど昼寝。覚めたところでコーヒーを淹れ、きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回。1年前と10年前の記事の読み返し。そういえば、午前中の会話の授業の新出単語に「日記」が登場したので、かれこれ18年ほど毎日日記を書いている、毎日だいたい10000字から20000字ほど書いていると板書しつつ説明したのだが、学生らはやはりたいそうびっくりしているようだった。ひとりひとり質問してみたのだが、日記を書く習慣のある学生はほとんどいなかった。
 以下は2023年4月17日づけの記事より。

 ラカンはしばしば、彼がそのような難しさをどれだけ重要と考えているか述べている。たとえば、セミネール第18巻における『エクリ』についての見解を見られたい。「多くのひとたちが躊躇うことなく私に「何ひとつとして分からない」と言っていた。それだけでもたいしたものだと気づいてほしい。何も理解できないものが希望を可能にする。それはあなたがその理解できないものに触発されているしるしなのだ。だからあなたが何も理解できなかったのは良いことである。なぜならあなたは、自分の頭のなかにすでに確かにあったこと以外、決して何も理解できないからだ」(…)。
(ブルース・フィンク/上尾真道、小倉拓也、渋谷亮・訳『「エクリ」を読む 文字に添って』 p.245)

 記事の読みかえしに続けて、今日づけの記事もここまで書くと、時刻は16時前だった。作業中は『Rhetorical Islands』(Giuseppe Ielasi ジュゼッペ・イエラシ)と『melodica』(nica & haruka nakamura)を流した。

 明日の授業で使用する資料を印刷し、データをUSBメモリにインポートする。17時になったところで第四食堂へ。红烧なんとか面を食べる。あいかわらず激ウマ。しかしこれだけでは物足りない、夜中に腹が減るに決まっているのでそのまま第五食堂にはしごして野菜だけ打包する。
 帰宅して食事。ここ数日ずっとバスケコートで学院対抗別試合のようなものがおこなわれているのだが、今日はもしかしたら決勝戦だったのかもしれない、やたらと遅い時間帯まで太鼓の音にあわせた「加油!(ドンドン!) 加油!(ドンドン!)」という応援と歓声が響いていた。あと、たぶんハーフタイムか試合と試合の合間のことだと思うのだが、アニメ版『スラムダンク』の主題歌も流れていた。「きみが好きだ〜と♪さけび〜たい♪」というアレ。
 チェンマイのシャワーを浴びる。作文するつもりだったが、なんとなくそういうコンディションでない感じがしたので、「定義」の添削をすることに。赤のボールペン片手に修正と採点をすませたのち、おもしろ回答をひとまずざっとピックアップして一覧にまとめる。
 23時になったところで作業を中断。寝床に移動後はKatherine Mansfield and Virginia Woolfの続きを読み進めて就寝。