20130201

いいものだ、自分だけの風景を持ち、観察したり理解したりできる品物や、小さな記号や、しみや、ミニアチュア的事件などの数々を持つということは。それはあなたをして意識的であることを余儀なくさせる。あなたを強いて、ほんのちっぽけになるよう、奇妙な落書きや、記号や、甘美な物体、悲劇的な物体でいっぱいな世界において、まさに斑点のごときものでもあるように仕向ける。生活の重みの下に頭を垂れさせ、地面に投げ倒して崇めさせる。ぼくの部屋の中に、通りに、町に、地上全体、さらにはそれ以外のところにさえ、たくさんの小さな神々がいて、ぼくはそのおのおのの前に拝跪するのだ。
ル・クレジオ豊崎光一・訳『物質的恍惚』)

 憐れみは不寛容であり、愛は専制的であり、美徳は偽善的で、慈善は侮辱的だ。
ル・クレジオ豊崎光一・訳『物質的恍惚』)



2月だぜ!
11時半起床。きのう床に着いたのは朝の6時をまわっていたが、浅い眠りだったのか、12時にセットした目覚ましよりも早く目覚めたし、よく覚えていない夢の中でも何度かもうそろそろ起きてしまってもいいんじゃないだろうか、十分に睡眠はとれた気がする、夕食後の一時間半にわたる長い仮眠がきっと効いているのだ、というようなことを考えた記憶がある。
13時からネコドナルドにて作文。「偶景」の改題案――「日誌」「日録」「しるし」「あけくれ」「その日」。どれもしっくりこないまま2つ追加。万華鏡ミュージアム馬鈴薯の皮むきについて。続いて「邪道」にとりかかったのだけれどおそろしく気乗りしなかったのでわりと早い段階でさじをなげてしまい、かわりに蓮實重彦『陥没地帯』を少し読んだ。
いったん帰宅したのち、徒歩にて生鮮館に買い出し。週休五日制になって本当に良かった。スーパーまで歩いていこうと思えるだけのゆとりがある。これはとても大事なことだ。生活を愛でる秘訣だ。京都に来て最初のアパートでは平野神社の境内を抜けて生鮮館へ通ったし、円町の一戸建て時代には中央図書館に立ち寄る必要がある場合はフレスコへ、そうでない場合は丸太町通を西へむけて歩いて生鮮館へ通ったものだった。三件目のアパートでは五分とかからぬ距離にフレスコと生鮮館が隣接してあって、往復十分は物足りないのでわざと遠回りして通ったりした。そしていまは片道ゆっくり歩いて十分のところにやはり生鮮館があって、その道のりがようやく愛おしくなりはじめてきたところだ。時間割生活を送っていて楽しいのは、道往くひとの顔にだんだんと見覚えが出てくるところだ。多少のぶれはあるものの、名前も知らない他人の固有の生活リズム、行動パターンが、こちらの生活リズム、行動パターンと交差するそのときほど想像力が他者にむかう瞬間もない。いまここにもうひとつの生活があるのだと天啓に打たれたかのような感動で腑に落ちるそのひとときがありがたい。今日もまた一日を通してとても温かく、午後から降るといわれていた雨の気配もまるでない。最高気温は14℃で最低気温が1℃。それが明日になると最高気温は16度で最低気温は12℃になるらしい。すばらしい。これから先起こるであろうすべての幸福とすべての不幸が丸ごとひっくるめて事前に祝福されているかのようだ。
帰宅してから水場で米を洗っていると(…)さんが現れた。明日中国に旅立つという。いろいろと迷いもしたが結局行くことに決めたらしい。諸手をあげて賛同した。じぶんが(…)さんの立場だったとしてもやはり行くと思う。周囲のひとたちは反日デモやら大気汚染やらを気にかけて行ってくれるなと(…)さんに言うらしいのだけれど、反日デモやら大気汚染やらがあるからこそむしろ、というのがたぶん(…)さんの本音なんじゃないかと勝手にじぶんにひきつけて思う。社会派的な気取りがそうさせるのではない。ただ見ることの欲望がそうさせるのだ。不謹慎との誹りを免れ得ぬかもしれぬところのきわめて独りよがりで、純然で、混じりけのない、ただ単純に見ることの欲望。ドキュメンタリー作家を突き動かすべき原動力はそれでいっこうにかまわないし、むしろそういうものでなくてはならぬのではないか。ただ見るということ、見ることの欲望のみを原動力としてただ見ること、それだけが見られる対象にたいして(こういう言葉はあまり好きじゃないけど)中立的で、中性的=忠誠的で、誠実な態度であるんではないか。そこに何かを(たとえば物語や教訓やイデオロギーを)見出そうとする手段としての見るではなく、見ることの欲望ゆえに、あるいは、見ることの快楽のために、ただ見る。それだけが本当だと思うし、見る作家のとるべき倫理的な態度であるような気がする。帰国は二週間後だという。どうか気をつけて、帰ってきたらまた写真や映像や土産話をよろしく。そう挨拶してから炊飯器のスイッチを入れ、ジョギングに出かけた。いつもよりちょっと大目に走った。すべて愛おしい。きのう心臓を包んでいた恍惚が今日は四肢の先端に行き渡っているようだ。神は細部に宿る。
三度目の帰宅ののち入浴。ずいぶん前から切れてしまったシャンプーの引き継ぎとしてタイのセブンイレブンで購入した商品の残りを使っているのだけれど、水量と温度のまったく安定しないシャワーのぼろさという共通項もあって、風呂に入るたびにいちいち懐かしい気持ちになる。でもこの懐かしさもだんだんと薄れていく。日本で使用している期間のほうがどうしても長くなっていくから。
夕食をとりながら映画。アンリ=ジョルジュ・クルーゾー『恐怖の報酬』。大傑作。すばらしい。特にトラックに乗り込んでからの展開には非の打ち所がない。トラックといえば『恐怖の報酬』という回路が一夜にして出来上がってしまった。すべてのショットが完璧で、すべての遅延が、あるいは短縮が、あるいは省略が、とんでもない切れ味で冴えわたっている。ジョーとルイージが対峙するバーの場面での接近する足下を地面ぎりぎりの低い位置でとらえた短い横移動。ほとんど同じ低さでとらえられた横倒しにされる丸テーブルと落下して割れるグラス。姿の消えたジョーを探すために崖に飛び降りるマリオをとらえた、そこだけ他と異なるリズムで挿入される仰角のショット。道を塞ぐ岩を破壊するためにニトログリセリンを用いた爆破装置を仕掛ける場面の異様な緊張感、遅延される静寂、大写しにされる細部(それらはほとんどカール・ドライヤー裁かるるジャンヌ』の域に達している)。難所を切り抜けた二組のよろこびの放尿も束の間、なんでもない道のりで唐突に爆発する先行車。その爆発を告げるきっかけとして車の窓から吹き込む爆風によって巻きたばこの葉がすべて吹き飛んでしまう短いショット。そしてクライマックスのバーで踊り狂うひとびとと帰路を急ぐマリオのダンス-運転のしだいに間隔を短く詰めていく、悲劇の予感に貫かれたせわしなくすさまじいクロスカッティング。最初は大物扱いされていたジョーの化けの皮のはがれた腰抜けっぷりが、たとえばよくある紋切り型の物語のように土壇場で往時の強さを取り戻すというようなことにならず、最後の最後まで腰抜けっぷりとして徹底されていたのがすばらしかった。あと、マリオとルイージのコンビというのは冷静に考えるとけっこう笑える。しかもマリオはともかくルイージのほうが実写版任天堂みたいになっているから余計におかしい。
『恐怖の報酬』の中に穴ぼこだらけの地面を慎重にトラックで移動する場面があって、パーイからメーホーソーンへと日帰りで往復旅行したときのことを思い出さずにはいられなかった。思い出さずにはいられなかったから当時書いた記事を読み返した(…)。この日から8月10日にかけてまでの記事は恥ずかしくなるほど感傷的で、感情的で、いつになく独りよがりな筆致で、じぶんの思い出の刻印のためだけに書いているような終わりぎわの気配があって、だから当人としては少々ぐっときてしまう。読み書きを封じられた途端に簡単に恋に落ちてしまっている異国のじぶんは滑稽だし、読み書きを再開した途端にまたぜんぶがぜんぶわずらわしくなりつつある帰国後のじぶんも同じくらい滑稽だ。きのう今日ととても温暖で、日中にはいくらかなりと陽射しがあって、こんな日が続けばじぶんももう少しバランスのとれた生き方ができるんでないか、読み書きとそれ以外のことを分け隔てなく肯定することができるんでないかと、うっすら期待するような気持ちがあるらしいことに今日、ここまで書き終えたところでふと気がついた。春だ。このささやかに持続する恍惚をきっかけにして、何かが変わればいい。