2014-05-01から1ヶ月間の記事一覧

20140521

(…)君の手紙にまた手紙をくれとあったからすぐ莫大なものをかこうと思ってかき出したのだが、この景気だったら、何百枚の長篇でも出来そうだ。小説をかくとなるとなぜあんなに固くなってかけなくなるのか不思議で仕方がない。昨夜はすこしかきかけたのだが…

20140520

(…)また吉田は「自己の残像」というようなものがあるものなんだなというようなことを思ったりした。それは吉田がもうすっかり咳をするのに疲れてしまって頭を枕へ凭らせていると、それでもやはり小さい咳が出て来る、しかし吉田はもうそんなものに一々頸(…

20140519

そんなある日のこと私はふと自分の部屋に一匹も蠅がいなくなっていることに気がついた。そのことは私を充分驚かした。私は考えた。恐らく私の留守中誰も窓を明けて日を入れず火をたいて部屋を温めなかった間に、彼等は寒気のために死んでしまったのではなか…

20140518

私は山の凍てついた空気のなかを暗(やみ)をわけて歩き出した。身体はすこしも温かくもならなかった。ときどきそれでも私の頬を軽くなでてゆく空気が感じられた。はじめ私はそれを発熱のためか、それとも極端な寒さのなかで起る身体の変調かと思っていた。…

20140517

吊橋を渡ったところから径は杉林のなかへ入ってゆく。杉の梢が日を遮り、この径にはいつも冷たい湿っぽさがあった。ゴチック建築のなかを辿ってゆくときのような、犇ひしと迫って来る静寂と孤独とが感じられた。私の眼はひとりでに下へ落ちた。径の傍らには…

20140516

街路樹から次には街路から、風が枯葉を掃ってしまったあとは風の音も変って行った。夜になると街のアスファルトは鉛筆で光らせたように凍てはじめた。そんな夜を尭は自分の静かな町から銀座へ出かけて行った。そこでは華ばなしいクリスマスや歳末の売出しが…

20140515

「痴呆のような幸福だ」と彼は思った。そしてうつらうつら日溜りに屈まっていた。――やはりその日溜りの少し離れたところに小さい子供達がなにかして遊んでいた。四五歳の童子や童女達であった。 「見てやしないだろうな」と思いながら尭は浅く水が流れている…

20140514

冬になって尭(たかし)の肺は疼(いた)んだ。落葉が降り溜っている井戸端の漆喰へ、洗面のとき吐く痰は、黄緑色からにぶい血の色を出すようになり、時にそれは驚くほど鮮やかな紅に冴えた。尭が間借二階の四畳半で床を離れる時分には、主婦の朝の洗濯はと…

20140513

川のこちら岸には高い欅(けやき)の樹が葉を茂らせている。喬は風に戦いでいるその高い梢に心は惹かれた。ややしばらく凝視っているうちに、彼の心の裡のなにかがその梢に棲り、高い気流のなかで小さい葉と共に揺れ青い枝と共に撓んでいるのが感じられた。 …

20140512

(…)夜、帰りの遅れた馬力が、紙で囲った蝋燭の火を花束のように持って歩いた。 (梶井基次郎「雪後」) 10時にいちどめざましで起きた。小便に立ってからふたたび30分追加して眠った。あいかわらず気だるい起き抜けだった。胃が重く、頭が朦朧とした。月曜…

20140511

――コツコツ、コツコツ―― 「なんだい、あの音は」食事の箸を止めながら、耳に注意をあつめる科(しぐさ)で、行一は妻に眴(めくば)せする。クックッと含み笑いをしていたが、 「雀よ。パンの屑を屋根へ蒔いといたんですの」 その音がし始めると、信子は仕事…

20140510

彼は燐寸の箱を袂から取り出そうとした。腕組みしている手をそのまま、右の手を左の袂へ、左の手を右の袂へ突込んだ。燐寸はあった。手では摑んでいた。しかしどちらの手で摑んでいるのか、そしてそれをどう取出すのか分らなかった。 (梶井基次郎「過古」)…

20140509

その前晩私はやはり憂鬱に苦しめられていました。びしょびしょと雨が降っていました。そしてその音が例の音楽をやるのです。本を読む気もしませんでしたので私はいたずら書きをしていました。その waste という字は書き易い字であるのか――筆のいたずらにすぐ…

20140508

(…)友はまた京都にいた時代、電車の窓と窓がすれちがうとき「あちらの第何番目の窓にいる娘が今度自分の生活に交渉を持って来るのだ」とその番号を心のなかで極め、託宣を聴くような気持ですれちがうのを待っていた――そんなことをした時もあったとその日云…

20140507

それはある雨あがりの日のことであった。午後で、自分は学校の帰途であった。 いつもの道から崖の近道へ這入った自分は、雨あがりで下の赤土が軟くなっていることに気がついた。人の足跡もついていないようなその路は歩くたび少しずつ滑った。 高い方の見晴…

20140506

有楽町から自分の駅まではかなりの時間がかかる。駅を下りてからも十分の余はかかった。夜の更けた切り通し坂を自分はまるで疲れ切って歩いていた。袴の捌ける音が変に耳についた。坂の中途に反射鏡のついた照明燈が道を照している。それを背にうけて自分の…

20140505

書く方を放棄してから一週間余りにもなっていただろうか。その間に自分の生活はまるで気力の抜けた平衡を失したものに変っていた。先ほども云ったように失敗がすでにどこか病気染みたところを持っていた。書く気持がぐらついて来たのがその最初で、そうこう…

20140504

それはただそれだけの眺めであった。どこを取り立てて特別心を惹くようなところはなかった。それでいて変に心が惹かれた。 なにかある。本当になにかがそこにある。といってその気持を口に出せば、もう空ぞらしいものになってしまう。 例えばそれを故のない…

20140503

小さい軽便が海の方からやって来る。 海からあがって来た風は軽便の煙を陸の方へ、その走る方へ吹きなびける。 見ていると煙のようではなくて、煙の形を逆に固定したまま玩具の汽車が走っているようである。 ササササと日が翳る。風景の顔色が見る見る変って…

20140502

「その崖の上へ一人で立って、開いている窓を一つ一つ見ていると、僕はいつでもそのことを憶い出すんです。僕一人が世間に住みつく根を失って浮草のように流れている。そしていつもそんな崖の上に立って人の窓ばかりを眺めていなければならない。すっかりこ…

20140501

街道はそこから右へ曲っている。渓沿いに大きな椎の木がある。その木の闇は至って巨大だ。その下に立って見上げると、深い大きな洞窟のように見える。梟の声がその奥にしていることがある。道の傍らには小さな字(あざ)があって、そこから射して来る光が、…