2014-05-01から1ヶ月間の記事一覧

20140531

二階の瓦に鬼火のような炎がいくつも散って、すでに内に火が入ったらしく障子が薄赤く染まり、廂の下から白い煙をゆっくりと吐く家を、私は一度見あげたきり後も振り返らず走ったが、壕の蓋に土をかぶせるために子供たちを外で待たせてひと足踏み留まった母…

20140530

四十三年も前の夏のことになるか、と数えた時、むやみに年を数え返すものではない、と昔の年寄りに言われたことを思い出した。死んだ子の年を数えるの類いへの戒めと取っていたが、この年になって四十何年という歳月をたどり返せば、往事渺茫ならまだしも、…

20140529

そのうちに私自身が、歩いていて足の先から腰へ背へ弾力が伝わらず、全身を屈め気味にしていることに気がついて、すべては自分の体感の投影であったか、と憮然とさせられた。それにつけても五十代にかかって年の戒めの声を聞かされることになったが、後から…

20140528

人は背中から老けるものだとは中年に入る頃からよく聞かされて、年長者たちの背つきの急な変わりように驚かされることもしばしばだったが、自身がその年頃にかかると、背後の人目にたいしてまさに後ろめたさを覚えることはあっても、それが俺に何の関わりが…

20140527

朝は陽も高くなった頃に、長いこと呼ばれていたように、跳ね起きこそしないが、そそくさと寝床から抜け出して、今日は何事か、大事のありげな様子に見える。それをまた寝床の中から睡い目で眺めやって、何をそんなに張り切ってやがる、どこぞの祭りの支度か…

20140526

俺も寝酒をやるほうで、もっぱら納豆を肴にしているよ、と私も自分のことを話した。毎晩毎晩、もう何年も続いているのに、我ながら、あきない。初めのうちはやたらに捏ね回して、糸も引かなくなるまでになると、一段の味と悦に入っていたのが、近頃ではさっ…

20140525

病み上がりの身体には、まだ内圧と外圧との釣合いが保ちきれなくて、ときおり吹込みのようなものが起こるのだろう、とそれぐらいに取った。いずれ龍巻の中でも退屈するようになる。しかしそのうちに気がついたことに、壁の時計へ目をやる、あるいは窓の翳り…

20140524

外面から見れば実に静かな生活だ、昼頃起きて昼飯を食ったら紅茶をのんで机の前へ坐る、少々の覚えがきをしながら考えている、その状態で夜半の三時四時頃までいる。外面から見ればこれほど静かな生活はない。しかし内は火の車だ。 それが苦しいか、堪え切れ…

20140523

人間が登りうるまでの精神的の高嶺に達しえられない最も悲劇的なものは短命だと自分は思う。 あの漱石がまだ生きていたらどんなに目覚ましい転向を示しただろうと思うと短命はいけないものだと思う。 トルストイでもドストエフスキーでもストリンドベルヒで…

20140522

近藤さんから手紙が来てカラマゾフを半分読んだ、会話が想念性に富んでいて面白い、あんな会話が出来る人間が羨ましい。その会話は突拍子もなく不自然だが毫も不自然な感じを与えない。これはあの小説のアトモスフェールがしからしむるものでこのアトモスフ…

20140521

(…)君の手紙にまた手紙をくれとあったからすぐ莫大なものをかこうと思ってかき出したのだが、この景気だったら、何百枚の長篇でも出来そうだ。小説をかくとなるとなぜあんなに固くなってかけなくなるのか不思議で仕方がない。昨夜はすこしかきかけたのだが…

20140520

(…)また吉田は「自己の残像」というようなものがあるものなんだなというようなことを思ったりした。それは吉田がもうすっかり咳をするのに疲れてしまって頭を枕へ凭らせていると、それでもやはり小さい咳が出て来る、しかし吉田はもうそんなものに一々頸(…

20140519

そんなある日のこと私はふと自分の部屋に一匹も蠅がいなくなっていることに気がついた。そのことは私を充分驚かした。私は考えた。恐らく私の留守中誰も窓を明けて日を入れず火をたいて部屋を温めなかった間に、彼等は寒気のために死んでしまったのではなか…

20140518

私は山の凍てついた空気のなかを暗(やみ)をわけて歩き出した。身体はすこしも温かくもならなかった。ときどきそれでも私の頬を軽くなでてゆく空気が感じられた。はじめ私はそれを発熱のためか、それとも極端な寒さのなかで起る身体の変調かと思っていた。…

20140517

吊橋を渡ったところから径は杉林のなかへ入ってゆく。杉の梢が日を遮り、この径にはいつも冷たい湿っぽさがあった。ゴチック建築のなかを辿ってゆくときのような、犇ひしと迫って来る静寂と孤独とが感じられた。私の眼はひとりでに下へ落ちた。径の傍らには…

20140516

街路樹から次には街路から、風が枯葉を掃ってしまったあとは風の音も変って行った。夜になると街のアスファルトは鉛筆で光らせたように凍てはじめた。そんな夜を尭は自分の静かな町から銀座へ出かけて行った。そこでは華ばなしいクリスマスや歳末の売出しが…

20140515

「痴呆のような幸福だ」と彼は思った。そしてうつらうつら日溜りに屈まっていた。――やはりその日溜りの少し離れたところに小さい子供達がなにかして遊んでいた。四五歳の童子や童女達であった。 「見てやしないだろうな」と思いながら尭は浅く水が流れている…

20140514

冬になって尭(たかし)の肺は疼(いた)んだ。落葉が降り溜っている井戸端の漆喰へ、洗面のとき吐く痰は、黄緑色からにぶい血の色を出すようになり、時にそれは驚くほど鮮やかな紅に冴えた。尭が間借二階の四畳半で床を離れる時分には、主婦の朝の洗濯はと…

20140513

川のこちら岸には高い欅(けやき)の樹が葉を茂らせている。喬は風に戦いでいるその高い梢に心は惹かれた。ややしばらく凝視っているうちに、彼の心の裡のなにかがその梢に棲り、高い気流のなかで小さい葉と共に揺れ青い枝と共に撓んでいるのが感じられた。 …

20140512

(…)夜、帰りの遅れた馬力が、紙で囲った蝋燭の火を花束のように持って歩いた。 (梶井基次郎「雪後」) 10時にいちどめざましで起きた。小便に立ってからふたたび30分追加して眠った。あいかわらず気だるい起き抜けだった。胃が重く、頭が朦朧とした。月曜…

20140511

――コツコツ、コツコツ―― 「なんだい、あの音は」食事の箸を止めながら、耳に注意をあつめる科(しぐさ)で、行一は妻に眴(めくば)せする。クックッと含み笑いをしていたが、 「雀よ。パンの屑を屋根へ蒔いといたんですの」 その音がし始めると、信子は仕事…

20140510

彼は燐寸の箱を袂から取り出そうとした。腕組みしている手をそのまま、右の手を左の袂へ、左の手を右の袂へ突込んだ。燐寸はあった。手では摑んでいた。しかしどちらの手で摑んでいるのか、そしてそれをどう取出すのか分らなかった。 (梶井基次郎「過古」)…

20140509

その前晩私はやはり憂鬱に苦しめられていました。びしょびしょと雨が降っていました。そしてその音が例の音楽をやるのです。本を読む気もしませんでしたので私はいたずら書きをしていました。その waste という字は書き易い字であるのか――筆のいたずらにすぐ…

20140508

(…)友はまた京都にいた時代、電車の窓と窓がすれちがうとき「あちらの第何番目の窓にいる娘が今度自分の生活に交渉を持って来るのだ」とその番号を心のなかで極め、託宣を聴くような気持ですれちがうのを待っていた――そんなことをした時もあったとその日云…

20140507

それはある雨あがりの日のことであった。午後で、自分は学校の帰途であった。 いつもの道から崖の近道へ這入った自分は、雨あがりで下の赤土が軟くなっていることに気がついた。人の足跡もついていないようなその路は歩くたび少しずつ滑った。 高い方の見晴…

20140506

有楽町から自分の駅まではかなりの時間がかかる。駅を下りてからも十分の余はかかった。夜の更けた切り通し坂を自分はまるで疲れ切って歩いていた。袴の捌ける音が変に耳についた。坂の中途に反射鏡のついた照明燈が道を照している。それを背にうけて自分の…

20140505

書く方を放棄してから一週間余りにもなっていただろうか。その間に自分の生活はまるで気力の抜けた平衡を失したものに変っていた。先ほども云ったように失敗がすでにどこか病気染みたところを持っていた。書く気持がぐらついて来たのがその最初で、そうこう…

20140504

それはただそれだけの眺めであった。どこを取り立てて特別心を惹くようなところはなかった。それでいて変に心が惹かれた。 なにかある。本当になにかがそこにある。といってその気持を口に出せば、もう空ぞらしいものになってしまう。 例えばそれを故のない…

20140503

小さい軽便が海の方からやって来る。 海からあがって来た風は軽便の煙を陸の方へ、その走る方へ吹きなびける。 見ていると煙のようではなくて、煙の形を逆に固定したまま玩具の汽車が走っているようである。 ササササと日が翳る。風景の顔色が見る見る変って…

20140502

「その崖の上へ一人で立って、開いている窓を一つ一つ見ていると、僕はいつでもそのことを憶い出すんです。僕一人が世間に住みつく根を失って浮草のように流れている。そしていつもそんな崖の上に立って人の窓ばかりを眺めていなければならない。すっかりこ…