20130202

だいじなこと、重要なことというのは、自己についての体系的意識であり、個人はそれから外に出ることはけっしてない。このことは不道徳なのでもなければ、絶望的なのでもない。そうではなくて、こういう肝要な真実を認めることを余儀なくさせるものだ――人間のあらゆる顕われは個人においてしか真実を持たない。それは秘教の原理のようなもの、孤独と幽囚との掟だ。他人たちは、存在するとすれば、われわれにとって類推という理由によって存在するのである。われわれに対しては全能であり、われわれを創造し、われわれに自分たちの体系を強要するものである彼らは、われわれに入りこんでくるけれども、われわれのほうではけっして彼らに入りこめない。彼らは神秘であり続けるのだ。われわれと彼らのあいだの浸透性は一方向に向かってしか作用しない。そして理解が行われるのは、それがそもそもの始めの無理解にもとづいているかぎりにおいてのみであり、そのことは伝達が伝達しえざるものから生まれるのと同様である。
ル・クレジオ豊崎光一・訳『物質的恍惚』)

 自分自身に向けられたこの眼差、みずからを凝視するこの眼差、それはただ単に一つの行為の意識化であり、その出発点と帰結はそっくりなのだが、ただ次元がその間に介入している。ぼくが思考するとき、ぼくは一つの時間の流れを作りだし、一つの距たりを産みだす。この次元は、時間的だったり空間的だったりするより以前に、存在の次元なのだ。
 どうやってこの意識は生まれるのか? 自己意識はきっと何よりもまず他者たちへの意識なのだ。他者が自己と相似たものとして感じとられる、つまり判断や、情熱や、感覚などの数々を持ちうるものとして感じとられる瞬間からのみ、人間は、言語のきずなを通して、自分が生きているという感情をとり出すことができるのである。
 そのことは性的関心とともに生まれるのであろうか? たしかに外見の作用の数々はたいへん重要にちがいあるまい。けれども自己意識の開始点を性的関心に限定することは一個の安易さであるだろう。事実、他者というものは、それが男であれ女であれ、たいへん早くから感じとられているものだ。種の感覚は誕生のときからすでに現われる本能である。環境があとの仕事をやってのける。
 したがって、意識を創りだすのは、同化(ぼくは一人の人間だ)を異化(ぼくは誰でもよい人間ではない)と結びつける、一つの運動なのである。いずれにせよ、この反応は、たとえそれに本能的なものがそなわっていることがあっても、高度に社会的なものである。問題は集団との関係における個人の位置であり、この個人性を尊重させる必要である。このことはつまり、根本的には、思考が、道徳感覚と同様、社会的現象として生まれるということに帰着する。思考すること、自分が思考していると知っていること、すなわち自己であることは、集団生活が命ずるところの一つである。
ル・クレジオ豊崎光一・訳『物質的恍惚』)



6時20分起床。8時から12時間の奴隷労働。今日もまたとても温暖な一日だった。週に一日程度だったら仕事というのもちょっとした気分転換になるかもしれないと、(…)さんから夜の街にまつわるあれこれを聞いたり、(…)さんとすばらしくどうでもいい馬鹿話をしたり、昼飯にチャーハンカレーを食ったり、上手いコーヒーを四杯も飲んだり、隙を見て蓮實重彦『陥没地帯』の続きを読んだりしながら、少し思った。(…)さんが朝到着するなりとうとうバレたかとこちらを見て笑いながら言うのでなんのことと問い返すと、かれこれ一ヶ月ほど前にもなるのか、壊れたバイブレーターの先端(要するに亀頭の部分)をじぶんの自転車のライトの部分に装着するといういたずらを(…)さんとともに仕掛けていたのだという。びびった。ほんとうにもう、まったく、全然といっていいほど、気づいていなかった。亀頭はこの一週間のいずれかの一日に何かのタイミングで勝手に落下したらしいが、今日ネタ晴らしされなかったら永遠に気づかなかったと思う。一ヶ月は長い。男性器をかたどった黒々とした模型を自転車の正面に装着したまま、すかした顔つきで美術館に行ったりしていたじぶんを思って爆笑した。してやられた。一本とられた。こいつはもう絶対に復讐してやらねばなるまい。
(…)から夕飯の誘いがあるのはそろそろかなと期待しながらも受動的に待つのがならいの出勤日なのだけれど、今日はめずらしくじぶんからよお今晩くら寿司に行こうぜと誘った。土日祝のみ出勤という時点で世間様にたいして見事に逆行しているわけだが、出勤日イコール遊びの日というこの設定も加えると二重に狂っているといえる。ひさびさのくら寿司はうどんにはじまりパフェに終わった。それから(…)にいってコーヒー片手に長々と、そして大真面目におしゃべりした。げんなりするような話題、辟易する話題、気落ちすると同時に苛立つような話題におしゃべりの大半は費やされた。他人を前にして思うところをつらつらとしゃべっていると頭の中のごちゃごちゃがいろいろと整理されてくることがしばしばある。「わたしとあなたの違い」をして、「あなたは間違っている」にしてしまう、すなわち、「わたしとあなたの違い」を「あなたの間違い」に転化してしまう論法との対峙――じぶんがイライラする場面に共通する構造はこれだと合点がいった。
来週は月曜日が建国記念日で祝日なので土日月と三連勤になる。通常ならば二連勤であるところが三連勤になるということでまずマイナス一日。これに加えて、本来ならば月火水木金の五連休であるはずが、火水木金の四連休に減少するということでまたマイナス一日。すると勤務日は一日増えただけにもかかわらず、働く身の上にあるこちらの実感としては、二日分の損をしたという勘定=感情を覚える。というようなことを(…)に伝えたら、計100点のせめぎあいがあったとして、その結果が49対51であった場合、その差は2点でなく1点なのではないかと、中学生の時分に考えてクラスメイトらに伝えたことがあったが、誰にも相手にされなかったという思い出話が披露された。この考え方、なにかすごいヒントになる気がする。