2024-05-01から1ヶ月間の記事一覧

20240515

この連載を通じて「因果関係」という言葉を何十回書いたか見当がつかないけれど、一つか二つかせいぜい数個の入力に対して一つの結果が出てくるというふつうにイメージされる直線的な因果関係の思考法が、私には思考の省略か怠慢としか感じられないのだ。 過…

20240514

新規の登場人物が全体にまんべんなく出てくることに注目してほしい。この小説では物語の新展開は新規の人物によって持ち込まれることになっている。閉じた人間関係が時間とともにだんだん煮つまって……という小説とはつくりが違うのだ。 この小説は文庫本にし…

20240513

しかしここでは、一つ目では怒ったこと、二つ目では不機嫌になったこと、三つ目の引用では逡巡らしい逡巡は書かれないまま決意が、はっきりと書かれている。私は映画を見ているような感じがした。役者の表情の演技やその他の全体の演出からわかる程度の心の…

20240512

人間の思うことは言葉とともにあるから言葉で書くことにそんなに苦労はない。人間の動きも人間自体が言葉と無縁でいられないのだから言葉によって書ける。しかし自然となると言葉がない時代からあったのだから、フリークライミングの岩で指先がかろうじて掴…

20240511

私というのは「広域的なアルゴリズム」によって何重にも補正された状態であって「広域的なアルゴリズム」による補正が弱ければ——弱い補正があたり前の社会であれば——私の私に対する確信ももっと弱いか別のものになっていたかもしれない。 (保坂和志『小説、…

20240510

小説とは「広域的なアルゴリズム」につかず、どれだけ「ローカルな記憶回路」の中で持ちこたえられるかなのではないか。 (保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』 p.26) 8時15分起床。トーストとコーヒー。便所でクソをしているとき、『みどりいせき』(大田…

20240509

そもそも科学的にみれば、同一性(異なる入力を一つの記憶内容として出力すること)とは、並列分散的な神経網の産物ゆえに、原理的には確率的-熱力学的にしか作動せず、局所的な作動域では、常にソジー錯覚的な擬似記憶(同じ入力に異なる諸出力が応じ、逆に…

20240508

(…)『ローマ書講解』という本はおそらく最初のページから一語一語厳密に読み込んでいっても理解できるような本ではないのだろう。よく意味がわからないと思うことを一所懸命蓄えていって、それがあるときに私たちが馴れ親しんでいるのではないもう一つの言…

20240507

私に関心があるのは、その作品の中で具体的に何が書かれているのか? その作品を最後まで維持するためにどのような論理が作品を貫いているのか? というようなことだ。 (保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』 p.14) 6時15分起床。トーストとコーヒー。火曜…

20240506

小説家自身はきっと誰も「小説とは何か?」と考えながら小説を書いてこなかったし、いまも書いていない。いや、人から訊かれれば誰もが「小説とは何か? という問いを持ちながら書いている。」と答えはするだろうし、それは決して嘘ではないのだが、実際に小…

20240505

私たちは空間と時間を二つの要素とか基盤のようなものとして区別して考えがちだけれど、最初に書いた脳のプロセスに戻るとバラバラの電気信号として入ってきた情報を統一された物体の像に定着させるのは脳の中に蓄積されているデータ、つまり記憶だ。視覚は…

20240504

意識というのはそのようにあやふやなものの総体というよりも集合体であって、オーケストラがそれぞれ勝手に楽器を鳴らしているときに偶然にもちゃんとした音楽のようなものに聞こえた状態、それが意識なのではないかと思う。 あるいは、もう少し統制されてい…

20240503

フロイトは人の心の中に刻まれた父親との関係を見ているうちに『オイディプス王』に行きあたったわけだけれど、そこで『オイディプス王』は原型とか原理のようなものとなって、オイディプスの心理を父との葛藤で読んだりはしない。フィクションのリアリティ…

20240502

諸君にして、なんらの目的もないということを知るならば、諸君はまたなんらの偶然もないということを知る。なぜなら、ただ目的の世界と並んでのみ「偶然」という言葉は意味を持つからだ。(…)(『華やぐ智慧』「第三書」一◯九番 氷上英廣訳) (保坂和志『…

20240501

論理的なものの由来——どういうところから人間の頭脳のなかに論理が生じたのか? たしかに、非論理的なものからであり、そうしたものの領域はもともと途方もなく広大なものだったに相違ない。しかしわれわれが現在行なっている論理的な推論とは違った推論をし…