20130228

法は、一方の場合は、欲望に対する外的な反動として現われるのだが、もう一方の場合は、欲望の内的条件として現われるのである。
ジル・ドゥルーズ宇野邦一・訳『フーコー』)

しかし、西欧の共和制、君主制に共通していることは、自らを法的な一貫した代表とするために、権力の前提的原理として〈法〉という本質性をうちたてたことである。「法的モデル」は、戦略的な地図を被い隠してしまった。しかし、違法行為の地図は、合法性モデルの裏で機能し続けている。そしてフーコーは、法が一つの平和状態ではなく、また勝利した戦争の結果でもないことを示す。つまり、法そのものが戦争であり、この戦われている戦争の戦略なのである。権力が、支配階級の手にいれる所有物ではなく、権力の戦略の現実的な行使であるのと同じことである。
ジル・ドゥルーズ宇野邦一・訳『フーコー』)



11時起床。13時から17時まで薬物市場にて「邪道」作文。プラス6枚で計447枚。延々と加筆。ここ二週間くらいというか読み直しという名の加筆修正(二巡目)にとりかかって以降ずっと好調。なんとなくおそろしい。一年前のブログ記事に抜き書きされていた《着いたときには私はすっかり参っていた。ということは、ほんとうには、参っていなかったというわけだ。人はよく参ったと思う、だがほんとうに参ることはまれだ。私も着いたと知っていたからこそ参ったので、あと一マイルも歩かなければならなかったら、一時間後でなくては参らなかっただろう。》というベケット『モロイ』の一節をエピグラフとして採用することにした。「邪道」の本歌でもあるわけだしちょうどよい。
薬物市場のトイレに入るとなかに小学生くらいの男の子がひとりいたのでああごめんなさいといって鍵のかかっていなかった引き戸をすぐに閉めなおしたのだけれど、一瞬目のあった少年はちょうど洋式便器から三歩か四歩分距離を置いて向かい合うようにして立っておりこころなし顔とか前髪が濡れていたような気がして、あれってひょっとしてウォシュレットの暴発とかでびしょびしょになったとかそういうことなんだろうかと思っているとトイレの中からもうひとりおじいちゃんだかおばあちゃんだかわからないような声も聞こえてきて、ということはさっきは確認することはできなかったけれど性別不明のしわがれ声の持ち主がひとり便座に腰掛けておりそれに対面するかたちであの少年がいたということなのかと不思議に思いながら順番がまわってくるのを待っていると足下でぴちゃりと音がたって、見るとトイレのドアの隙間から透明な水がリノリウムの床をつたって無音のままこちらに進行してきており、なんだよこれいったいどういうシチュエーションなんだよと動揺するところがあったので真相を解明することなく便意さえ押し殺してその場から逃走した。真相を解明せず謎を謎のまま宙づりにすることによってたいした謎でもないはずのものが妙になまなましく不気味な現象として居座るということはしばしばあるもので、カフカ磯崎憲一郎の小説を結ぶ交差点ってたぶんこういうことだよなあと思う。
図書館に立ち寄りロメール高橋アキを返却しドアーズとスティングとマルティン・ブーバー『忘我の告白』を借りる。のち生鮮館にて買い物。途中制服姿の女の子が交差点を走って渡ってくるのとすれちがったのだけれど見覚えのある顔で、というのは以前まったく同じ場所でまったく同じ彼女とすれちがったことがあり、ハーフらしいその子の顔立ちがいっしょに下校している周囲の同級生ら(おそらくは中学生かと思われる)にくらべて頭ひとつ飛び抜けておとなっぽく見えたものだからすごく印象に残っていたというか、いちおう弁明させてもらうとじぶんには別にロリコン趣味はないし何なら制服にたいする特別な執着もなくて、ただリクルートスーツ、リクルートスーツは別物だ、あれは最高だと思う、あれは本当にやばい、次に引っ越すならばオフィス街がいい、オフィス街に住んでお昼にはOLたちの群れにまじってしらっとランチなど食べたい、という具合でとても印象に残っていたその制服姿のハーフの子が今日、横断歩道を渡るのに駆け足というよりはほとんど陸上部かよというような本格的なランニングフォームでむこうからこちらに走ってくるのとすれちがって、ああこの子は絶対に映画になるのに! と強烈に感動した。制服姿のままの全力疾走っていうきわめてアンバランスで非日常的で要するに不自然な身振りがしかしあそこまで画になるというのはそれだけでもう才能というもので、町を歩けばきれいな子にもかわいい子にも無数に行き当たるけれどなんというかフォトジェニックな子というべきだろうか、どこにいても画になってしまう、その立ち姿や表情で限定されたこちらの視界の一枚画をそのまま映画のワンカットへと変質せしめてしまう存在感(そういうのがひょっとすると俗にいうオーラってやつなんだろうか?)をもった人間なんて当然だけれどそうざらにいるもんでもない。本当に見とれてしまった。すばらしい。少女を主役に据えた自主制作映画を撮ろうと考えているひとはいますぐあの子を主演に据えるべきだ。塩田明彦『害虫』における宮崎あおいとタメを張るかあるいはそれ以上に強烈なみずみずしさでもって画面をひきしめてくれる希有な存在の持ち主。
帰宅。筋トレ&夕飯。夕飯の支度を終えた18時でも外がまだ明るかったのでとても良い気分になった。暮れきっていない19時というのがじぶんにとってもっとも夏を感じさせるというか、春分の日が三月末頃であることを考えるまでもなく日脚の長さというのは夏ではなく春のおとずれに結びつけてしかるべきなのだろうけれど春という季節自体がじぶんにとっては夏のきざし、予感、前兆みたいなものとして受け止められているところがあるらしいので明るい18時にはワクワクさせられるし明るい19時ともなればなにかしらこうそわそわしてくるようなところがいつもある。
食事をとりながらジャン・ルノワールフレンチ・カンカン』。ダングラールがニニと出会うきっかけの酒場でバーカウンターのこちら側にあるカメラがカウンター越しの広間で踊るひとびとの姿をとらえつつずいぶんとたっぷりした速度で横移動していきやがてカウンターが途切れたその右手に設置されてあるテーブルに腰かけるウエイトレスだか売春婦だかの姿をとらえるにいたって停止する序盤のなめらかなカメラワークからしてすばらしい。ニニ役のフランソワーズ・アルヌールの愛嬌たっぷりの笑顔が全編通してすんごくかわいくて、ダングラールと同衾するシーンで長い髪の毛をシーツにひろげて寝そべっているのを俯瞰するショットがあるのだけれどいったい何なんだろうこの顔の小ささは! 踊り子としてレッスンを受け始める前まだ洗濯女だったときに上流階級のひとたちと顔をあわせるたびにスカートをつまんで膝をかくんと折って挨拶してみせる仕草もまたよくて、というかこういう挨拶を目にするたびに思い出してしまうのはどうしても『魔女の宅急便』のキキのことで、あの映画の中でキキは初対面のひとに会うたびに「キキといいます」と言いながら膝をかくんと折って挨拶するのだけれどスカートをつまむ指先まではなぜか決して描写されないというかそこは常に画面から見切れていたような気がする(でもこれは思い違いかもしれない)。洗濯女ニニが後ろからつけてくるダングラールの気配を感じつつ洗濯籠を手にしながら友人と歩くごみごみとした通りの活気。勢い良く駆け上がる階段。あるいは同じ階段の手すりを滑り降りて移動するニニの無償の運動性(というとどうしても相米慎二の少年少女たちを想起することになる)。さらにはアラブの王子――ニニにふられたショックから拳銃自殺をはかる彼の放った銃声にはっとしてこちらをふりかえるニニとダングラールの姿が鋭く切り返されるショットは園子温『部屋』のラストシーンを想起させる――との再会と別れが演じられることになるのもやはりまたその階段付近である(別れのシーンのどこからどこまでもが圧倒的にベタなメロドラマ的でありながらしかし異常に胸を打つ迫力!)。ダンス教室の入り口ドア付近にさりげなくセットされた鏡の効果(ドアから出ていく人物の様子を見守る女たちの立ち姿が効果的な「遠さ」と「小ささ」で実に控えめに映りこむ)。見込みのある女が見つかればさっそくちょっかいを出して芸の道に引きずり込むダングラールがおれの役目はスターを発掘することなのだと自らの軽薄さを完璧に肯定する力強く説得力のある熱弁をふるうクライマックスのキレっぷりとその後控えの通路でひとりセットの玉座(それはアラブの王子が拳銃自殺をはかった現場でもある)に腰かけながら固唾をのんでステージにそそがれる歓声に耳をかたむける事業に一生をそそぐ男のしずかな情熱の横溢する顔つき(そしてこの舞台裏のしずけさはジョン・カサヴェテス『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』で撃たれた腹をしずかに押さえる劇場の支配人がひとり店内の喧噪をはなれて路上に立ち尽くす美しすぎるラストシーンの記憶に結びつく)。ほとんど完璧な多幸感とハイテンションに彩られた圧巻のダンスシーンの終盤で主要登場人物らのバストショットが連続して映し出される場面は北野武あの夏、いちばん静かな海』における同様のショットを思い起こさせるが、後者が死者(あるいは死後)のまなざしを仮構するかのような彼岸の冷たさに貫かれていたのとは対照的にこちらはどこまでもアゲアゲなハッピーエンド感に満ち足りていてそれもまたいとおかし。
映画を見終えて食器を洗うべきおもてに出ると星空だった。京都でここまで星がはっきりと見えるのもめずらしい。
ここまでブログを書いたところで23時前、職場でとっている京都新聞に月に二度ついてくる王将の餃子一人前無料券の期限が月末まででありほかならぬ今日こそその月末であることに思い至ったので部屋着のまま徒歩で近所の店舗に出かけて容器代10円でお持ち帰りし、一人前6つのうち3つはそのまま食べて残り3つをトーストしたパンの耳二枚にチーズといっしょにはさんで食った。ジャンキー。店員さんには月に二度無料券片手にやってくるあわれなB-BOYだと思われているに違いない(上下だぼだぼのスウェットにパーカーのフードをかぶって出かけるのが深夜徘徊スタイル!)。
二勤二休のハイペース労働に耐えられずバイトをやめると決断したときには何人かのひとたちに時間ができたところで結局だらだら過ごしてしまうのがオチだよ、限定された少ない時間のなかで何かに取り組んだほうが集中できるものだよ、みたいなことをいわれたりもしたのだけれど蓋を開けてみれば当然だけれどだらだらするようなひまなんてまったくないし、明日また仕事かよ!みたいな苛立ちや不満を覚える頻度が少なくなった分ダントツでいまのほうが作業の効率もあがっている。じぶんにとって歓びのない労働というのは結局のところ精神衛生上の害毒以外のなにものでもないということがこれではっきりと証明されたことになる。なにからなにまでそうというわけでもないだろうが、一般論というやつはおおむねすべて無視してやってもいいらしい。一般的な生活を送っていないのだから生活の一般論があてはまりはしないというのはよくよく考えてみれば当然なんだけれど。