20130227

 もし言表が、語とも、文とも、命題とも、区別されるなら、それは言表自体がみずからの派生物として、主体の機能、対象の機能、概念の機能を含んでいるからである。まさに、主体、対象、概念は、根本的なものから、または言表から派生した機能にすぎないのである。それゆえ、相関的空間は、言表のある〈族〉における、主体、対象、概念といった場所や位置からなる言説的な秩序なのである。(…)こういった様々な場所は、特異点をあらわしている。内在的な定数と外在的な変数によって機能する語や文や命題の体系は、固有の変化と内在的な変数によって機能する言表の多様体とは相反するものだ。語や文や命題にとっては偶発事と思えることが、言表にとっては規則となる。フーコーはこうして新しいプラグマティックを創造する。
ジル・ドゥルーズ宇野邦一・訳『フーコー』)

しかし、ニーチェがすでに見ていたように、抑圧やイデオロギーは力のあいだの闘いを構成するものではなく、闘いによって巻き上げられた砂塵にすぎない。
ジル・ドゥルーズ宇野邦一・訳『フーコー』)



10時半起床。(…)くんにメール返信。12時半より薬物市場にて「邪道」作文。プラス2枚で計441枚。これやっぱり600枚は優に超える。いまのところ改行はひとつもない。これからもたぶんないだろう。15時半に店を後にしてアメリカへ。DVD7枚レンタル。生鮮館に立ち寄って食材購入して帰宅。
ヒッチコックバルカン超特急』観る。上空(丘の上?)から地上に立てられた酒場の門前へと降下して接近していく冒頭の長回し。こういう奥行きを利用したカメラワークを目にするたびに『めまい』のあのレストランのシーンを思い出す。あのカメラワークはこれまでの映画経験の中でも確実にベスト5に入るすばらしさだった。と、書いてそれじゃあほかに印象に残っているのは何かと自問してみるとこれがなかなか難しくて、とりあえずタル・ベーラ『倫敦から来た男』のバーのショットは間違いなく入るように思うのだけれど、あとはゴダール『ウイークエンド』の横移動とか360度のパノラマショット(と、それを踏襲したと思われるブライアン・デ・パルマミッドナイトクロス』の360度パノラマショット)とか青山真治『チンピラ』の屋上にいる男女の姿を近景で写し取ったカメラが当のふたりから目を離すようにしてゆっくりと回転していった先でとらえた遠景に位置する螺旋階段上に先ほどのふたりがいつのまにか移動していてハグ&キスしてるショットとか、『Helpless』だったように思うけれど中空に漂うカメラがアパートの一室の開け放たれたカメラにジグザグと接近していってそのまま室内に侵入するみたいなのもずいぶんと昔に目にした覚えがあってそのカメラはたしか田村正毅だった(と、ブログ内検索してみたらここにあった。四年以上も前だ!→(…))。ほかにも黒沢清とかホウ・シャオシェンあたりなんかいろいろあるといえばあると思うのだけれどそれらをいちいちここにずらりと羅列していく手間を思うと面倒くさくて仕方なくなってきたのでやめにする1:43現在。『バルカン超特急』はヒッチコックらしからぬわりとシリアスな銃撃戦が終盤に挿入されるものの基本的には例のごとく喜劇性に彩られたご都合主義のすばらしい安心感に貫かれていた。
筋トレ・夕食・仮眠をはさんだのち引き続きヒッチコック山羊座のもとに』。せっかくセットも衣装も豪華なのに色彩が落ち着かない(これはおそらくソフトの問題だろう)。そして物語がぜんぜんヒッチコックらしくない。どろどろしている。暗い。あの無敵の楽天性がぜんぜん見当たらない。入浴中の総統のいる一室にむけて廊下を歩く奥行きのある短い移動。チャールズがフラスキーの館をはじめて訪れるシーンの、館の外から中の様子をうかがうチャールズの背中にはじまり室内に迎え入れられた彼がさまざまな客人らと挨拶をかわしつつ会食の席に着くまでのたっぷりとした長回し(この長回しが切断されるその契機がわけありらしいことの冒頭からさんざんにおわされていたイングリッド・バーグマン演ずるフランキーの妻の最初の登場シーンであるというのがまた良い)。窓ガラスの背後に黒のジャケットをひろげてみせることで即席の鏡を作成してみせる機転の良さ(こういう気障で洒落っ気のある場面に遭遇するたびに鈴木清順のことを思い出してしまう)。フランキーを密かに思慕するメイドと彼の妻それぞれの一人芝居めいた長い独白が物語序盤と後半とに対置されている構成。
花粉から身を避ける夜中のジョギングおよび入浴。のちハワード・ホークス紳士は金髪がお好き』。こんなにも赤い口紅の似合う女はほかにいないだろうと思われるほど強烈なセックスシンボルっぷりを発揮しているマリリン・モンローの媚態。猫なで声。ティアラというものが頭に飾り付けるアクセサリーであることを知らなかったマリリン・モンロー(ブロンド女はパッパラパーというステレオタイプにどこまでも忠実なキャラクター)にジェーン・ラッセルが突っ込みをいれたところで返答される“You must think I was born yesterday.”すなわち「きのう生まれたわけじゃない」。マノエル・ド・オリヴェイラ永遠の語らい』の記憶にたやすく結びつく豪華客船という舞台設定。パリのキャバレーを舞台にしたマリリン・モンローのミュージカルシーンの完璧さ。その赤のすばらしさ(このベルベット的な質感をたたえた鮮烈な赤は『ツイン・ピークス』の赤い部屋を思わせる)。
映画を観終わったところで水場に出るとちょうど(…)さんが歯磨きしているところだったので軽く立ち話をした。(…)さんは結局夏から中国に行くことに決めたのだという。ひとまずは一年間むこうの大学で日本語講師として働くことになるみたいで場合によっては契約延長とかなんとか、最近じぶんが何をしたいかわからなくなってきたというかそれは別にネガティヴが意味ではなくて何かこれってものにむけて突っ走るんじゃなくてそのときそのとき楽しいと思うところに首を突っ込んでいくことができればそれがいちばんじゃないか、みたいなことを(…)さんは言っていて、これはもう本当にまったくもってそのとおりだと思う。たとえば今日(…)くんから送られてきたメールの文面にストイックという言葉があって、このストイックという語をじぶんはわりとしばしば他人から受け取ることがあるのだけれど(そしてそれがたいていの場合は褒め言葉として用いられているということも重々承知しているのだけれど)、でもこのストイックという語にはなんというかどこかこう我慢・忍耐・辛抱みたいなニュアンスのつきまとうようなところがあって、それだからきみはストイックだといわれるとじぶんがなにかこうすごく無理をして読み・書き・観る生活を送っているみたいなふうにとらえられているのかなと思って若干居心地が悪くなるというか(同じ印象は「努力家」という言葉についても抱く)、これについてはけっこう最近も似たようなことを書いた気がせんでもないのだけれどその日その時じぶんがいちばん求めているものはなにかという自問の結果がたまたまこのような判で押した生活を織りなしているだけだというのが実際のところであって、小説を書くことも本を読むことも映画を観ることも音楽を聴くことも美術館に出かけることも別に義務感に強いられてそうやっているわけでは全然ないし、毎日気張って努力している、日々必死で訓練しているというような意識でもぜんぜんなくて、これがいちばんじぶんにとって「楽(らく)/楽しい)」からこうやっているにすぎない(たとえば今日映画を三本たてつづけに観たのは映画を三本たてつづけに観たかったからだ)。このあいだ書き記したようにじぶんが小説を書くことをきれいさっぱりやめることだって全然ありうるだろうというふうにやすやすと考えられてしまうのだって、結局のところはじぶんの生活を組み立てるにあたっての中核が「執筆」それ自体にあるのではなくて、快楽でも欲望でも別に言葉はなんでもいいのだけれどそういう力のそそがれる対象であるところの「執筆」にあるからにほかならず、たとえ対象が移行したところでその新たな対象にそそがれる力自体はなにひとつ変わらないだろうというその意味において「執筆」から離れたじぶんの姿はたやすく想像できる。というようなことをこのあいだは書きたかったのだと思う。たぶん。知らんけど。