20130302

 形態は、二つの方向で言われるのである。形態は素材を形成し、あるいは組織する。形態はまた、機能を形成し、あるいは目的化し、機能に目標を与えるのである。監獄だけでなく、病院、学校、兵舎、工場もまた、形成された素材である。罰することは、形成された一つの機能である。看護する、教育する、調教する、労働させる、なども同じである。二つの形態は独立したものだが、(実際、看護は十七世紀の施療院とは無関係で、十八世紀の刑法は本質的に監獄と関わりがない)、現実には、一種の対応関係が存在するのである。それでは、相互の整合はどのようにして可能なのだろうか。まず素材と機能を具体化する形態を抽出するなら、私たちは純粋な素材と純粋な機能をとらえることができるはずだ。フーコーは〈一望監視方式〉を定義するとき、監獄の性格を決定する光学的なあるいは光のアレンジメントとしてそれを定義したり、また一般に可視的な素材(監獄だけでなく、工場、兵営、学校、病院など)に適用されるだけでなく、あらゆる言表可能な機能に浸透する機械としてそれを抽象的に定義したりする。それゆえ、〈一望監視方式〉の抽象的な定式は、もはや「見られることなしに見る」ではなく、何らかの人間的多様体に何らかの管理を強制することである。私たちは、次のことだけを確かめておこう。問題となる多様体は、ある制限された空間に縮小されておさめられること、そして管理の強制は、空間への配分、時間における整序、系列化、空間-時間における構成などによって実現されること……。これは未限定のリストであるが、まだ形成され、組織されていない素材、そして、まだ形式化され、目的化されていない機能、つまり一体になった二つの変数に関するリストである。この、無形の新しい次元を何とよべばいいだろうか。フーコーは、一度これに、実に厳密な名前を与えたことがある。それは「ダイアグラム」である。つまり、「あらゆる障害、摩擦の、抽象的な機能である……。そしてわれわれは、あらゆる特別な用途から、これを分離しなければならない」。ダイアグラムは、聴覚的であれ、視覚的であれ、もはや古文書(アルシーヴ)ではない。それは、地図であり、地図作成法であり、社会的領野の全体と共通な広がりをもつ。それは、抽象的な機械なのである。無形の素材と機能によって定義され、内容と表現のあいだ、言説的形成と非言説的形成のあいだに、どんな形態の区別も設けない。それが見ること、話すことを可能にするのだが、それ自体は、ほとんど無言で盲目の機械である。
 ダイアグラムに多くの機能と素材があるとすれば、それはどんなダイアグラムも、一つの空間-時間的多様体だからである。しかしそれはまた、歴史のなかの社会的領野と同じほど数多くのダイアグラムが存在するからでもある。フーコーがダイアグラムの概念をもちだすのは、権力があらゆる領野の碁盤割りを実現するようになる近代の規律社会にかかわってのことである。もしそのモデルがあるとすれば、それは「ペスト」のモデルである。ペストのモデルは病んだ都市を碁盤割りにし、どんな小さな細部にも広がっていく。しかし、古代の王権社会を考えると、別の素材、別の機能をもってであるが、やはりそこにもダイアグラムがないわけではないことがわかる。ここでもまた、一つの力は、他の様々な力に作用するのだが、組み合せ、構成するよりもむしろ、天引きすることを目ざすのである。また、細部を截断することよりもむしろ大きな群を分割すること、碁盤割りにすることよりもむしろ追放することを目ざすのである(これは「癩病」のモデルである)。この方は、異なるダイアグラム、異なる機械であり、工場よりも演劇に近い。要するに、別の力の関係なのである。さらにある社会から別の社会への移行過程として、媒介的なダイアグラムも考えられる。ナポレオンのダイアグラムはこのようなもので、その場合、「至上権の君主制的、儀式的な実践と、無限定な規律の階層的、恒常的な実践とが結合する点で」規律の機能は、君主の機能と結合している。つまり、ダイアグラムは、実に不安定で、流動的で、突然変異を生じさせるような仕方で、素材と機能をたえずかきまわすのだ。結局、どんなダイアグラムも、いくつかの社会にまたがっており、生成途上のものである。それは決して既成の世界を再現するように機能することはなく、新しいタイプの現実、新しい真理のモデルを作り出す。それは、歴史の主体ではなく、歴史の上にそびえ立つ主体でもない。それは、先行する現実や意味を解体し、これに劣らず多くの出現や創造性の点、予期しない結合、ありそうもない連続体を構成しながら、歴史を作り出すのである。ダイアグラムは生成によって歴史を追い越すのである。
ジル・ドゥルーズ宇野邦一・訳『フーコー』)



6時40分起床。極寒。8時より12時間の奴隷労働。行きは粉雪、帰りは吹雪。本日よりフードメニューが春仕様に変更。別段それほど忙しいわけでもない一日だったにもかかわらずタイミングが合わなかったり邪魔が入ったり掃除と模様替えに大張り切りの(…)さんに付き合わされたりで結局2ページ程度しか本を読みすすめることができなかった。残りものの赤ワインをひとくち軽く口に含んでみたところ顔と胃が熱くなった。酔っぱらいの表情だと(…)さん(…)さんにさんざんからかわれた。ピザをいちども食べたことがないという(…)さんがピザをいちまいとってみんなにふるまってくれた(当の(…)さんは全然お気に召さなかったようだった)。串カツをいちども食べたことがないと告げるとそれは本気で言っているのかと信じられないような顔つきで詰め寄られた。バイト志望の若い女の子が面接に来て、行きつけのスーパーで働いている子であるらしかったのでおどろいた。帰宅してからコートに積もった雪を払い落としているとき、コートに積もった雪を払いおとすというこの行為に一種のポエジーを覚えるとかつてブログに書きつけた記憶がよみがえった。かつてブログでそう書きつけたときのじぶんはやはりまたそれよりもさらに以前、同じようにコートに積もった雪を軒先で払い落としていたときのことを思い出しながらそう書きつけたのだった、そんなことまで思い出した。
数日前に(…)さんが部屋を退去した。(…)さんは部屋を二つ借りていたので、二部屋空きが出たことになる。そのうちの一室はじぶんの部屋とベニヤ板いちまいで接している。夏前にはたぶん(…)さんも出ていく。今年の春からキャンパスの移転か何かにともなって同志社の学生さんがぐっと増えるだろうから、きっと部屋が空いたところですぐに埋まることになるだろうと以前(…)さんは言っていたけれど、やかましいひとが来ないかどうか少し心配である。
『特性のない男』のありえたかもしれない続きを書いてみたい。草稿段階では失敗に終わるとされていた(と読んだ記憶がある)ウルリヒとアガーテの近親相姦が達成されるまで。あるいは善悪(道徳)の彼岸に達するべくタブーを犯すふたりという構図だけを換骨奪胎して短編を書くとか。