20130303

(…)ダイアグラムは、統合されることのない内在的原因、しかも社会的領野の全体と共通の広がりをもつ内在的原因として作用するのである。抽象機械は、この機械の含む関係を実現する具体的アレンジメントにとっては原因のようなものである。そして、力の関係は、それが生み出すアレンジメントの「上側ではなく」、その織物のなかを通るのである。
 内在的原因とはこの場合何を意味するのだろうか。それは、その結果において現実化され、その結果に統合され、その結果において差異化されるような原因である。あるいはむしろ内在的原因とは、その結果が原因を現実化し、統合し、差異化するような原因である。だから、原因と結果、抽象機械と具体的アレンジメント(フーコーはおおむねこれに「装置」という名をあてている)との間には、相関性、相互的前提が存在している。結果が現実化を行なうというのは、力の関係あるいは権力関係は、その流動的な素材と拡散した機能に一つの形態を与えうる、目に見える集合に入らないかぎり、どこまでも潜在的、可能的、不安定で、消えやすく、分子的なままであり、ただ相互作用の可能性、確率性を定義するだけだからである。しかし、現実化はまた統合作用であり、最初は局所的、ついで包括的になる、あるいは包括的になろうとする漸進的な統合作用の総体であり、力の関係の整列、等質化、総和などを実現する。法は、不法行為の統合にほからない。学校、作業場、軍隊……などの具体的アレンジメントは、特徴づけられた実体(子供、労働者、兵士)や目的化された機能(教育など)に対して統合作用を及ぼし、〈国家〉にまで、あるいは場合によっては世界的な〈市場〉にまでいたって、包括的な統合をめざすのである。結局、現実化-統合作用は、差異化にほかならない。現実化されつつある結果が至上の〈統一性〉であるからではない。逆に、ダイアグラムの多様体が現実化されることも、力の微分積分されることも、様々な経路にそれらが踏み込み、二元論に配分されたり、差異化の線をたどったりするときはじめて可能になるからだ。このような差異化の線がなければ、すべては原因が実現されないで拡散した状態にとどまってしまう。現実化は、二重化あるいは分離によって、また様々な形態を創造してその間にみずからを分割することによって、はじめて実現されるのだ。だから、まさにここで、階級や、統治されるものと統治するもの、公的と私的といった二分法が現われることになる。しかし、さらにまたここではじめて、二つの現実化の形態が、分裂し、差異化するのだ。表現の形態と内容の形態、言説的形態と非言説的形態、言表可能なものの形態と可視的なものの形態というふうに。内在的原因は、その素材においてもその機能においても、形態をもたないからまさに、ある中心的な差異化にしたがって現実化されるのである。この差異化が、一方で可視的な素材を形成し、他方で言表可能な機能を形式化することになる。可視的なものと言表可能なものとのあいだには、ある裂け目、ある分離がある。しかし、この形態間の分離は、無形のダイアグラムが滑りこみ、二つの方向に具体化されるような場所となる。フーコーはこれを「非場所」と呼ぶのだ。そして二つの方向は必然的に分散し、差異化し、たがいに還元不可能である。だから、具体的アレンジメントは間隙によって引き裂かれ、抽象機械はこの間隙にしたがって実現されるのである。
ジル・ドゥルーズ宇野邦一・訳『フーコー』)



4時起床。朝食&洗濯。5時から「偶景」作文。2つ追加して計150枚。8時から12時間にわたる奴隷労働。つまみ食いの鬼と化す。あまりの花粉の多さに室内での勤務中もマスク装着。目がかゆいし鼻がむずむずする。薬をもう少し強くしたい。(…)さんから悪企みのお誘いがあったので了承。帰宅。入浴。夕食はなし。(…)さん(…)さんを自室に迎えた22時半、えげつない夜の開幕。閉幕の記憶などむろんない。シェムリアップの夜にふたたび出くわした。そう、たしかにこの重さ、この鈍さ、この遠さだった!