20130408

偉大な法というものは、うるさいことは何も言わずにただ吸収し放出する
ウォルト・ホイットマン/酒本雅之・訳『草の葉(下)』)

耳に聞こえるこのことを、わたしは誰にも語ってやれない――わたし自身にさえ語ってやれない――まったくもってすごいもんだ。
ウォルト・ホイットマン/酒本雅之・訳『草の葉(下)』)



10時前起床。7時にめざましをセットしていたはずだったのだが、余裕の寝坊。二日連続であまり寝ていなかったのだからまあ致し方ない。朝から水場で(…)さんと良い天気ですね、良い天気ですけど花粉が多いのが厄介ですね、などと話し合う。(…)さんはしょっちゅうくしゃみしている。いちどくしゃみするとなぜか平均してその後七回から八回は連続でぶっ放すのが、おもての戸越しに自室にいてもよく聞こえてくる。
11時より自室にて「偶景」作文。15時半まで。5つ追加して計158枚。本当はあと2つ追加したかったのだが、ものの見事に力つきた。「邪道」を執筆する困難を避けるようにして「偶景」にすがりついている。無謀な小説を書きはじめた当初はこの無謀さも執筆を重ねていくうちにすり減りいつかは急所をつかむことができるにちがいないとの見込みをつけていたのだが、それでいていざじっさいに年月を重ねてみれば、無謀さはますますその無謀さを増すばかりでいっこうに付け入る隙など与えてくれない。こんなものを本当に書きあげることなどできるのか。身の丈に合わないことばかりしている。しかしそうでもしないといつまでたっても背丈は伸びない。伸ばす必要などない?そういう意見もあるにはあるだろうが、こちらとしてはやはり巨人になりたいという野心がある。
部屋着の使い魔として生鮮館に買い出し。帰宅してから水場で夕飯の支度していると、(…)さんから声をかけられたので、ちょろっと立ち話。できあがったばかりの俳句五十首の書き連ねられた用紙を受け取る。感想は夜にでも話しますと約束。
夕食をとりながら映画。ニコラス・レイ『理由なき反抗』。父との葛藤が三者三様のバリエーションで語られる序盤の展開にはわりとまじめにうんざりさせられたが、終盤の疑似家族計画にたいする下準備であったのかと思えば、その図式性にも一理ありとの納得がつきまとう。震える子供にジャケットを貸す父親の像の三度にわたる反復なども、(アメリカの)父の主題に絡みつくことでそのあざとさを一種の効果として味方につけているといえる。親しくしていた男をチキンレースで亡くした同日にたちまちジェームズ・ディーンに鞍替えするジュディ、あるいはプレイトウの死という決してハッピーエンドではないクライマックスにおけるジェームズ・ディーンの両親が浮かべる微笑など、ご都合主義のひとことでかたづけるにはあまりに不気味といっていい死のかえりみられなさなどもあわせて考えれば、精神分析に好都合なモチーフを見出すことができないわけでもなさそう。チキンレースの号砲役をになった自らの両側を車両が駆け抜けていくなりそちらの方向をふりむいて子供っぽく走り出すジュディのおおげさな仕草が印象に残った。
続けて大島渚『愛と希望の街』。良かった。白痴の妹の手のひらにかこわれた鳩のクローズアップが示すブレッソンばりの即物性。靴みがきをする母親の手の動きの俊敏さ。レストランの食事のシーンで流れるモーツァルトのディヴェルティメント。ブルジョワ一家の食卓シーンをとらえたショットに、おなじ構図おなじカメラの位置を保持しながらもそれよりもややズームしたショットを続けてモンタージュする奇妙な接続(御丁寧にもカットが割られているにもかかわらず地続きであるセリフからその切断と再結合にはいかなる時間的飛躍もないことがわかる)。
映画を見終えてしばらく、実にひさびさとなるジョギング。左足をくじいて一週間の休養、首をいわしてしまってさらに一週間、帰省により一週間の、計三週間ぶりとなるジョギングであったが、思っていたよりもずっと身体が動いてくれた。かなりゆっくりめに走ったつもりだったのだが、それでもたった25分ですんでしまった。
入浴後は(…)さんの俳句を読む。文句なしに良い句と部分的に良い句をメモし終えたところで、まだ起きてますかと(…)さんに連絡すると、いま外にいるから1時までには帰るよとあったので、英語の勉強をして残り30分を潰す。(…)さん到来。なんだかんだで(…)さんを部屋に招きいれたのははじめてのような気がする。俳句の話題からバルトの『偶景』とじぶんの「偶景」へ、投げ瓶通信の譬喩からかぶれさせる力=感染力を有するものとしての芸術の話など、二時間ほどいろいろと交わす。俳句はおもしろい。五・七・五のフォーマットがあるからこそ実現可能な豊かさというものがたしかにある。最初の五と七の間に一種の断絶をもうけるパターンというのがKさんの作品のなかにはいくつか見られて、これは本来はつながらないと思われているものでもモンタージュしてしまいさえすれば必ずつながってしまうという映画の原理と要するに同じことだと思う。本来は同居不可能と思われるものでも五・七・五のフォーマットに落としこんでしまいさえすればたやすく同居できてしまえるその柔軟性がむしろ狭隘で窮屈で制限の側から語られがちなフォーマットというものの肯定的で生産的な面であり、おなじことは十七字という文字数の少なさゆえにたった一字の一見すれば極小としかいいようのない差異がしかし複雑系のごとき極大の変化へとつながる印象のダイナミズムにもあてはまる。というようなことを話していると、正岡子規の手法であったか、最初の五で遠景を描写し残りの七・五で超近景を描写するというかたちで俳句をつくるとおもしろいと(…)さんはいって、なるほどなと思った。(…)さんの祖父が関西ではかなり有名な歌人若山牧水やら与謝野鉄幹やらと親交があったという話は以前にも聞いたことがあったのだけれど、その祖父とは別の親戚のじいさんに絵描きのひとがいて、そのひとはなんとパリでマティスに画を習っていた(!!!)のだという(日本にフォービズムを輸入するにあたって重要な役目を負ったひとらしい)。さらに小林秀雄の遺影を描いたとかその界隈のひとたちと頻繁な交流があったとかいまでも彼彼女らから送られてきた手紙の類いが残っているだとか、なんかすんごいエピソードのオンパレードで、しかし何よりも衝撃的だったというかショックを禁じえなかったのはうちの大家さんがどうも大の女嫌いであるらしいというぜんぜん関係ない情報で、八月いっぱい(…)がこの部屋に滞在することになるかもしれないと告げると、いやそれはかなり厳しいんちゃうかなとあって、大家さん女の子のこととかあんまりよく思わへんからね、「あの女」みたいな呼び方するから、ほら、ここ学生さんが多いでしょ、それでちょくちょく女の子とかも遊びに来たりするとね、そうすると愚痴っていうんじゃないけども、まあ、「あの女が……」みたいなね、古い時代のひとやし妊娠がどうのとかそういうのにもいちおう、ねえ、こう、子供さんあずかってる身としてきっちり管理せんとっていうのがあるんかもしれんけど、まあ良い顔はぜったいせえへんと思うよ、とあって、あいたー!この展開はノーマークだった!(…)さんの彼女が遊びに来ていたときはどうだったんですかとたずねると、まあ部屋の出入りは頻繁になったよね、全然いらんもん持ってきたりしたし、とあって、なんにせよ京都っていちおう外国人むけのゲストハウスとかあるし、ひと月三万くらいでなんとかなるだろうからそっち移ってもらったほうがいいんちゃうかな、という提案があったのだけれど、しかし部屋を提供するとすでに約束してしまっているし(…)もそれをいろんな意味で頼りにしているだろうし楽しみにしてくれてもいるのだろうから、そしてそれはじぶんも同様なので、とりあえずなんとかうまいこといって大家さんを説得するか買収するかして無事に事を運びたいのだけれど果たしてそううまくいくのだろうか。などと考えているとだんだんめんどうくさくなってくるところがあるというか、一ヶ月ものあいだまともに読み書きできなくなるだろう見込みも去年の夏とおなじでのちに糧となりうる稀な経験のための犠牲と考えるようにして納得していたつもりだったのがぐらつきはじめ、ホストをつとめると約束したからにはもうちょっとしっかり英語をしゃべれるようにしたほうがいいだろうから勉強しなければという今日ふたたびかためたばかりの決意もすでにぐずぐずに溶解しはじめている(習慣化の得意なはずのじぶんが唯一まいにちの時間割に導入するのを手こずっているのが英語の勉強だったりする)。(…)自身やっぱり日本に来るのはやめることにするといつ言い出すものかわかったものでないしひとまずは様子見することにして、大家さんに頼みこむというか事前通知するのは航空チケットを買ったと連絡があってからでいいかと思うのだけれど、一ヶ月間の滞在といえばちょっと長すぎるように聞こえなくもないだろうからだいたい二週間くらいと誤摩化しておいたらまあなんとか無理も通るかもしれないというか、実際問題(…)のことだから同じ場所に一ヶ月も滞在するなんてぜったいにできないと思うのでたぶん二週間もしないうちに退屈してよその県にふらっと出て行くか町歩きの途中で知り合ったひとのうちに宿を移したりすることになるだろうと、そうなることを織り込み済みでこちらも一ヶ月だろうとなんだろうとオーケイだと了承したところも薄情ながらあるにはある。