20130410

それから誰だ地球を賛える賛歌の作者は、ぼくは実は地球全体を賛える歓喜の賛歌が作りたくて、苦しいぐらいの恍惚感に頭がおかしくなりそうなんだ。
ウォルト・ホイットマン/酒本雅之・訳『草の葉(下)』)

女たちにはわたし自身をあれこれと囁き声で伝え遺すが、実は彼女たちの愛情のほうがもっと明瞭なわたし自身の説明になる、
ウォルト・ホイットマン/酒本雅之・訳『草の葉(下)』)



10時半起床。きわめて象徴的な夢を観たはずだったが忘れてしまった。12時より「邪道」作文開始するも30分でとりやめ。自室の窮屈さに耐えられない。背中も痛いし頭も働かない。「偶景」はまだしも「邪道」を書くにあたっては花粉だの何だのいってないでなるべく外に出て作業するようにしたほうがいい。でないと気が滅入ってくる。風通しの悪い一室で風通しの悪いテクストを延々と書き連ねていればおのずと頭がわやになるというものだ。
執筆をあきらめて16時半までDuo3.0に励む。ネット上にあるボキャブラリー診断テストみたいなのを試しに受けてみたらTOEIC600〜700点の間らしい。平均的な大卒の語学力だという。センター試験満点でだいたいTOEIC600点という換算が成立するらしいので、ようやく大学受験時の位置にもどってくることができたとひとまずはいえるのかもしれない。ただじぶんの受験勉強はそれこそ三単現のSがうんぬんかんぬんのパッパラパーの位置からものすごい短期間での詰め込み方式だったのでなにからなにまでぜんぜん血肉になっておらず完膚無きまでに短期記憶であり(その証拠に大学を卒業する年だったかにたまたま新聞に掲載されていたその年のセンター試験の問題を見てみたらほとんどまったくといっていいほどわからなかった)、それを思えば頻繁な中断をはさみながらもどうにかこうにかちょこちょこやっている今のほうが地力はついているといえるかもしれない。と、ポジティヴに考える。というかやはり異国でのひとつきにわたるマンツーマンレッスンがでかかった。夏までにもうちょいマシになっておきたいものだが、このモチベーションがいつまで続くものか、はなはだ頼りない。そうこうしているうちにamazonから『The Collected Stories of KATHERINE MANSFIELD』が届く。スピーキングは(…)、リーディングはマンスフィールドという2013年夏の布陣。書いてるそばから頼りない。義務感が欲望に転じてくれない。やりたいことしかしたくない。あいつが日本語をしゃべればいいのに。
生鮮館に買い物に出かける。筋肉を酷使し、夕食の支度を整える。最近は鮭のアラばかり買っている。原発事故があって以降ぜんぜん魚を食わなくなったのだが、外国産のサーモンならまあ大丈夫かというアレでお世話になっている。仮に内部被爆による健康被害が目に見えるかたちで浮上することがあったとして、そのときはもちろん国や東電にたいする訴訟はガンガン起こされるだろうし起こされてしかるべきだと思うのだけれど、それとは別の一種の国民感情として、農業や漁業を営むひとたちにたいするバッシングが起こるんでないかと、いまの日本を見ているとそう思わざるをえないところがあると、わりと震災直後からずっと考えていて、その懸念についてはたぶんここにも何度か書いたことがあるように思うのだけれど、それに加えて今日おもったのは、健康被害者にたいして自己責任の論理がふりかざされることになるかもしれないという新たな懸念で、それはとてもありえそうに思われるから、考えただけで暗澹とする。あれだけやばいやばいといわれていたのに政府や大手マスメディアの情報を鵜呑みにしたおまえらのほうにも非はあるだろうが、みたいな論理が大手をふってまかりとおるような近未来が、おそろしく鮮明かつ明瞭に想像できてしまえる。おもえばイラクの人質事件は象徴的だった。現在につながる非寛容の空気があの事件を契機にいっきに前景化した感がある。こういうことを考えていると、とても気が滅入ってくる。あのころは健康被害がどうのこうのってみんな騒いでいたけれどすべて杞憂だったね、データのない未曾有の事件だったから不安もあったけれど蓋をあけてみればなんてこともなかったねと、そんなふうな笑い話で片付けられてしまうような未来が控えていればすべて問題なしなのだけれど、と、あまったるい期待にすがりつきたくなることもときにはある。低い位置での足の引っ張り合いばかりが目立つ国だ。
食後、仮眠をとろうとして布団にもぐったところで(…)さんから電話があり、(…)くんがスーツを買った店ってどこにあるの、とたずねられたので、(…)さんすんごい高くていいやつもっとるのに、と応じると、いやツレが裁判で着やなあかんもんでな、とあった。くわばら、くわばら。
安らかな仮眠をとり、熱い湯を浴びて22時、とどのつまりの自室待機で、『The Collected Stories of Katherine Mansfield』から“Prelude”を読む。これマンスフィールドの作品の中でいちばん好きなもので、翻訳を金閣寺マクドナルドの二階席で読んだ日の衝撃はいまでもはっきりと覚えている。あまりのすばらしさに胸がいっぱいになってしまい、続けてほかの作品を読む気になれず、その場でポメラを取り出して感想を書きつけたのだった(いまからだいたい一年半前のことらしい→(…))。ひとまず半分ほど読みすすめる。Joyceを読んでいたときよりもずっと語彙がやさしいので比較的楽に読み進めることができる。知らない単語はわりとたくさん出てくるけれども前後の文脈から判断すれば辞書なしでもいけなくはないくらいのレベル。いちおうは勉強という名目でやっているところもあるのでけっこうまめに引きながら読みすすめているのだけれど、それにしてもバーネル家が舞台のこの一連のシリーズはすばらしい。スタンリーの単細胞っぷり、リンダの陰、おばあちゃんの半端ないおばあちゃんっぷり、ベリル叔母の滑稽と哀切、いじわるなイザベル、かわいいロティ、そしてしずかにおとなびた愛らしいキザイア。完璧。完璧な小説の登場人物たち。

‘Where are we now?’ Every few minutes one of the children asked him the question.
‘Why, this is Hawk Street, or Charlotte Crescent.’
‘Of course it is,’ Lottie pricked up her ears at the last name; she always felt that Charlotte Crescent belonged specially to her. Very few people had streets with the same name as theirs.

Lottie当人のセリフに続いてLottieを主語とする地の文が連なり、代名詞sheを主語とする文章へと移行し、そしてvery few peopleという抽象的な集団を主語とする文章においてしめられるこの一連のくだりの、先へ進むにつれてしだいにLottieから遠ざかり匿名的な位置へともどりつつある語りが、「通りと同じ名前を有するひとびとがごくごく少数ながらいるものだ」といかにも子供らしい一文において不意に、そのきわめて些細な語るに足りぬ「真理」の内容といい、胸を張って誇らしそうにみえる「断言」の形式といい、Lottieの残像を宿しているとしかおもえぬ声を発するこの特権的な瞬間。自由自在に登場人物の内部から外部へと位置取りを変える語り手の、語る対象の輪郭線をつきやぶって侵入してはおなじくつきやぶって脱出するその破壊的な絵筆のごとき動きによって、語られるものたちの内部がわずかに外にはみだして尾をひくこの感じ。主語と語りのぎこちない、それであるがゆえにときにきわめて美しくもある、奇蹟的に偶然な共犯関係。すばらしい。
じぶんの知るかぎり子供を描くことに成功した作家は中勘助マンスフィールドだけだ。
2時半より4時半まで「邪道」作文。プラス2枚で計445枚。作風が作風だけにどのみち長い時間をかけたところで麻痺するのがオチなのだからこれからしばらく、こと「邪道」の執筆にかぎっては一日の最後、その日のあまった時間でやりくりするというこれまでとは正反対の方針を試してみることに決めた。