20130412

 そこでバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァージャは、尊き師にいった、「すばらしいことです、ゴータマ(ブッダ)さま。すばらしいことです、ゴータマさま。あたかも倒れた者を起すように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』といって暗闇の中に灯火をかかげるように、ゴータマさまは種々のしかたで理法を明らかにされました。だから、わたくしはゴータマさまに帰依したてまつる。また法と修行僧のつどいに帰依したてまつる。わたくしはゴータマさまのもとで出家し、完全な戒律(具足戒)を受けたいものです。」
 そこでバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァージャは、師のもとで出家し、完全な戒律を受けた。それからまもなく、このスンダリカ・バーラドヴァージャさんは独りで他から遠ざかり、怠ることなく精励し専心していたが、まもなく、無上の清らかな行いの究極――諸々の立派な人たち(善男子)はそれを得るために正しく家を出て家なき状態に赴いたのであるが――を現世においてみずからさとり、証し、具現して、日を送った。「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。そうしてスンダリカ・バーラドヴァージャさんは聖者の一人となった。
中村元・訳『ブッダのことば―スッタニパータ』)

 このように説かれたときに、一人の修行僧が師に告げていった、「尊いお方さま。紅蓮地獄における寿命の長さは、どれだけなのですか?」
「修行僧よ。紅蓮地獄における寿命は実に長い。それを、幾年であるとか、幾百年であるとか、幾千年であるとか、幾十万年であるとか、数えることはむずかしい。」
尊いお方さま。しかし譬喩を以て説明することはできるでしょう。」
「修行僧よ。それはできるのです」
中村元・訳『ブッダのことば―スッタニパータ』)

キリストもブッダもみんな比喩が巧みだ。言葉それ自体が現実の比喩なのだ。一語一語が逃れがたく比喩である。



11時半起床。洗濯。金曜日の過ごし方にはいつも戸惑いがつきまとう。翌日は早起きしなければならないので仮眠がとれない、となると夜の時間はパフォーマンスが著しく低下する、その不完全な時間をいったい何に割くべきなのか、ということを起き抜けにまず考えなければならず、それに応じて時間割を微調整する必要が出てくる。平日眠りにつく時間が休日起床する時間である。こういうとなにか箴言風でもある。平日(非出勤日)と休日(出勤日)の混線がまたまぎらわしい。
18時半まで延々とDuoる。今日もよく冷える。風が強いためにか花粉がよく飛んでいる。自室待機の日々が続くとコーヒーの減りがえげつないことになる。一日10杯は飲む。この三日間で30杯は飲んだことになるだろう。
生鮮館に買い出し。帰宅後、筋肉を酷使する。ジョギングに行こうかどうか迷ったが、やたらと冷えるし花粉は多いし、それにぶっ通しの勉強に疲れてどうも身体の動く気がしなかったので(本当はこういうときにこそむしろ身体を動かして脳みそに風を入れるべきなのだろうが)、米を炊くひと手間すら疎んじ、なにかのタイミングで買ったはいいものの食べそびれていた担々麺を米のかわりにして夕飯をとった。
あすの朝は早いので仮眠はとらず入浴をすませる。パフォーマンスの低下する金曜日の夜というこの時間を(…)とのスカイプにあてればすべてが丸くおさまりうまく回転しはじめることに気づいたので早速ログインしてみたのだけれどいない。部屋にいるときはなるべくスカイプにログインすると交わした約束も即日から破り通して今にいたる。このタイミングでスカイプしておかないとまた平日の貴重なひとときを奪われることになってしまうと最低な計算が働いてしまうのをどうしても殺すことができない。自己嫌悪が足りない。最低な計算とかいいながらたぶん本当はぜんぜん最低だなどと思っていない。じぶんのことを卑下する能力に欠けているくせに卑下の感をなにものかにたいする弁明のように表明してみせる。これは方向性の狂った見栄とでもいうべきものだろう。