20130416

捧げ物と、捧げ物を置く石と、捧げ物を供える人――この三つが同じ一つの存在から出てくるものであることが、私にはわかっている、私はそれを身をもって知っている。
マルティン・ブーバー/田口義弘・訳『忘我の告白』より「ラーマ・クリシュナの言葉」)

 結婚するようにとハサン・バスリーに警告されて、ラービアは語った、「私の存在はもう長らく結婚のような関係によって結ばれています。だから申しますが、私の存在は私のなかでは消えて、あのかた(神)のなかでよみがえっています。そしてあのときから私はあのかたの力のなかで生きているのです、そう、私はすっかりあのかたなのです。このような私を花嫁に望むかたは、私を望むのではなく、あのかたを望むことになるわけです。」どのようにして彼女がこのような段階に達したのか、とハサンは彼女に訊ねた。「私が見いだしたすべてのものをあのかたのなかに失う、ということによってです」と彼女は語った。「どのようにしてあなたはあのかたを知ったのだ?」とハサンがさらに訊ねると、「おお、ハサン! あなたはある決まった仕方でものを認識されるのですね、けれど私は仕方なんぞなしにいたします。」
マルティン・ブーバー/田口義弘・訳『忘我の告白』より「ラービアについて」)



夢。(…)と外食の約束を交わしている。店で落ち合う段取りである。店に到着するとすでに(…)の姿がある。広く細長い和室である。開け放たれたふすまのむこうには縁側と庭園がのぞめる。夜である。部屋のかたちと相似形の背の低い机の上に鍋がひとつぽつんと置いてあり、(…)はそれに面するようにして座布団のうえに尻を落ち着けている。遅くなったと告げると、おれ授業とちゅうで抜けてきたしなと返答がある。(…)もじぶんもすでに高校生でもなければ大学生でもないはずなのにこのやりとりはおかしい、と違和感がよぎる。
11時半起床。8時にセットした目覚ましでいちど起きたはいいものの、スカイプなんて別にいつでもできるもんだろうよ、と二度寝する。(…)に謝罪メールを送信し、13時半より15時半までDuoる。きのうの今日でこんなことをいうのもアレだが、いいかげん飽きてきたな。たとえ勉強としての効率が悪くとも洋書をバカバカ読み進めるほうがじぶんの性には合っている気がする。
レッドブルをキメてカフェインたっぷりのガムを購入したのち同志社の寒梅館へ。ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー『13回の新月のある年に』と『ケレル』。前者は非のうちどころのない傑作。これまでに観たことのあるファスビンダー作品の中でいちばん面白かった気がする。とくに食肉工場の解体作業を背景にして元ネタが何なのかはわからないけれど何かの戯曲のセリフを一人二役絶唱しつづけるあの序盤のシークエンスはやばかった。頭をガツンとやられた。これはもう駄目だ、参った、完璧だ、と諸手をあげた。キャンドルのゆらめく地下室のような一室でゲイの男性が語る夢で見た墓場のくだり(そこで目にすることのできる墓碑に刻まれている生年から没年までの年月はどれほど離れていてもせいぜい二年程度でしかない、墓場にいた管理人らしき老人に事情をたずねてみると、墓碑にきざまれているのは生年と没年ではなくそのひとが本当の友人を持っていた期間であるとの説明が返ってくる)もやばかったし、たしかオリヴェイラのなんかの作品だったように思うけれど、そのなかでワンカットだけ舞台として映し出されていたのと瓜二つというかまったく同じロケ地なんではないかと思われるとても美しい教会の回廊でくりひろげられるエルヴィラ/エルヴィンの出生の秘密がシスターの饒舌によって語られるくだりなんかもすばらしく、ほかにも赤いあやしげな光がたっぷりと間を置いて点滅するビルの一画にて首つり自殺をこころみる男が語る「意志」についての挿話(さながらドストエフスキーの小説の登場人物であるかのような思想とたたずまい)であったり、そのビルの社長室というにはあまりに殺風景な一室にてくりひろげられるこの作品の白眉といってもいいかもしれない爆笑ものの、しかしやたらと胸にせまりくるダンスシーン(古いテレビ画面に映し出される女学生(?)たちのダンスをなりふりかまわぬ全身全霊っぷりで真似ることによる女性化の儀式)であったり、くりだされる挿話のひとつひとつがどれもこれも圧倒的な魅力に横溢していて、たとえば終盤でカフカの『城』にたいする言及があったりもするそのことにひきつけていうならば、ほとんどカフカ的な連鎖性とでもいうべきものに則って挿話から挿話へとシークエンスの移動していく水平性の感触があるのだけれど、ただそれでいて(たとえば『アメリカ』のごとく)ある挿話と次なる挿話とがほとんど完璧に独立した無関係性によって逆説的に関係しているというほどのアレでもなく、挿話の内容にせよ挿話から挿話への手続きにせよ、いくらか荒唐無稽であったり飛躍やブランクがさしはさまれていたりはするものの、基本的には性(ジェンダー)と実存(これらはファスビンダーにとってはほとんど同義語だ)周囲を経巡るものになっていて、ひとつのシークエンスにつきひとつの舞台が用意されひとりの人物が現われてひとつづきの言葉が語られるという大雑把な見取り図を踏襲していうならばこの作品はある種「巡礼」の形式をとっているともいえるかもしれない。ほかにもカフカとの関連でいうならばやはりあの「門番」の存在に言及しないわけにはいかないだろうし(「門番」が登場するシーンはひとつの例外もなくすべてがカフカ的な様相をおびる、たとえば正しい合い言葉を前にしたときの手のひらを返したような態度であったり、あるいは緊急事態にもかかわらず持ち物検査をすると言い張ってやまぬ頑なその使命感とそのような門番の態度をなにひとつ不自然であると思わないどころかむしろ当然と見なしているかのごときほかの登場人物らの態度から逆照射されて見えるその特権性)、あとは音楽の使い方もかなり特徴的だった。さまざまな音楽をこれでもかというくらい多用しているにもかかわらずまったくもって下品でない。ゴダールのように「楽曲」を「(効果)音」のごとくぶつぎりにして「鳴らしている」のではなく、楽曲を楽曲のままにきちんと「流している」にもかかわらず、ぜんぜんうるさくない。このバランス感覚は特筆すべきものだと思う。
ケレル』のほうはジュネの原作ありきで展開されるという束縛があるがゆえに前者のようなぶっ飛び具合を期待すると肩すかしを食らってしまうけれども、ケレルがはじめてオカマを掘られるシーンのほとんどギャグかよみたいなキラッキラに美化された官能性(これはアラン・レネ『戦争は終わった』におけるナナとの性交シーンの記憶に結びつく)であったり、殺人犯とお別れるするまぎわのケレルが隠れ家代わりの路地を右往左往する姿を天井の高さの上空から俯瞰して映しとったシーンであったりが印象に残った。ケレルの兄(名前忘れた。ロベール?ロバール?)役の俳優のだらしのない色気と男前っぷりに魅入られかけたが、劇中さいごまで同性と関係を持たずにいる唯一の主要人物がこの兄であったりするというのは奇妙な皮肉だ。あと『ヴェロニカ・フォスのあこがれ』で散見せられた過剰なハレーションはこの作品にも認められた。
『13回の新月のある年に』と『ケレル』の両作ともにアーケード機のレースゲームが登場し、そのプレイ画面が映し出されるのだけれど、そこで頻繁にくりかえされる車両のクラッシュは『マリア・ブラウンの結婚』のクライマックスと響き合う。じつに不気味だ。重苦しく痛ましく救いなどかけらもないカタストロフィの予感(そこにはゴダール『軽蔑』のような無言の詩情も凍てついた感傷も認められない)。
同志社からの帰り道、(…)さんから着信があったらしいことに気づいたので折り返し電話すると、平日やのにごめんな、作業中やろうに時間とらせてしまって本当に申し訳ない、といつものご挨拶。今度の日曜日にまた(…)さんと三人で集まろうという話だったので了承する。(…)さんの誕生日が近いためそれのお祝いも兼ねてのアレになるらしい。ということはプレゼントを用意せねばなるまい。(…)さんの属性といえば、ヒップホップ、右翼、ヤクザ、××××、の四つである。××××にまつわるものは用意するのに手間とリスクがかかるし、右翼的なアレはじぶんの倫理にもとる。というかこのならびからすればもはやヒップホップ関連以外のプレゼントは考えられないわけなのだが、かといってじぶんよりもずっとヒップホップに詳しい(…)さんにコンピレーションCDなど焼いてプレゼントするのもさしでがましい話であるし、となればここはひとつ同じストリート文化つながりで、バンクシーの画集というか作品集みたいなものをさしあげるのがまあ無難かなぁという気がするのだけれど、なんとなく、すでに持っているんでなかろうかという気がせんでもない。北野武ソナチネ』のDVDとかでもいいかもな。まあ適当に考えよう。
帰宅後、生鮮館に買い出し。筋肉を酷使し、夕飯をかっ食らい、熱い湯を浴びる。兄に結婚式の写真を送るのをすっかり忘れていたのでデータを焼いたCD-Rを封筒に詰めて西陣郵便局に向ったのだけれど閉まっていて、窓口は24時間営業だったはずなのにと思って自動ドアにはりつけられた営業時間の記された表をたどってみると営業時間変更のお知らせみたいなのが見つかり、それによると24時間営業から24時まで営業に変更になったとのこと。これ覚えておかないとまたぎりぎりで原稿を投函することになったときなどけっこう危ない気がする。とんだ無駄足を踏んだ。とんだ無駄足を踏んでおわるのはいけすかないので帰路に(…)にたちよってパンの耳を回収した。それから夏めいた一日の終わりに喉が乾いてしかたなかったのでフレスコに立ち寄り贅沢にも2リットルのお茶とウィルキンソンジンジャエールを購入した。ジュースの類はふだん滅多に飲まないのでめずらしいことだといえる。
2時前より3時半まで「邪道」作文。プラス1枚で計448枚。とちゅうまで良い具合であったのに眠気にはばまれた。眠るまえの空き時間を作文にささげるという時間割変更がすでにけっこう耐えがたい。もっと思う存分書きたい。そして英語の勉強はつまらない。