20130419

 それから師は私に、眼をあけるよう命じられた。そうすると私は、私の前に坐る師の姿を肉体の視覚でもって観た。彼が新たにまた私に目隠しをされると、今度は私は同じように坐る師の姿を、私の精神の視野のなかに観た。驚きにみたされて私は叫んだ、「おお、師よ、私が肉体の器官によって眺めようと、精神の視力によってそうしようと、私が観るのはいつも同じあなたです!」
マルティン・ブーバー/田口義弘・訳『忘我の告白』より「モッラー=シャーの弟子テヴェクール=ベグの告白より」)

 私たちはキリストの肢体、キリストは私たちの肢体である(コリント前一二・二七参照)。そしてもっとも貧しき者であるこの私の手がキリストであり、私の足もキリストである。そして私が、このもっとも貧しき者がキリストの手であり、キリストの足である。私は動かす、手を――またキリストを。というのは、彼はまったく私の手なのだから。きみは理解せねばならない、神性とは分たれていないものであるのを。私は足を動かす――それは彼のように輝く。私が神を冒涜しているなどとは言わないで、このことを保証してほしい。そしてきみをそのようにさせたキリストに向って祈るがいい。というのは、きみもまた、もし欲するならば、彼の肢体になるだろうから。そして私たちすべての者のあらゆる肢体はキリストの肢体になり、キリストは私たちの肢体になり、そして彼はあらゆる醜いもの、不格好なものを彼の神性の壮麗と名誉で飾って美しく、形よきものにするだろう。そして私たちはみなともに神になり、神と親密に合一し、いかなる汚点をも私たちの体に認めることなく、キリストの完全なる体にまったく似たものとなって、だれもがみなまったきキリストをもつだろう。というのは、一者は、多とはなっても、分たれずに一者であり続けるからだ。しかも、あらゆる部分がみなまったきキリストなのである。
マルティン・ブーバー/田口義弘・訳『忘我の告白』より「新神学者シメオン」)



11時起床。瞬間に英作を文し続けて17時。(…)さんの誕生日プレゼントを探すべく最寄りの書店を二軒めぐる。当然のことながら美術関係の書籍というか画集のたぐいはやはりある程度専門的なところか大型書店にでもいかないとなかなか売っていない。ウィリアム・モリスのパターンデザイン集みたいなのがあっていいなこれーという感じでぺらぺらめくっていたのだけれどたぶん(…)さんの趣味ではない。やはり明日仕事を終えてから新風館ヴィレッジヴァンガードにでも立ち寄ってバンクシーのやつを買うのがいちばん無難だろう。
生鮮館で買い物して帰宅。筋肉を酷使し、そのままジョギングに出かける。起きてすぐにパンの耳を二枚食ってあとはひたすらコーヒーをがぶ飲みしつづけただけの内臓はからっぽで絶賛空腹中だったのだけれど、するとびっくりするくらい息が切れるし身体も重い。エネルギーを捻出するのにものすごく苦労しているらしい肉体の苦労がしのばれる。ゆえにいつもよりやや短い距離ですませる。熱い湯を浴びて、夕餉をかっ喰らい、眠気と悪戦苦闘しながら延々とDuoっているうちに日付変更線。いちにちがあっという間に終わる。
(…)の見立てによるとじぶんはすでにTOEIC700点くらいの力はあるらしい(ほんまかよ)。ボキャブラリーが少なかろうがなんだろうかあんたならお得意の長文読解でそのくらいは稼ぐだろう、と(ただ、じぶんの読解は大学受験のころからすべてフィーリングというかなんとなくというか、要するにすべて勘なので受験英語でないアレに本当に通用するものなのかどうかはなはだあやしい)。しかしながらいま重要なのはあくまでも英語でたのしくおしゃべりをすることができるか否かである。読み書きはこのさい捨てる、その決心がきのうあたりようやくついた。リスニングの鍛え方をたずねたらコメディを観るのはけっこう効果的だという返事があって、これは(…)もまったく同じことをいっていた。ただ三ヶ月という短期間で考えるのならばやはりリスニングよりもスピーキングを鍛えるべきだろうといわれて、やっぱりそうだよなと、これもきのう床に着いてから考えていたことを裏書きする意見だったので、よし!と腹がきまった。三ヶ月では多くは望めまい。ゆえにひたすらスピーキングに特化して鍛えることにする。リスニングはアレだ、目を見て顔を見て身振り手振りをともなって話す当人を前にしたらたぶんどうにかなるものだ。じっさい去年の夏はどうにかなったのだし。どうせならブログも英語で書けばいいじゃないかといわれたのだけれど、それもけっこう本気で考えていたりして、ishikawa takuboku mitaini kouyatte mainichi arufabettode kakoukana. shimainiha jibunmo FIST FUCK shichimaukamo shirenaize!!
(…)からおまえどんだけ(…)大好きやねんと突っ込まれたので、洋書を読みたいという上半身の欲望だけではなかなかどうして突き崩すことのできなかった頑な時間割が(…)の来日計画により駆動しはじめた下半身の欲望の追撃を受けてついにぐらつきはじめたのだと応じた。つまり、「これより第ニ学期を始める!」というわけである。というよりむしろ夏期講習、いや春期講習か。いずれにせよ、ここを逃せばおそらく今後英語を勉強するチャンスは二度とおとずれまい。そういう意気込みでやる。やりぬくことにする。やりぬくことに成功しさえすれば、来年のいまごろはおそらく日本語の書物と英語の書物を半々くらいの割合で読む優雅で素敵なインテリゲンチャきわまりない日々を送っていることだろう。あるいはいっそのこと小説なんてものが徹頭徹尾どうでもよくなってしまうくらいの変化があるかもしれない。そういう変化をかすかに期待しているじぶんがいることは否めない。執着の対象をいきなり切り捨てることの爽快さというものがたしかにある。転生の快楽。裏切りの快楽。回心の快楽。積み重ねてきたものをぶっこわしてゼロの大地に足をつける。世界がみずみずしく白紙にたちかえるあの瞬間の美しさ。過去の経験を引き継ぎながらもしかしその経験を直接いかせない領域であらたな生を駆動させるもどかしいよろこび。文学にかぶれたときのように、また新しいなにかにかぶれる。そしてバートルビーの眷属として仲間入りするのだ。二十代で文学に見切りをつけて筆を折り、貿易商人として余生を過ごす。手相占いのじいさんは、きみは文章を書くか絵を描くか、あるいは舞台の中央に立つか、そうでなければ貿易業にたずさわりなさいと19のじぶんに告げた。あのじじいの占いを的中させてやるのもおもしろい話だ。そうだろう?
深夜、じつにひさしぶりな気のする作文を小一時間ほど。「偶景」2つ追加して計165枚。さいきん過去日記からの引用というか書き直しが多いのだけれどこれじぶんの生活にたいする注意力や観察眼や感受性がいちじるしく低下していることのほかならぬ証左である気がする。
と、ここで床に着くつもりだったが、なんとなく「邪道」のテキストファイルをひらけてしまい、ひらけてしまえばいじらざるをえないというもの。プラス2枚で計450枚。なんのかんのでけっこういい感じになってきたかもしれない。ひらがなの割合をふやしたのは正解だった。また冒頭から全面的に手を入れなおさなければならないがかまうまい。それにより作品の質の向上することがはっきり保証されてある作業であるならばたとえどれほどめんどうなものであったとしても億劫にならない。
3時をまわった。あとは英語の文法書片手に布団にもぐって寝落ちするだけである。やっぱり一時間でもいいから執筆の時間は毎日確保したい。これがあるだけで一日の充実度がぜんぜん違ってくる。中毒だ。完全なるアディクト。シャブでも打って寝食わすれて働きつづけることができればどんなにいいだろうね!