20130527

 その時間はごく自然で断絶することがなく、日常の中を無色透明に、無意識的に流れていた。その時間が何時からか変色し、透明なものと不透明なものとに分れ、永遠の破片としての燃え上がる瞬間と無意味な忘却としての冷たい流れとの二種類に分類された。その変化は彼女ひとりに起ったのではなく、舜一もまたそれを自覚し、この共通のものを所有することによって新しい時間が、――刻々に何ものかを生み出し創り出す時間が、二人の魂の中に共通に流れ始めた。それは若々しく、希望に彩られていた筈なのに、誰ひとりそれを知っている者がないということのために何処かしら秘密めいた影を持ち、その影が二人の愛を一層鋭く、強く、官能的にした。
福永武彦「退屈な少年」)



12時起床。めざましをセットし忘れていたが、あろうことか、ケツのかゆみで目が覚めた。やつだ。二年ぶりにやつがやってきたのだ。昨夜の予感は間違いでなかった。肛門掻痒症だ。このところずっとうだるような暑さが続いていた、そのせいで地獄の底からふたたび目覚めようとしているのだ。病院で処方された軟膏はまだ残っている。使用期限も切れていないようであるし、悪くならないうちに早速塗布してやろうかとも思ったが、しかし昨夜入浴中に発見した謎の腫れが解せない。二年前はこんなふうに患部の腫れることはなかった気がする。場所が場所であるだけに素人診断をくだすのはおそろしい。習慣に支障をきたすようであれば即刻病院へ通うという前提のもと、様子見することにする。
肛門科をおとずれることに抵抗をおぼえるというひとがいるが、思えばじぶんにはそういうものがまったくなかった。(…)にヌードモデルを頼まれたときもふたつ返事でひきうけていきなりその場で脱いだ。気前よく引き受けてくれたひとでもいざそのときとなると微妙に戸惑ったりするもんなんだけれどと(…)は笑っていた。勃起させてくれとたのまれたのにはさすがに無理だと応じたけれど泣きつかれていたらきっとやっていただろう。そういうあれこれを考えるとじぶんはわりと裸体をさらすことに抵抗をおぼえないたぐいの人種なのかもしれないと思う。だからといってじぶんのことを羞恥心に欠ける人間だとはまったく思わないけれど。羞恥心をもたない人間というのはたぶんほとんどいない。そう見える人間は腐るほどいるだろうが。問題はなににたいして、どのような事態どのような状況にたいして羞恥心を覚えるのか、要するに羞恥心のよりどころにあって、それがたまたま人目につきやすかったり表に出やすかったりする境域であると、あのひとはシャイだなーという話になるだけで、たぶんきっとだれでもみんなひとしなみの羞恥心を抱えこんでいる。ひるがえって羞恥心のトリガーを基点としてそのひとのパーソナリティを逆探知する、そんな分析も可能だろう。こうして書けば書くほど羞恥心というのは誇りに似ていると思う。対義語の関係にあるのか。
洗濯。14時半より20時まで発音&瞬間英作文。瞬間英作文をやっていると犯しがちなケアレスミスというのがだんだんわかってくる。時制の一致とか三単現とかわりと頻繁にミスるのだけれどそれでもだんだんと改善されているような気配はあって、いっこうにミスが減らないのはなぜかheとshe、himとher、hisとherの混同だったりする。どっちが女でどっちが男だっけ?という混同ではなくてそもそも性差でこれらの単語を使い分けるというプロセスがじぶんの頭の中にまったくもって根付いていないというような感触があってその都度その都度発語するじぶんの口調の勢いでどちらかを口にするみたいな、そういう按配で、日本語でもいちおう彼/彼女と性差による語の使い分けはあるのだからこの執拗なケアレスミスの責任を母語と外国語とのおりなすうんぬんかんぬんにゆだねることもできない。そういえばmotherとfatherもよくまちがえる。auntとuncleもときどきまちがえるが、これは上述したプロセスの問題というよりはむしろ単純にauntがおばでありuncleがおじであるという対応関係がまだしっかりと身体化されていないという純然たる暗記不足でしかない。
作業の途中でなんどかコーヒーを入れに水場に立ったのだけれど、その途中で大家さんとばったり出くわしたので、おもてをさわがしくする昼さがりのほとんど不吉なまでの強風がしかし妙に心地よかったこともあって、ベンチにならんで腰かけてしばし雑談した。あんたはほんとにまあ洗濯物をきちんと干しなさるしたいそうな食事も毎晩作ってお母様がよっぽどきちんと仕込まはったんやと感心しとるさかい、といつもの話があったので、中学のときに母が入院してその間家のことをじぶんが引き受けてやっていたことがあるから、と、これまた何度もくりかえしているはずの話をしたりして、ハーフパンツからむきだしのすねに風があたって気持ちよい。それから大家さんの曾孫だか玄孫だかが結婚したという話があって、今年で31歳になる(…)さんはまだ結婚しないんだろうか、はやく結婚したほうがいいと思うのだが、と小津安二郎の映画みたいなことを言い出すので、まあまあひょっとすると中国でいいお嫁さんをもらってくるかもしんないですよと適当なことをいうと、中国人なんてダメだ、(…)さんは家柄もいいしご両親も学校の先生であるし生家のある位置もたいそうすばらしい地域で、みたいなアレがはじまってこういうところは悪いけれどやっぱり年寄りだなと思い、いやしかし反動保守まっさかりのクソいまいましい昨今の情勢などみていると現状こういうのって別段年寄りにかぎった考え方でもないんだろうなとげんなりする気持ちに溜息ひとつ、ふたつ、みっつと、国だとか政治だとかのことを考えると絶賛ペシミズムに陥らざるをえないというか、軽蔑だけが石のように四方に積もり積もって気づけば石牢の中、自閉の暗闇に首までつかって決して羽化することのないさなぎのじぶんみたいな、お先真っ暗な未来像を幻視して、もう疲れた、もういいよ、もう終わりだ、こいつらもおれもぜんぶ終わり、みたいなこの気分、この気分が嫌いだ。亡命するっきゃない。したらしたでその先でまたおなじ苦渋をなめさせられるんだろうが。逃げ場なし。出口なし。どいつもこいつも遠慮なし。南無。
いつも夜中というか朝方に帰宅する隣人の話になって、国家公務員かなにかをめざして毎晩遅くまで外で勉強している大学生らしいのだが、大家さんがいうには、風呂に入ってから部屋にもどるまでの、まあせいぜい三十歩から五十歩ほどの距離なわけだけれど、その距離を彼はフルチンで歩いていくらしく、御年94歳だったか95歳だったかの大家さんの口からでたフルチンの語感が若干ツボにはいったわけだけれど、むしろほんとうにおもしろいのは本当に困ったかたですわというその大家さん自身がこれまで幾度となく、そして惜しみなく、ある意味では希有といっていいその裸体をじぶんの前でくりかえしさらしてきたその事実にはいっこうに無頓着な点であり、端的にいって、おまえがいうな、である。
夜は二週間ぶりだか三週間ぶりだかのジョギング。咳風邪やら交通事故やらでずいぶんご無沙汰になっていたが、おそるおそる走り出してみると存外好調で、ああこれ全然いけるわと、中盤あたりまではそういう感じだったのだけれど、途中からびっくりするほどがくんときたというか、気づけば派手に息切れしていて、結局、ジョギングをはじめた当初に設定した短い距離すら最後まで走りきることができず終盤五十メートルを徒歩みたいな、ひどいなまりっぷりだった。もういちど一から鍛えなおす。我、シジフォスをおそれず。
汗を流すために風呂場にいってシャワーを浴びていると、がっつり成体のゴキブリが湯船の縁をわしゃわしゃわしゃと走っていて、このあいだ自室で幼体を見かけたときにそうだそんな季節なんだと思ったばかりなのだけれど、はっきりと巨大で、とりあえず湯をかけて退治しておいた。この部屋で夏を過ごすのは今年がはじめてなのだけれど、おもてにある水場のあたりとか、ゴキブリなんてじゃんじゃんわきそうな気がする。蚊はすでに絶賛繁殖中で料理の下ごしらえなどしているとしょっちゅうふくらはぎやらひざがしらやら踵やらをくわれてそのたびにイライラする。蚊で思い出したのだが、きのう職場でスーツを着ているにもかかわらず足を数カ所、蚊に食われてしまい、こいつらスーツの上から刺せるもんなのかとびっくりしたのだが、(…)さんだったか(…)さんだったかに、それはきっとズボンの中に蚊が入りこんでしまったからだという指摘があって、それでひょっとすると、昨夜入浴中にたしかめたあの肛門周囲の腫れはひょっとすると蚊にくわれたものだったんではないか、そんなふうに思いながらおそるおそる今日また指先でたしかめてみると、腫れはほとんど完全にひいていて、よっしゃあ!となった。
よっしゃあ!となりはしたが、風呂からあがってストレッチをして夕飯を食べている途中だったかに、若干ケツ穴がむずむずして、入浴後と就寝中にかゆみがピークに達するのがたしか肛門掻痒症の特徴だったはずで、となるとこれはやはり……という疑念にとりつかれないわけにはいかず、疑念はストレスとなり、ストレスはただでさえ乱れがちなわが自律神経にさらなる狂いの拍車をかけ、今年の夏くらいは健全健康すこやかに過ごしたい。
23時半過ぎより自室で音読。3時過ぎまで。本当はもう少し早くきりあげて作文する予定だったのだが、ちょっとはりきりすぎた。牛乳の残りが少なかったし今日はけっこうたくさん勉強した気がしないでもないのでフレスコに飲み物でも買いにいこうといまだに強風の吹きつづけているおもてにでると、ちょうど外から帰ってきたばかりらしい隣人とニアミスした。もちろんフルチンではなかった。フレスコでは牛乳と、がんばったじぶんへのご褒美としてソイ抹茶なるものと野菜生活を買った。音読で喉がからからだったので両方とも一瞬で飲み干してやった。
カンボジアはそうでもなかったし、おなじタイでもチェンマイとかパーイとかアユタヤーなんかもそうでなかったけれど、バンコクには本当にびっくりするくらいたくさんゴキブリがいた。夜カオサン周辺を歩いているときなど視界にゴキブリの入らないことなんてないみたいな按配で、埠頭のフナムシかというくらいの勢いだった。むかしみたいにまた父と弟と夜釣りに行きたい。生き物が苦手な弟がつりあげた魚を針から外すことができずに手をこまねいているのに、それくらいのことはじぶんでやれみたいな態度をとりつづけてしまったかつてのじぶんを叱責したいという気持ちより、むしろ手をこまねきつづけるほかない弟の感じているみじめさみたいなものにいまさらながら同調してしまうというか、そうじゃない、この言い方は正しくないな。当時のじぶんもやはりまたそのとき弟がいだいていたみじめさをはっきりと感知していたしそのみじめさをほとんどじぶんのものとして共有してさえいた、というのはつまり、場面や状況、機会や時と場所が変わりさえすればじぶんもまた抱くことになるであろうみじめさとして、要するにおおいに心当たりのある感情として、もじもじとする弟の様子を目にしていた。ほとんど鏡を前にしているかのように。じぶんがときおり弟のみせる弱さにたいしてやたらと冷酷にふるまっていたのは、それだから鏡を割るような行為であったのかもしれない。こんなことをいえば弟にかえって叱られるかもしれないが、弟がいまあのような状況にあるのはひょっとするとじぶんのせいなんではないかと思うことがいまでもときどきある。家庭を乱したのはまちがいなくじぶんと弟以外の三人であったわけだが、しかしおさなくよわくちいさい成員として常に隅っこでひそかに目立たぬように嵐をやりすごすように生き、つかのまの凪には全力で遊んだふたりの閉鎖的な関係がその後の人格に影響を与えないわけがない、そういう意味で、じぶんがいちばん弟に影響を与えているのだろうし与えられているのだろうと思うし、鏡は鏡でも相補関係にある鏡なのかもしれない。ネガとポジ? そんなわかりやすい話なわけがない。馬鹿か。クソみたいに単純な構図におとしこむことでなにかをわかったものとする愚かさが嫌いだ。そんな身振りは唾棄すべきだ。学生時代に付き合っていた恋人はじぶんの顔が気にくわないという理由で何度も鏡を割ったことがあると言っていた。《鏡のなかにはだれもいない。鏡のむこうにだれかがいる》とひと月以上前に「偶景」に書きつけた。『クロノ・クロス』でファルガは「鏡はかわいそうだ、人は決して鏡自身を見てはくれないから」と亡き恋人ゼルベスの言葉を口にした。にごり水を鏡として利用していた時代の人類が抱いていたセルフイメージとはいまの人類が抱くものとはかけ離れていたのかもしれないと思った。鏡を前にしておまえは誰だと百回いえば気が狂うというので試したがまったく効果はなかった。もともと狂っていたのかもしれない。