20130920

日刊「きのう生まれたわけじゃない」編集長の短くすさまじい二ヶ月(2013.9.20)

5時半に起きた。ふたりで生活していたときには耳栓なしでもすっぽり眠ることができたのに(…)が出ていって以降またおもての物音に敏感になる夜がやってきた。これをいうと女の子みたいだなとときどきいわれるのだけれど寝るときはふたりのほうが断然いい。ぐっすり眠ることができる。寝付きも寝覚めもいい。セックスよりもキスよりもハグのほうが好きだと、いつだったかそんなことを口にすると、こういうハグ?といって(…)はあおむけにねそべるこちらに覆いかぶさり大蛇のようにきつくからみついて下半身をこすりあわせるような動きをとった。そういうのじゃないといってシンプルに抱きしめなおすと、本当にいってるのと驚いたような反応があった。本当にいっている。もたれたりもたれかかったり、抱きついたり抱きつかれたりするのが好きだ。猿の毛繕いは一種の理想である。
早朝にもかかわらずおもての水場から(…)さんの啖をきる声が聞こえてきたのでそういえば(…)さんの妹さんも今日帰国だったなと思い出し、ひょっとして(…)といっしょに空港にいく約束をとりかわしているんじゃないかと思ったりもしたのだけれど、どうなんですかねそこんところとたずねにむかうのもいかにも間抜けであるし、そんなことを考えながら便所から出ると背後からスーツケースを転がすゴロゴロという音が聞こえてきて、軽くふりかえった先に女性のシルエットがぼんやり見えてたぶん(…)さんの妹さんだと思うのだけれど眼鏡をかけていなかったのでよく見えず、なんとなくその背後に(…)もいたんではないかと後になって思い返されたりもしたのだけれどそれはたぶん考えすぎだ。
地下鉄で電車が来るまえに鳴るジングル、というのはたぶんテレビ放送用語なのだろうけれどあのちゃらちゃんちゃらちゃんちゃらちゃららーというちょっと祭り囃子をイメージしているらしいアナウンスを耳にした途端、ほとんど毎日のように地下鉄に乗っていたこの二ヶ月を思って、そのメロディによって想起されるものがおおいにあって、急激にさびしさを感じた。京都駅に到着してから関西空港行きのバスの待合室みたいなところにいってそこのベンチに腰かけているときも両隣にスースーと風の通ってしまうその物足りなさがまたさびしく、おなじことは片道一時間半のバスの車中でも感じた。乗り物にそろって乗るときまって途中でこちらにもたれかかり、やがて寝転がる、バスでも地下鉄でも特急でもなんだったら母親の運転する車の車中でも(…)はしょっちゅうそんな行動をとって、日本人の感覚からするととてもルーズで不躾に見えるその行動もたぶん西洋ではごくごくふつうなんだろうということは似たようなじゃれあいをしているカップルを去年の夏タイやカンボジアでたくさん見たからで、ひとまえでハグしたりキスしたりすることにたいする抵抗が完全になくなったとは全然いえないけれどもそれでも歩み寄ろうとはしているつもりだと、人目なんて気にしないでもっと愛情をあらわにしてほしいと不機嫌になる(…)に何度そう語ったことか知れたもんじゃないし、事実、途中からそういうのはもうあまり気にならなくなった。電車待ちの行列の中でキスするとかとなるとやっぱり抵抗があったけれど、ハグだの腕を組んだりだの肩や腰に手をまわしたりだのは、まあ西洋かぶれのジャパニーズってことで大目に見てくだせえみたいな開き直りで突っ切った。パツキンを連れているとやはり目立つしそれがイチャイチャしているとなると余計にそうで、スーツのおっさんなんかにじろじろと陰湿で嫉妬深いまなざしを注がれることもままあったが(いちど(…)と(…)と三人でそろって帰省したときがあったのだけれどそのとき(…)は新聞を読むふりをしながらじぶんたちの様子をうかがうおっさんの目線が嫌でたまらなかったという)、(…)は(…)で、西洋人の多い観光名所なんかにいくとやはり思うところがあるのか、わたしたちが手をつないで歩いているのを見ると日本人よりも西洋人のほうが驚くみたいねとこぼしたことがあった。
空港に到着したのが8時半で、(…)のフライトがこちらの予想するとおり11時であるとするとエアアジアはフライトの三時間前より搭乗手続き開始なのですでに受付開始して30分が経過ということになるわけで、沖縄行きの便を待っているときに(…)はわたしはいつも空港には時間の余裕をたっぷりもっていくの、乗り遅れるほどおそろしいことはないからといっていたのがちょっと気がかりだったけれども、とはいえいくらなんでもこの30分の間にすでに手続きをすませて搭乗口のほうに行ってしまったということもあるまいと、そう思いながらエアアジアのチェックインコーナー周辺にひたすら突っ立っていたのだけれど、白人らしき姿が視界の片隅に入るたびに心臓が跳ね上がるような驚きを覚えて、ああ、これ羽田で(…)がおりてくるのを待っていたあのときと同じドキドキだと思いながら、そうしてひたすら待ちつづけて立ちつづけていたのだけれど(…)の姿は見えず、そうこうするうちに10時になった。搭乗手続きがしめきられた。館内放送でまだ搭乗手続きをすませていない乗客の名前が呼び出されたが、そこに(…)の名前はなかった。搭乗口のほうにまわった。あるいは最初からここに陣取っているべきだったのかもしれないと思った。仮に最初の30分間に(…)が搭乗手続きをすませていたとして、それでまだ時間に余裕があるからいったんカフェかレストランに立ち寄り小腹を満たしていたとして、そういう想定をした場合、じぶんは彼女をここでこそ待ち受けるべきだったんじゃないかということが今更ながらはっきりして、けれども時すでに遅し、たぶんもう手遅れだという思いがあって、時間もどんどん経っていって、あるいはひょっとするとじぶんはフライトを勘違いしているのかもしれないとも思ったけれどもだからといってこのまま一日中空港に居座るのも馬鹿げている。搭乗口の前でずっと突っ立っていた。10時半をまわったところで搭乗口を望むことのできるベンチに腰かけた。10時55分になったところで携帯でhotmailにアクセスした。ひょっとしたらメールの返事があるかもしれないと思ったのだ。携帯はガラケーでプランも最安値のものを適用しているのでふだんインターネットを用いることはまずないというか、ほとんどはじめてである。メールボックスにはアクセスできなかった。案内所にいってネットカフェはないかとたずねると二階にそのようなものがあるといわれたのでそこにいった。30分で300円だった。メールをチェックした。当然返事はなかった。終わったと思った。それからこの気分はたぶん失恋に似ていると思った。近くにマクドがあったので月見チーズバーガーを食べた。去年の夏タイから帰国したときにも利用した店舗だった。月見チーズバーガーはべらぼうに高かった。なぜ400円以上するのか。ほとんどカツ丼レベルである。放射能にかんしてはこちらも普段からすこし敏感になっているところがあるのだけれどそれに加えて(…)は遺伝子組み換えやら調味料やら保存料やらに対するアレがとんでもなくうるさくて買い物などいくと面倒でたまらず、あなたは何もしらないのね何も気にかけないのねとさんざんいっておきながらいちど輸入商品をとりあつかっているスーパーに買い物に出かけたときなどこれはナチュラルだから安心して食べれるわといって手にとった商品がこちらの基準からするとあきらかにケミカルで、あのさ、おれ勘違いしてたかもしんない、それがもしナチュラルっていうんだったらたぶんおれがふだんスーパーで買い物してる商品や食材の大半はナチュラルだよと、ほんのわずかの保存料も着色料も甘味料も許されないと考えていたのが拍子抜けするような(…)の基準にげんなりうんざりしたこともあってそういうのがまたいちいち険悪な空気につながり場合によっては口論の種火になるわけだけれど、とにかく(…)の知識はあてにならないところがあるというか何にかんしても典型的なかぶれを脱しきれていないところがあってそれにくわえて元来の思い込みの強さと白黒はっきりしたがる二元論的な発想の強固さがあるものだから問いの立て方自体をずらして物事を考えようとするこちらとはやはり決定的にあわないところがあった。こちらからすると彼女は紋切り型を脱しきれていないしその自覚もない無知の象徴であったし、彼女からするとこちらは問いにたいする解答を提出する努力すらせずいつまでもぐずぐず理屈を述べ立てているだけの皮肉屋だった。とにかくそんな(…)だからマクドナルドが大嫌いで、こちらもふだんはコーヒー飲みながら読書なり作文なりで利用することこそあれ食事をとることは滅多にないのだけれどしかし月見バーガー、こいつは別だ、月見バーガーだけは例外的にかっくらうべきなのだ。それで(…)も去った今、ようやくこいつを口にすることができるのだという思いでかぶりついたのだけれどしかしこれといった解放感もなく、というのもよく考えたら(…)の家出する前夜、すなわちこちらが家出したあの夜、ネコドナルド金閣寺店ですでに月見バーガーをかっくらっていたのだった。
マクドを出るとさみしさとやるせなさと苦々しさがすさまじい勢いでせまってきた。こんがらがって気が滅入っていかんともしがたいこのやるせなさを抱きかかえながら明日から生きなければならないのかと考えるとますます気が滅入ってきた。とてもつらかった。生き地獄だと思った。バス待ちの列にならんでいると高速道路で事故があったために迂回を余儀なくされる、三十分から二時間の遅延を了承してほしいという係員からの説明があった。バスに乗った。日射しがきつかったのでカーテンを閉めた。ヴァルザーを開いた。すぐに閉じた。i-podでいくつかの音楽を流した。そのどれもが(…)の記憶にいやおうなく結びついているものだった。こういうときは無理に気分を盛り上げるよりもむしろとことん落ちたほうがいいという話をむかしテレビで観たことがあったのでそれに従うことにした。つまり、思い出の曲ばかり再生した。それからロンドンのボーイフレンドに嫉妬する気持ちはこれっぽっちもないし(…)と別れてほしいと思ったこともないけれど、もし(…)が家出期間中にほかの日本人の男と良い仲になっていたりしたらと想像すると胸が苦しくなって嫉妬めいた感情のきざすのはどうしてだろうと思った。(…)がじぶんと関係を持ってしまったことを、要するに浮気してしまったことを悩んで母親と親友のそれぞれにスカイプで相談すると、母親は若い女がセックスしたくするのはふつうだ、なにを悩むことがあるのか、日本にいるかぎりは日本の恋人が必要なのだ、それでいいのだと言い、親友は親友で、あなたはいま日本にいるのよ、ロンドンじゃないの、それにあなたの今いるその国の日付とあなたのボーイフレンドの今いるイングランドの日付には一日分のずれがあるからそんなのノープロブレムよと、そんなふうにアドバイスしてくれたという話を(…)は笑いながらしてくれたけれども、結局じぶんも彼女らと完璧に同じ発想なんだなと、嫉妬の在処を分析するにあたってそう思った。(…)の母親も親友も(…)のロンドンのボーイフレンドにかんしては低評価というかさっさと別れてしまいなさいといっているらしく、逆にあなたのことはとても高く評価しているのよ、彼女たちあなたのこととても好きなんだからと、あれはたしか実家に帰省しているときだったように思うけれど(…)はそういっていて、これはマジでおそるべき真実なのだけれど日本人的な美的感覚するとけっして男前などではなくむしろ醜男に属するとおもわれるこちらの外見が向こう基準ではなぜかgood lookingになるという衝撃のアレが付き合いを重ねていくうえで判明し、要するにこの典型的な醤油顔が西洋世界からするとエキゾチックという肯定的評価になるらしくてこれマジでさっさとヨーロッパに移住すべきとその話を聞いたときに思ったしそう口にもしたのだけれど(「あなたガールフレンドに興味ないっていったじゃない!」「それとこれとは話が別なんだよ」)、そういうわけで(…)の母親も親友も(…)はgood lookingだとhandsomeだと、こんなこと書いてるとなんかもうこれから先じぶんはパツキンにだけターゲットをしぼればいいんじゃないかと妙な方向に舵を切りたくもなるのだが、いずれにせよそれだけでじぶんのことを高く買ってくれているわけじゃなかろうしいったいきみはおれのことを彼女らになんて説明したんだとたずねたところ、あなたは(…)という名前で、日本人で、writerで、でもまだ本は一冊も出版していなくて、と続けるので、いやいやいやその時点でもうマイナスだろうよ、ぜんぜん魅力的じゃないじゃん、なんかほかにもっと良い情報教えてないのと突っ込むと、すごく貧乏で、京都でいちばん安いアパートに住んでいて、週に二日しか働いていなくて、とそういいながら笑いだすのでこちらもつられて大笑いした。月夜だった。満月をみたいというので夕食のあと実家の近くにある公園に出かけたときのことだった。(…)は月が見たいわけじゃなかった。ただ人目を気にせずイチャイチャしたかっただけだった。あなたのマム、わたしのことあまりよく思っていないんじゃないかしら?そう思うの?うん。どうして?わたしあなたのマムの前であなたの手を握ったりしていたから。そんなこと気にするわけない。でもグッドマナーじゃないんでしょ?もしおれの母親がきみのことをよく思っていなかったとしたらきみに彼女の大切な浴衣を着せるなんてことはぜったいにしないよ。
いつのまにかバスで眠りこんでいた。時計を見ると空港を出て一時間が経とうしていた。不意に爽快感がきざした。なんだこの感情はと思った。眠りがわるい思いをすべて洗いながしてしまったようだった。なんだこの感情はともういちど思った。それから長い映画をいまようやく観終わったのだという比喩がきざした。比喩はすとんと腑に落ちた。いま観終わったのだ、いま。さっさと出ていってほしいとあれだけ何度も願っていたにもかかわらず、そうしてときには口論の際にそうにおわせたことすらあるにもかかわらず、これで彼女のあとを追って空港に出かけていくとなったらとんだ間抜けだなと(…)の家出中なんどもそう考えたのだけれど、そう考えるたびに脳裏にたちあがってきたのは舩橋淳『ビッグ・リバー』でオダギリ・ジョーが最後にみせる情けなくもひりひりとする、破れた強がりのむこうがわから飛び出す疾走と叫びの場面だった。(…)はソフィア・コッポラロスト・イン・トランスレーション』が好きだった。もし空港で再会することに成功したらそれはまさしく『ロスト・イン・トランスレーション』的な展開だなとも考えていた。再会が失敗に終われば『ビッグ・リバー』だ。浅い眠りからさめたばかりの意識に芽生えたのはしかし第三の映画だった。身支度を整えて空港にむかうまでの道のりを短いショットでつなぐ。地下鉄、待合室、バス。そうして空港で突っ立つ男の姿。うろうろする姿。自販機で水を購入する姿。すべて短いショットでつなぐ。ロメールの手つきで場面場面を淡白に断ち切り、そして無愛想につないでいく。ショットの数で時間を飛躍させる。あきらめきれずネットカフェにむかう男の姿を、ハンバーガーを手早く片付ける男の姿を、それからバス停にならぶ男の姿を、やはり淡白につないでいく。悲劇でもなく、喜劇でもなく、セリフもBGMもいっさいない。ブレッソンのように足音だけを強調した静寂の中でつなぐ。短いパスをまわしていく。バスに乗る男。席につき、カーテンを閉め、本を開き、そして閉じ、眠りにつく。駅に着き、地下鉄にむかい、乗りつなぎ、席が空いているにもかかわらず扉のそばに突っ立ち、ときどきガラスにうつったじぶんの姿を見る。それから電車をおり、改札を抜け、地上にむかう階段をのぼり、すると午後二時のまぶしい陽光が、すでに白さの抜けた秋の陽光がその先で待ち受けていて、天国の扉からもれる後光のようなひかりにようやく目が慣れたところで、井口奈己『犬猫』のラストシーンで指先の包帯をとりさる榎本加奈子の晴れやかさと重なる爽快感のもとでおおきく伸びをする、その爽快感、その爽快感が昼寝からさめたじぶんの胸にきざしたのだという確信が走った。すべてが裏返った。美しい物語の幕切れに転じた。沈鬱な悲しみが黄金色の感傷に転じ、落としどころのないみじめさが宛先のない感謝に化けた。スタッフロールが流れて、静寂を厳密に保持していた映画にはじめて幕切れの音楽が鳴りはじめる。悲劇でも喜劇でもない。晴れやかでさわやかで爽快で、なにかの終りがなにかのはじまりであることを告げるにうってつけの、たとえばモーツァルトのディヴェルティメントのような音楽が。バスが駅に到着した。30分の遅延だった。架空の映画をなぞるようにして、もろくはかない想像力の産物をこわさぬようにして家路をたどった。地下鉄鞍馬口の階段をのぼって地上に出ると、まさに思い描いていたとおりの陽光が待ち受けていた。完璧だと思った。完璧な幕切れがここにあった。伸びはしなかった。かわりに芝居気たっぷりに左右を見渡してから大またで歩きだした。下駄を高く鳴らした。物の響きひとつとってもすでに秋だった。