20230130

 現代は情報社会と呼ばれ、その意味は教科書で「情報が果たす役割が大きくなる社会」と説明されており、産業面においても物としてのハード以上に情報としてのソフトの方が商品としての価値を持つようになりました。しかし、情報社会の本領はそこにあるのではありません。例えば、インスタ映えを狙ってカフェで流行りのケーキの写真を撮る人たちが求めているのは、ケーキそのものの美味しさ以上に、見栄えのよいケーキの画像を公開してたくさんの「いいね」がつくこと、つまり、自分が買った商品がある一定の効果を発揮し、それが、他者からの承認に繋がることなのです。このように、人の欲望が「物そのもの」から「物に付随する意味(=情報)」に変化し、それが社会を大きく動かすようになった、そのことを情報社会という言葉は示しています。
 しかし問題は、ケーキを食べたらお腹いっぱいになるけれど、意味を食べてもいつまでも空腹は満たされないことです。だから、わずかな差異をめぐるマウント取り合戦はエンドレスで進行します。こうして、満たされなさを抱えるおのおのの人生の退屈が刹那的に埋められていくうちに、「何もつくらない人たち」の人生が消尽していくのです。
(鳥羽和久『君は君の人生の主役になれ』)



 12時半起床。阳台で日向ぼっこしながら歯磨き。スマホでニュースをチェックし、ミニプログラムでbottle waterを注文するが、やはりエラーメッセージが表示される。今年に入ってエラーが表示されるようになったというこのタイミング的に外国人絡みのアレなんではないかという気がしてならない。外国人が微信のミニプログラムを経由して金銭のやりとりするのはアウトとかそういう感じなんではないか。あるいはミニプログラムの実名認証が必須になったということなのかもしれんが、メッセージにその旨表示されているわけでもないし、そもそも実名認証のページは中国人の身分証を使用するのが前提になっているので、外国人がパスポートで申請できるのかどうかもわからんし、できるのだとしてもやはりこのようなサービスにパスポートの顔写真ページをアップロードするのは気がひける。いちおうチャットページもあるのでそこにエラーメッセージのスクショと英語でのメッセージを送っておいたが、このチャットページでこれまで返信があったためしがないというか、そもそも既読にすらなったことがないというアレなので、まあアテにはならん。とりあえずしばらく水道水の沸かしたのを代用とし、(…)なり(…)なり(…)先生なりと今後やりとりするタイミングがあれば、そのときちょっと相談してみることにする。
 それとは別に、魔窟の快递に届いたものの回収できずにいる荷物について、淘宝のページ上ではすでにこちらが荷物を回収した状態として扱われているのも気になった。もしかしたら快递に一定期間置き去りになっている荷物は自動的にそういう扱いになるということなのかもしれないが、データ上回収済み扱いになるだけであればいいのだけれども、勝手に処分されてしまうとか返品されてしまうとかそういうめちゃくちゃなアレも絶対にないとはいえない。いや、さすがにそれはないか、(…)くんからかつて(…)くんが快递に荷物を一ヶ月近く置いたままにしているみたいな話も聞いたことがあるし。
 トースト二枚を食し、白湯を飲み、メールをチェックする。27日に(…)さんからメールが届いていたが、(…)さんと同様、わざわざ樫村晴香の論考をPDFで送っていただいたみたいで、どうもありがとうございます。しかし(…)さん、とうとうコロナに感染してしまった様子。今月の4日に発熱、症状もそれほど大したものではなかったらしいが、「何かをする気力がなかなか湧かず」とのことで、倦怠感のようなものがあるのだろう。あとは「元々ある持病の喘息のような症状が軽い物ですが続いて」いるとのこと。お大事にとしかいいようがないが、ただ後遺症の持続期間およびその度合いについては、感染時の症状の重さと比例曲線を描いているというデータが出ていたはずであるので、重い症状が出なかっただけ不幸中の幸いというべきかもしれない。いずれにせよ、「なかなかやっかいな病気」であることは間違いないし、「日本でもこの病気はたいしたことないんだ、という雰囲気を国家権力も民間人も醸成しようとしていて非常に不気味です。太平洋戦争時にあった、焼夷弾による火災はバケツの水で消火可能、みたいな話」というのもよくわかる。というか最近の日本の流れでこちらがいちばんびっくりしているのは、マスクを積極的にはずそうとでもいうようなキャンペーンが打たれていることで、どこもかしこもマスク装着が必須というのはいったんやめましょうかという話であればまだわかる、各自じぶんの都合を優先して判断してくださいというのであればまだ筋は通っていると思うのだが、なぜ装着するのはあやまりとでもいうような流れが微妙にできあがりつつあるのか、これがまったく理解できん。いや、そんな流れは全然ないのかもしれない、日本にいないのでそのあたりの空気をつかみそこねてしまっているだけなのかもしれんが、ネット越しに見るかぎりそういう雰囲気が醸成されつつあるんじゃないのと思うことがけっこうあるのだ。
 (…)さんもずっと以前ブログに発熱したと書かれていたし、(…)さんも今年に入って感染して、となるとあとは(…)くんとこちらだけか。(…)くんは現状どうなっているのかわからんが、飲食をやっている身であるし首都圏であるし、感染していないというほうがむしろ考えられない気がするのだが、しかしそれでいえば、体感感染率90%超えのこの地でこちらもまだ未感染であるのだからよくわからん。(…)から感染したという話はきいていない(日記に書きそびれたが、一週間ほど前にひさしぶりにLINEでちょこちょこやりとりしたのだが、特にそういう話題は出なかった)。
 コーヒーを淹れる。きのうづけの記事を途中まで書く。15時になったところで作業をいったん中断し、街着に着替えて外出。自転車に乗って魔窟の快递に向かう。今日は最高気温が19度もあったので、パーカーとPコートで十分間に合ったし、手袋も必要なかった。魔窟の快递は営業していた。淘宝の商品ページはすでに荷物が回収済み扱いになっているので、荷物番号を調べることができない。SMSで届いたメッセージがあるので、そのメッセージを店にいる阿姨に見せたところ、荷物の積まれている棚のほうを指差してみせるので、いやいやだからその荷物番号がわからないんだよと思ってあらためてSMSをチェックしてみたところ、そこに荷物番号らしいものも記載されていることに気づいた。で、肝心の荷物も棚にちゃんとあった。安心した。しかし回収済みという扱いになっているというのはこちらの勘違いでもなんでもないらしく、自動読み取り機に荷物のバーコードとスマホのバーコードを通したところ、その荷物はすでに回収手続きがすんでいるというメッセージが表示された。よくわからんが、そのままブツを持って店の外へ。魔窟の快递のすぐそばにはちょっと洒落たバーのような店があり、それもわりと最近建てられたものらしくてよそおいが清潔であたらしいのだが、しかしなぜこんなところにと毎回見るたびに思う。ここだけ三十年前の中国ですか的な古き良き猥雑なアジアがガチガチに面影を残しているそんな一画に、やたらとこじゃれた外観のバーがぽつんと一軒だけ混じっているのだ(あれがカフェであるのならちょっとのぞいてみるのもアリだと思うのだが!)。だから風景がバグっているようにみえる。そのバーの対面にある店なのか家屋なのかわからない建物の中では、老人らがジャラジャラジャラジャラ音をたてながら麻雀をしている。
 帰路はいつものように后街を横断する。店は八割方営業している。ただでさえせまい道路の両サイドが路駐の車で完全に塞がれてますますせまくなっているのも、やあ! ようやく見慣れた風景が帰ってきたぞ! という感じ。歩行者もぼちぼちいる。半数はマスクをつけていない。本当にピークを超えたんだなと思うわけだが、しかし一時的に獲得された集団免疫で今後しばらく状況が良くなるとして、政府としてはそのタイミングでメディアをフル動員し、いまだにずるずるやっとる海外とちがってワシらはいっぺんに克服したで! みたいな方向に世論を誘導するつもりだったりするのかな。
 (…)でトースト三袋を購入する。新校区に戻る。ぽかぽかした陽気にあたためられた贅沢なキャンパスをいまじぶんだけが独占しているという高揚をおぼえ、道路を自転車でぐねぐねローリングするみたいに走る。しかしバスケコートとグラウンドには近隣住民っぽい姿がちらほらある。

 寮にたどりつく。棟の階段で老夫婦とすれちがう。以前もすれちがったことがある。そのときは爆弾魔のところに訪問にきている両親ではないかと見当をつけたのだが、もしかしたら爆弾魔の部屋の向かいにある一室に住んでいる彼とは無関係の夫婦なのかもしれない。ときどき聞こえてくる夫婦喧嘩の声、女のほうが子どもみたいに泣き喚いて叫び倒しているのも、こちらは(音の出どころからして)爆弾魔とその恋人によるものと判断していたわけだが、案外この老夫婦のやりとりだったりするのかもしれない。真相は不明。
 きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回する。17時になったところでキッチンに立ち、今日もフィッシュマンズの“Go Go Round This World!”を流しながら米を炊き、豚肉とトマトとよくわからん葉物とニンニクをぶったぎり、タジン鍋にドーン! し、レンジでチーン! する。
 食す。二年生の(…)くんから微信が届く。「道端」という単語の意味する範囲について。ついでにあれこれやりとり。春節中は全然勉強していないので単語も忘れるいっぽうであるというので、忘れた単語があったとしても来学期になったらすぐに思い出すよと受ける。今年の春節は来月5日がいちおう最終日らしい。元宵节というやつだ。しかしすでに多くの会社や学校が平日モードで動きはじめているというので、たしかに后街もそんな感じだったと受ける。中国の社会は休日が少なすぎると(…)くんはいう。いまだに週休一日のところも多いもんねと受けると、「中国のたくさん会社は本当にまるで吸血鬼のようです」「たくさん会社はまるで地獄のようです」と嘆いてみせる。996よりももっとひどい労働環境の会社も多くあるとしたうえで、「僕の両親の会社毎日12時以上の労働時間です」と続ける。中国の労働時間はもしかしたら世界で一番長いかもしれないねと応じると、「中国の高校も世界で一番苦労ですかもしれません」とあり、たしかに!
 (…)くんは彼女と別れたらしかった。経緯については確認していない。ただ、別れたこと自体は悲しいが、「たくさんものを勉強しました」というので、結婚にいたらない恋愛は無駄みたいな考え方のひとにときどき出会うけれどもそうではないからね、そのひとから受けた影響や学んだことはずっと残り続けるものだから、これは友情や読書についてもいえることだけどと応じると、(…)くんは「先生は哲学者のようですね」と言ったあと、「僕は昔の彼女たくさんの影響を受けましたよ」「話し方や考え方も」とあり、ここで「話し方」という言葉が出てくるところ、彼は本当に別れた彼女からたくさんのことを学んだと考えているんだなとぐっときた。こういう話題になると、ついつい「価値観」とか「世界観」とか、あるいは中国語であれば「三观」とか、そういうでかい言葉を使いがちになってしまうところであるけれども、(恋人のみならず)深く付き合う相手から受ける影響でもっとも大きなものって、まず間違いなく「話し方」や「言葉遣い」であるとこちらも自身の経験に即して思うからだ。まあいまだに口は悪いほうだと思うし、素地の悪さは隠しきれない人間であることは認めざるをえんが、それでもこちらはやっぱり地元を出て京都にいって、当時の恋人をはじめとする階層や背景のまったく異なるひとらとの交流を通じ、そしてまた感化のブーストアイテムともいうべき本(読書)に出会うことで、「話し方」や「言葉遣い」、あるいは「ふるまい」にクソでかい変化をこうむったことは確かなのだ。
 20時半になったところで授業準備。作業中は『映帶する煙』(君島大空)。今日から日語会話(三)に着手。ディベートないしはディスカッションに関する情報を集めてみたり、あるいは実際にシミュレーションしてみたりしたのだが、学生の平均レベルおよび一クラスにつきおよそ四十人という人数の二つの要素がどう考えてもネックになる、これはちょっと成立せんなというのがあらためて理解されたので、やはり基本的には教科書に即した文型ごとの習得&練習というかたちにすることに。ただ、一年生とは異なり、二年生の後期ともなるとできる学生はかなりできるはずなので、そこにちょっと照準をしぼった応用問題みたいなものもいくつか用意しようかなと思う。そもそも文型に関しては基礎日本語の授業ですでに習得したものが大半であるだろうし、こちらの授業はあくまでもその復習&アクティヴィティ(応用)という位置付けになるはずなので、前者はさらっと流す程度にしておいて後者に軸足を置いた上で、その内容が上位の学生にもしっかり手応えのあるものとして感じられるものにする。イメージとしては、アクティヴィティそれ自体は中位の学生でもついてこれるレベルにするのだが、その過程で外部から呼びこまれることになる雑談・飛躍・脱線およびそれらにかかわる質疑応答の契機を上位の学生らに集中的に向けるという感じ。まだちょっとぼんやりとしているのだが、なんとなく流れでそういう感じに持っていくことができるんではないかという感触はある。
 気分転換を兼ねていったんシャワーを浴びる。ストレッチをし、スクワットをし、プロテインを飲む。それから授業準備を再開。第21課、ひとまず片付く。なんぼ準備を重ねてみても実際にやってみんかぎりはわからんとこも多々ある、というかそういう部分のほうが多いのが生ものの授業なので、詰めすぎないように、ある程度あそびも残しておいたほうがよろしい。
 そのまま今日づけの記事も書きはじめる。途中で二年生の(…)くんから微信。「シャボン玉」とは何かという微信。いや、辞書で調べろよという話であるが、まあ確認しておきたかったのかもしれないと思い、ググった先の画像をスクショして送る。(…)くん、たびたび質問を寄越す学生であるのだが、あいさつも前置きもなくいきなり質問するだけして、で、こちらがそれに返事をするとそれに対して礼もなにも言わずに去るというのを何度もくりかえすものであるから、先学期に一度、質問に対して返事をもらったらありがとうございますのひとことは必ず言うようにしな、中国ではどうか知らないけれども日本ではかなり失礼にあたるから、日本人とやりとりするときは気をつけたほうがいいよと、そんな礼儀は中国だろうと日本だろうと変わらないしむしろ教師の権威が日本よりはるかに強いこの国のほうが学生らは教師に対してずっと恐縮するしかしこまるということを知りつつも知らないふりをして遠回しに注意したことがあったのだが、以降、礼だけは言うようになったものの、しかし今日もまたあいさつもなにもなくいきなり質問をぼーんと投げ出すというのをして、しかもやりとりの履歴を確認するとそういうのがまた複数回続いているようだったので、あのな、おれChatGPTちゃうんねんぞと内心げんなりしつつ、これはちゃんと注意しといてあげたほうがええんやろなというアレから、「こんにちは」「こんばんは」「先生、質問があります」などという、一年生でもこちらとやりとりするときに使うことのできるフレーズをいまさらながら紹介し、前置きとしてこうしたフレーズを使用したほうが失礼に当たらないよとレクチャーしたのだが、だからといって(…)くんは日本語が全然できないというわけではなく、むしろVTuberの配信とか視聴しまくっている筋金入りのオタクなのだ。というかそもそもこんなのは中国語でのやりとりでも英語でのやりとりでも日本語でのやりとりでも当然のアレであって、実際、中国語でも先生に対して質問するときにかならずこうしたフレーズを前置きとして使うでしょうというこちらの質問に対して、彼自身も「たしかにそうです」といったわけで、じゃあなんでという話になる。中国の学生らはむしろ外国人教師とやりとりする際に過度に恐縮し過度に緊張している節があり、特に敬語という概念を知って以降は先生に失礼な言葉遣いで接してしまっているのではないだろうかという不安からこちらと会話するのがむずかしくなってしまうそういうタイプの子すらいるぐらいで、だからそういう過度な権威をいったん解除するためにこちらは授業中しょっちゅうふざけたことばかり口にしていたりするわけだが、そういう学生らのなかにあって、(…)くんの「失礼さ」はちょっと尋常でない。いままでにいなかったタイプの学生だと思う——と書いたところで気づいたが、卒業生の(…)くんにもちょっとそういうところがあったかな。両者の共通点はディープなオタクであること、そしてその趣味から学んだ自分の日本語能力に自信があること。裏返せば、教科書レベルかつ定型的な日本語をなめていること。そういうアレから、定型表現(礼儀)を無視することがこなれた日本語であるともしかして勘違いしているのかもしれない。
 餃子を茹でて食す。ジャンプ+の更新をチェックし、歯磨きをすませ、ベッドに移動。「行人」(夏目漱石)の続きを読み進めて就寝。「行人」、クソおもろい。