20230209

 のちにムージルは、ニーチェと並んで「きわめて強い影響を思考に及ぼした」(…)二人のエッセイストを挙げている。ラルフ・ウォルドー・エマスンとモーリス・マーテルリンクだ。ともに一九〇〇年ごろ花開いた、無神論的で言語懐疑的な新神秘主義の、ドイツ語圏ではポピュラーな代表者だった。彼らは読者に、市民的な日常生活ではたいてい覆い隠されている《魂》の秘密を伝授すると約束していた。ムージルは米国の哲学者エマスンを終生評価していたが、ベルギーの戯曲家マーテルリンクの「ろうけつ染めの形而上学」(…)の方は、早々にイローニッシュに反転させられた。例えばマーテルリンクは、ひとは高みを目指して努めるべきだ、山頂では《悪事を行う》ことができないから、と主張したのだが、『テルレス』ではバジーニが、よりによって屋根裏部屋で拷問されるのである。
 この二人がムージルの作品にあたえた影響は、比喩やイメージの選択にいたるまで著しいものがある。エマスンにとって、世界はさまざまな対立関係へと分解しているが、それらの対立は相補(Kompensation)という神秘的な法則により相互に結びついている。そして大勢に順応しようとしない個人は、普遍的な[ウニヴェルザール]精神にのみ義務を負う。ムージルにとってもまた《精神》は——悟性と感情の交互浸透とみなされて——最上位の原理を意味していた。マーテルリンクは『貧者の宝』(ドイツ語版一八九八年)で人間の内にある超越的な魂の存在を教えていた。この魂は、はじめて発現することができる人生の希有な瞬間を待ちわびている。あらゆる表面的行為は、犯罪も含めて、この魂に触れることはない。これは《神秘家のモラル》であり、ムージルの作品の登場人物たちもこのモラルに従うことになる。戯曲『熱狂家たち』で、札付きの不貞妻レギーネは探偵シュターダーに宣言する。「ひとは内部では太陽神アポロの馬のように神聖でいられる。そして外側はあなたが書類にまとめたとおりなのよ」(…)。
(オリヴァー・プフォールマン/早坂七緒、高橋 完治、渡辺幸子、満留伸一郎・訳『ローベルト・ムージル 可能性感覚の軌跡』)



 11時起床。やや寝足りないが、生活リズム改善のために活動開始する。(…)から微信が届いている。役所でパスポートを受けとった、いまから大学に向かう、と。10時前のメッセージだったので、ぼちぼち到着するころかもしれないと思い、急いで歯磨きをして街着に着替える。朝食の食パンは切らしている。ラーメンも餃子も食べたい気分ではなかったので、(…)からパスポートを受けとったあとに(…)に出向くことに決める。
 白湯をのみながらニュースをチェックする。ほどなくして(…)から電話がある。あと10分でアパートに到着する、と。実際は10分もかからなかった、5分としないうちに玄関の扉をノックする音がした。(…)はこちらの部屋にやってくるとき、コンコンと二度叩くのではなく、コンコンコンコンコンコン……と中にいる人間がおもてに出てくるまで延々と叩き続けるというのをいつもやるのだが、あれは中国式のノックということなんだろうか? こういうのひとつとっても、なるほどな、この社会におけるほかのさまざまな習慣や風習や常識と共鳴するところがあるよな、と思う。(…)はパスポートをこちらに手渡すと、世間話もせずにすたこらさっさと去った。が、すぐに戻ってきて、またコンコンコンコンコンコン……とやり、一階の部屋の鍵を(…)に返してやってほしいといった。(…)さんの荷物が放り込んである部屋の鍵である。鍵を(…)にあずけ、今度こそバイバイ。(…)はマスクを装着していなかった。本当にすっかり終息したよなという感じ。
 準備を整えてからこちらも出発。曇り空ではあるが、雨は降っていない。寮の敷地内にあるゴミ箱のなかに野良猫が二匹もぐりこんでいる。一匹はこちらの足音に気づき、あわててゴミ箱の外に飛び出して無人の女子寮のほうに逃げこんだが、もう一匹はゴミ箱の外に出たもののそのかたわらにとどまり、それ以上逃げようとはしなかった、というかこちらが野菜屑や豚の脂身の入ったゴミ袋を手にさげているのを理解している顔つきで、捨てるものを捨ててとっとと去るのをじっと待っているふうだった。
 自転車に乗って(…)へ。今日の分もふくめて食パンを四袋買う。会計の際に阿姨から大学はいつ开学なのかときかれたので、二十二号と答える。礼を言って店を出る。ピドナ旧市街の入り口にある売店がとうとう営業再開していたので立ち寄り、念願のスポンジをゲットする。ついでにココナッツのお菓子も買った。
 帰宅。トースト二枚の食事をとり、食後のコーヒーを淹れる。洗濯物を干し、きのうづけの記事の続きを書く。投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年2月9日づけの記事を読み返す。以下、郡司ペギオ幸夫『やってくる』からの引用とそれに対する注釈。初出は2021年2月9日づけの記事。

 小学生のころ、日曜日の昼ごろというのは別段どこかへ出かけるというわけでもなく、多くの家庭では家でゴロゴロして過ごしたものでした。小麦粉と葱と紅生姜、鰹節で、関東ではお好み焼きとしてまかり通っていた薄焼きのようなもので昼食をとっていると、近隣の家々から「NHKのど自慢」のメロディが流れ、そこに遠くから製材所で材木を切る音が重なってくる。当時の私にとって、その香りと音の作る空間こそが、けだるい日曜の昼下がりのリアリティを立ち上げてくれるものでした。
 ところがこのリアリティは、それを構成する要素を過不足なく用意すれば立ち上がるかというと、そうではないのです。遠くに響く製材所の音は象徴的な役割を果たしています。それは明確に聞こえるものではなく、意識すれば聞こえるものの、意識しなければ背景に溶け込んで聞こえないものなのです。香りと音の空間外部にあって、この空間に参与する可能性のあるもの——製材所の音はその象徴なのです。
 つまり、リアリティに欠かせないものとは具体的な要素ではなく、いつこの空間に参与するかわからない空間外部の潜在性なのです。窓を見ると、上空を旋回する鳩の群れが視界に一瞬飛び込んでくるかもしれず、遠くから猫の声が飛び込んでくるかもしれない。これらの到来を待つ構えこそが、リアリティを感じる私を作り出していたのです。
 だからリアリティ喪失の直前とは、外部からの到来を待つ構えの喪失であり、外部が遮断される感覚なのです。私の視界や、いまここにある世界から何か失われるというのではなく、逆に、何かがやってくるかもしれぬという可能性が喪失する。これがリアリティ喪失直前の感じなのです。
(郡司ペギオ幸夫『やってくる』 p.136-137)

「外部からの到来を待つ構え」というのは、中井久夫のいうS親和者(分裂症的主体)の様態と同じだろう。「構え」が0になったとき、リアリティは喪失する。それは外部(出来事/外傷)が存在しないという世界、穴のない閉ざされた象徴世界すなわち記号化された世界ということができるのかもしれない。逆にその「構え」が100になったとき、象徴秩序は瓦解し、主体は臨床レベルでの分裂症者となる(そしてここでいう分裂症者は、実際には、自閉症者に近いものと考えられる)。

 あと、以下に引くくだりも一年前の日記の一部であるのだが、十年前の日記に書いた内容だったり、つい先日の日記に書いた内容だったりとほぼおなじアレで、なんかこうしてみると、じぶんは本当におんなじことばかり、いちおうは手を替え品を替えしつつも、しかし基本的には馬鹿の一つ覚えのように、ただただくりかえしているだけなんかなという気がしないでもない。

 夕飯をとるために外に出た。北門の外に出たところで、ふと、今日は空気が澄んでいると思った。いつもより夜景がやたらとくっきり映じているように思われたのだ。そのためだと思うのだが、まだまだ極寒といえるような寒さであるにもかかわらず、ふと、春の予感——というよりも夏への(ある種性的な)期待——がさっとよぎった。たてつづけに多幸感が、おとずれるでもみなぎるでもなく、やはりいくらかひかえめによぎると同時に、愛だの啓示だのというおおげさな言葉を用いることなしにはあらわすことのできないこうした瞬間をひとはだれでも持ち合わせているはずなのに、それでいてどうして少なくない人間が新疆や牛久のようなところに勤めてあのような行為に及ぶことができるのだろうと、まるで小中学生みたいな言い分だなと書いていてあきれるのだが、でもそのときはたしかに、混じり気なしの本気でそう思った。そう思ったときのじぶんのほうが正しく、それを子供の戯言のようなものとみなすいまのじぶんのほうが狂っていることもわかっている。狂人ばかりの世の中だ。

(…)で働いていた期間はたしか四年半か五年だったと思うのだが、あの経験の密度にひとしい経験をいまここで得ることができているのだろうか? できているか。日本待機期間の一年半を差っ引けばやはりそれ相応に濃密だったと思う。そう信じたい。そう信じることができるかぎり、人生に退屈しないで済む。

 それから2013年2月9日づけの記事も読みかえす。『物質的恍惚』、ちょいちょいカッコE記述があるな。

数々の物体は鏡である。本は鏡である。他人たちの躰、他人たちの眼は鏡である。ぼく自身の手は鏡である。ぼくの眼差が注がれるいたるところ、ぼくのうちにこの分身の強迫観念がやって来るとき、ぼくが見るものは、ぼくを見ているぼくだけだ。ぼくの寝返った意識の魔物たちが、世界中に住みついている。奴らの領土は、見えるもの、感じられるもの、聴こえるもの。世界の一片一片がそのときぼくに面と向かって、冷笑する。そしてぼくは愚弄から逃れることができない。
ル・クレジオ豊崎光一・訳『物質的恍惚』)

 あと、「昼下がりのゆったりとした談笑のひととき、酩酊時のじぶんのふるまいがひどすぎるという話題になり、これはみなさんぜひいちど直接目撃していただきたいという(…)さんのその一言がきっかけとなって、来週だか再来週だかに職場のみんなで飲みに行くことになった。(…)くんは酩酊するとおしゃべりになる、おしゃべりになるまではいいのだけれどそれがあまりに内省的すぎるおしゃべりなものだから会話のキャッチボールにならない、率直にいって泥酔した(…)さんより扱いにくいと、夜の祇園で働くその道のプロである(…)さんに言われてしまった」とあるのだが、この時点でもうこちらや(…)さんや(…)さんが(…)を吸っていることはオープンになっていたのだっけ? (…)さんや(…)さんにははじめのうちみんな伏せていたと思うのだが、いや、でもこの時点でもう週二日勤務になっているわけであるし、ということはそれ相応に打ち解けつつある時期なのか? それともこの飲み会というのはあくまでも酒を飲むという前提で計画されていたものなのか? よくわからん。この時期はまだブログを一般公開していた時期なので、いろいろ書けないことが多いのだろう、職場周りのことはやっぱりちょっと言葉足らずになっている。出勤日の記事は決まって短いし。

 今日づけの記事もここまで書いたところで北京の(…)くんから頼まれた作業にとりかかる。14時半から17時半までひたすらエクセルとにらめっこ。作業中は『Because He’s Kind』(BIM)と『LIVE IN TOKYO』(BES)と『メルヘントリップス』(なのるなもない)と日本語ラップばかり流す。アンケート作成者である(…)くんの設定したシチュエーションがあいまいであるために回答者の答えのピントがずれているものが多数あったり、それらを分類する誤用の定義がやはりものによってはかなりあいまいであったりするので、そのあたりのことも補足としてメモ書きしつつ、一部をのぞきひとまずすべての回答を分類する。
 エクセルを(…)くんに送ったところでキッチンに立つ。米を炊き、豚肉とたまねぎとトマトと青梗菜とニンニクをカットし、タジン鍋にドーンしてレンジでチーンする。食事中、(…)からグループチャットのほうに通知がある。すべての教師は17日までに大学にもどること、すべての学生は21日までに大学にもどること、新学期の授業は22日開始、すべての教員および学生は11日より毎日monitior one’s health situationし、集まりや食事会などを最低限にひかえること。これはofficialなnoticeであるので、となると市政府はいちおうコロナ対策を完全にゼロにしたというわけではないのだな、次の波がくるというあたまはいちおうあるのだなと考える。それから外国人教師の会議が17日の午後3時30分にあるとの連絡もあったのだが、これはちょっと意外だ、会議というとだいたいいつも午前中であるのだが、午後から会議だなんてはじめてではないか? ま、早起きしたくないこちらとしてはこれ以上ありがたいこともないわけだが。ちなみに会議ではマスクを装着し、keep a safe distanceしてくれとのこと。
 浴室でシャワーを浴びる。あがってストレッチをし、コーヒーを淹れ、21時になったところで授業準備開始。食レポの資料作成続き。合間に(…)くんとも頻繁にやりとりを交わす。こちらの分類に対する疑問点や補足に対する応答などが一覧表のかたちで送られてきたので、wordだったのをpagesに変更して「コメント」上で返信、それに対してまた(…)くんが返信、さらにこちらが返信——みたいなかたちで、おたがいの疑問点がなくなるまでやりとりを交わす。けっこう疲れた。結局、一日仕事になったな。
 0時前になったところで授業準備を中断。最後まで詰めることはできなかったが、ほぼ完成したといってよい。懸垂をする。餃子を茹でて食し、ジャンプ+の更新をチェックし、歯磨きをすませる。(…)の通知に対して(…)や(…)が返信しているのは確認済みだったが、(…)がなんの反応も示していなかったので、あれ、もしかして、と思ってグループの成員を確認してみたところ、メンバーから抜けていた。以前(…)のところでメシをよばれた際、(…)はmovedしたとかほかの学校で働いているとかいう言葉を(…)から聞いたわけだが、あれはやっぱりただ引越しただけではない、ただ冬休み中だけほかの語学学校でアルバイトしているわけでもない、マジで(…)を辞めたということなのだ。だったら(…)と(…)のふたりは負担が大きくなるんではないかと思うわけだが、しかし(…)は先日、来学期は担当する授業の数が少なくて休みがたくさんあるとよろこんでいたのだった。よくわからん。ただでさえレア度の増している外国人教師にこれ以上逃げられてしもたらたまらんという大学側のアレもあるのかもしれん。こちらの待遇もコロナ以前より少しだけ良くなっているし。
 ベッドに移動したのち、Everything That Rises Must Converge(Flannery O’Connor)の続きを読んで就寝。