20230210

 女性が男の魂の目覚めの際に導き手となるという考えは、まことに当時に特徴的な、広く流布したマーテルリンクの教えだった。
(オリヴァー・プフォールマン/早坂七緒、高橋 完治、渡辺幸子、満留伸一郎・訳『ローベルト・ムージル 可能性感覚の軌跡』)

 こうした教えをまったくもって信奉していないにもかかわらず、ムージルの諸作を下敷きにするかたちで形式的にその構図を借りてしまっているのが「A」や「S」であるので(もちろんそうした単純な構図におさまらないように異物的要素を混入することで意図的にずらしてはいるのだが)、そのあたりもやはりいずれはケリをつけないといけないなと思う。「変身」の「A」、「分身」の「S」、それに続く三部作三作目の可能性。



 アラームは11時半に設定してあったのだが、まんまと二度寝してしまい、次に目が覚めると12時半だった。歯磨きしながらスマホでニュースをチェックする。街着に着替え、白湯を飲み、自転車に乗って(…)楼の快递に向かう。おもては小雨。快递では洗顔料を回収。もうかれこれ二十年近く、洗顔はお湯だけすませてきているのだが、ここ最近——というのは中国に戻ってきてからという意味であるのだが、やたらと鼻のてっぺんにできものができる。いわゆるめんちょうというやつだと思うのだが、以前は全然そんなことなかったのにどうしてこんなに頻繁に? と疑問に思ってググってみたところ、基本的に清潔でない場合にできるみたいなことが書いてあって、パソコンにしてもスマホにしても本にしても決してきれいなもんではないし、というかスマホにいたっては平均的な便座よりも汚いみたいな話を聞いたことがあるのだが、そういうものに触れたあとその指でたとえば鼻をひっかいたりする、そのせいでめんちょうができるのだろうと思うのだけど、しかしそれは日本にいたときだって同じだ。で、思ったのだが、冬場のこの大気汚染、これがやっぱり原因のひとつとしてあるのかもしれない。洗顔について調べていたところ、朝の洗顔はお湯だけですませてもだいじょうぶであるが、夜の場合はやはり外出中にたくさん汚いものを顔に浴びることになるのでしっかり洗顔したほうがいいみたいに書いてあって、そういえば夏場は別にどうってことなかった、(大気汚染のひどくなる)冬場になってからやたらとめんちょうができるようになったんだよなというアレもあったので、とりあえず洗顔料をちゃんと使おうといまさら思ったのだった。ただまあ皮脂でテカテカしている十代でもないわけであるし、洗顔料を使いすぎるのはそれはそれでよくないというアレもあるみたいなので、週に二度夜だけみたいなペースでやればいいかなといまのところ考えている。
 快递をあとにする。あと十日ほどで学生らが戻ってくるという意識があるからだろう、いつもどおりほとんどひと気のないキャンパスであるのだが、ざわざわとした気配のようなものをときに幻視してしまう。帰路の途中、キャリーケースをひきずっている女子学生らしい姿をひとり見かける。なんらかの事情ゆえに特例ではやく大学にもどってくることが許された子かもしれない。第四食堂の近くでは道路を工事しているらしく、緑色のフェンスがもうけられており、近づくことができないようになっていた。
 帰宅。トースト二枚の食事をとる。その後、コーヒーを淹れて、14時すぎから18時前まで「実弾(仮)」第四稿執筆。プラス14枚で計209/977枚。シーン13を終えてシーン14に着手。(…)時代の同僚である(…)さんのエピソードをためしに加えてみたのだが、うーんどうなんやろ、ちょっと無理やり感があるような気がせんでもない。原則として回想的記述は控えめにし、そのシーンでいままさに現前している出来事を書き記すという手法をとっているのだが、(…)さんのエピソードはそのなかにあって完全に回想的記述なんだよな。いや、この原則この手法も、稿を重ねるにつれてけっこう適当になってきているというか、多少の例外があってもええやろ、コンセプチュアルにしすぎることもないやろというアレからなかば無効化しつつあるみたいなところもなくもないし——みたいなアレがある。なんでもええわ! 判断は次回のじぶんにゆだねる!

 キッチンに立つ。『Larderello』(Dos Monos)を流しながら米を炊き、豚肉と广东菜心とトマトとパクチーとニンニクをカットし、タジン鍋にドーンしてレンジでチーンする。食す。食後ひとときだらだらしている最中、ふと、顔が腫れていることに気づく。目の下の頬骨の頂点あたりが左右ともにやや赤くふくらんでおり、触れてみるとたしかに熱を持っていて、かつ、虫刺されのあとのようなしこりが奥のほうにあるのだ。最初は本当に虫にでも刺されたのかと思ったが、どうもそういうふうではない。かゆみもないし痛みもない。左右対称に症状が出ているとなると、すぐに思いつくのはやはり蕁麻疹で、顔に出る蕁麻疹といえばクインケ浮腫だ。しかしクインケ浮腫が出るのはだいたいまぶたかくちびるなので、今回はちょっと様子が違う。もしかしたらマスクかなと思う。しかしマスクをつけているのは外出時だけであるし、こちらはその外出をほとんどしない日々を送っている。いずれにせよ、洗顔料が届いた当日にこれかとややげんなりする。軽度の蕁麻疹であれば放っておけばいいし、症状が悪化したとしても手元にあるアレグラを服用しておけば問題ない。しかしそういうアレルギー性のなんかではない皮膚疾患であれば、ちょっとめんどくさいことになったよなァという感じ。めんちょうが知らず知らずのうちに悪化してどうのこうのだったら抗生物質も必要になってくるし。

 きのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所を巡回し、2022年2月10日づけの記事を読み返す。作業中は『Tower of Silence』(Roberto Musci)をくりかえし流す。かなりいい感じ。
 以下、2020年2月10日づけの記事より。「石川県多賀市に出向き、(…)さんとそろって心療内科と小松のイオンをおとずれたのち、ひとり金沢のゲストハウスに移動して一泊した日」の「金沢のゲストハウスに到着後、ラウンジで夜食を食べながら「(…)」でやりとりしている一幕」。

キャビンの中は飲食禁止だった。セブンイレブンで購入したおにぎりを食うべくふたたび五階に移動した。カフェスペースのテーブルに着席しておにぎりとほうじ茶の夜食をとった。「(…)」上で今後ほかの大学もオンライン授業をすることになるかもしれないという話題が出ていた。ファック。フロアではずっとビートルズの音楽が流れていた。フロントには男性スタッフがふたりいるきり、深夜ということもあってさすがにこちら以外の客の姿はなかった。オンライン授業をしてくれという依頼があったとしたら断ることができないと(…)さんはいった。彼の勤める大学には彼以外にも四人か五人日本人教師がいる、ほかの日本人教師がオンライン授業を受け入れるなかじぶんひとりだけ断るわけにはさすがにいかないだろうとのこと。その点日本人教師がふたりしかない(…)はまだわがままが通用するかもしれないとこちらが受けると、断るにしても責任者が責任に問われない断り方をしたほうがいいですよと(…)さんから助言があった。つまり、体調が悪いとかオンライン授業のできる環境が整っていないとか、なにかしら正当な理由をつけて断らないといけない、というのも中国政府もこの件についてはやっきになっているはずで、仮にオンラインで授業をしろという要請を受け入れない大学ないしは大学教員が大量に出てきた場合、見せしめとしてなんらかの処分を下す可能性がおおいにあるからだという。いまいちばんの弱者は下級官僚ですよと(…)さんはいった。上と下にはさまれてその調整に四苦八苦しているに違いないから、と。普段は偉そうな彼らですがいまは弱者です、いまの中国は戦争状態ですから——そう続く言葉にインスピレーションを得た。「下級官僚」は「有事の弱者」であるという観点から、カフカの『城』を読み直してみれば、けっこう面白いのではないかと考えたのだ。つまり、『城』は官僚らによってふりまわされまくるKの悲劇として最初期は読まれていた。それが(おそらくはドゥルーズ=ガタリ以降)官僚らにたちむかいときにやりかえすKの痛快極まりない喜劇として読まれるようになった。そしていま、その延長線上に、Kの来訪という「有事」によってふりまわされる「下級官僚」に軸足を置いた読みの可能性がきりひらかれたというわけだ。

 それから2013年2月10日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に転載。

ぼくはぼく自身の息吹によって支配され、ぼく自身の肺によって呼吸されていた。ぼくはぼくの口によって切り裂かれていた、ぼくの咽喉によって呑まれ、ぼくの腸によって消化されていた。ぼくから外に出てぼくに戦いを挑んでいる、油断なく身構えたぼくのすべての器官によって、見られ、聴かれ、感じられていた。
ル・クレジオ豊崎光一・訳『物質的恍惚』)

 その後、今日づけの記事も途中まで書いたのだが、顔の腫れがいつのまにかひいていた。よくわからん。軽いアレルギーみたいなものだったのだろうか? だとしても、こんなにすぐに症状がおさまるなんてことがあるのだろうか? 浴室でシャワーを浴びる。皮膚のかぶれとかではないようであるし、だったら問題ないだろうということで、洗顔料を使って顔を洗ってみる。特に問題はなし。
 あがったところでストレッチ。その後、授業準備にとりかかる。「食レポ」の資料は完成したので、第27課に着手。しかしすぐに悩む。26課以降は『みんなの日本語2』になるわけだが、教科書を使った授業は『みんなの日本語1』にとどめて、『みんなの日本語2』はもう使わなくてもいいんではないか、オリジナルでいろいろやったほうがいいんではないか、と。がしかし、すぐに「いや、あのクラスで高レベルのアクティビティだけで授業をするのは不可能だ!」といういつもの結論にたちもどる。『みんなの日本語2』を使用するにしても、かぎられたコマ数でどの課をピックアップすべきかが問題であるので、まずは教科書にざっと目を通す。しかしよくよく考えてみると、現二年生は口語の授業は日語会話(三)で終わりであるが、現一年生からは日語会話(四)まで担当するように言われている、つまり、現一年生は『みんなの日本語2』のほうもわりとがっつり使う可能性があるわけで、だったらそれを見越して、来学期の日語会話(三)も『みんなの日本語2』の中から適当なものをピックアップして教案をこしらえるべきではないというか、ピックアップするにしても原則としては前から順にやっていくべきではないかと考える。そうしたほうが一年後のじぶんの役に立つ。
 そんなこんなしているうちにめんどうくさくなってやる気も失せたので切りあげる。こういう日もある。しゃあない。冷食の餃子を食し、ジャンプ+の更新をチェックし、歯磨きをすませる。それからまた『みんなの日本語2』にざっと目を通し、応用問題やアクティビティについて少し思案する。
 寝床に移動後、Everything That Rises Must Converge(Flannery O’Connor)の続きを読む。“A View of the Woods”を読み終わる。これもなかなかすさまじい。老人と孫の組み合わせという共通点から“The Artificial Nigger”とどうしても比較したくなるが、“A View of the Woods”のほうがオコナーらしい容赦なさが凝縮されている。“The Artificial Nigger”には、ある種わかりやすい救い、後味の悪くない、妙にきれいなまとめのような記述が最後にあり、あれはちょっとオコナーのエッセンスともいうべき容赦なさと比較して、甘いというか逃げているというか、そういう印象をもたらすものだったが、“A View of the Woods”にはそういう読者を安心させる着地点みたいなものは設けられておらず、最後の最後まできつい。ちなみにこの作品では老人も孫もめがねをかけている(そしてクライマックスの殴り合いのシーンでそのめがねが吹っ飛ぶ)。
 そういえば、書き忘れていたが、起き抜けのニュースでバート・バカラックの訃報に触れたのだった。バート・バカラックの名前をはじめて知ったのはたしかジム・オルーク経由だった気がする。中原昌也だったかな? いや、細野晴臣だったかも。なんでもええわ!