20230212

 一九〇八年、フランツ・ブライの文芸誌『ヒュペーリオン』に、ムージルの小説「魅せられた家」が掲載された。手早く書き上げられたこの作品は、作者に言わせれば「肩慣らし」(…)、自分の名前を読者に忘れさせないためのものでしかなかった。次作の小説もやはりリアリズムの手法で書き、短期間で仕上げるつもりだった。ところが、そうはならなかった。数十年後、ムージルは当時を振り返って次のように断定する。「当初の意図と実際に書かれた作品とのこの食い違いほど、不可解なものは他にあるまい。この食い違いがいかに大きいかは、短い物語を一本手早く書き上げるつもりでいたのに、短編二本に結局二年半、それもほとんど昼夜ぶっ通しでかかずらったことからも知れる。この短編のせいで、あやうく神経をやられるところだった。所詮ほとんど儲けにならない仕事にあそこまで精力を傾注するのは、偏執狂と紙一重だからだ。[...]要するに、これは一個人の愚行、そうでないとすれば、個人にとって重要かどうかを超えた重みのあるエピソードである」(…)。
(オリヴァー・プフォールマン/早坂七緒、高橋 完治、渡辺幸子、満留伸一郎・訳『ローベルト・ムージル 可能性感覚の軌跡』)

 上は『合一』について。古井由吉もよくあれを翻訳したもんだ。



 14時起床。なにしとんねん、すっとこどっこいが! 新学期はじまるっちゅうねん! (…)の(…)先生から来学期の時間割が届いている。(…)二年生の日語会話(二)は木曜日の午後一発目に決まった様子。授業の曜日がバラけたので週休五日制にはならんかった。
 腰の調子は良くなっている。これだったら買い物にいくこともできるなと思う。そうして歯磨きしながらスマホでニュースをチェックし、軽くストレッチをし、その後キッチンに移動してトーストの用意をしたのだが、そうこうするうちにやっぱりまたおかしくなってきて、これはきっと冷えのせいだなと思った。冷えのせいで筋肉が強張り硬直し、それで痛みがまたぶりかえしてきているのだ。それでも昨日よりはいくらかマシになっている。一週間もしないうちに完治すると思う。
 そういえば、昨夜就寝前に高校三年時の(…)の写真をLINEで本人に送ったのだった。金髪坊主頭の(…)のサイドの部分にバリカンでこちらがラインをいれようとしたのだが、おもいきり失敗し、その失敗をどうにかごまかそうとしてふたたびバリカンを走らせたものの、さらに失敗を重ねてしまい、というのを延々とくりかえした結果、最終的に完全にとりかえしがつかなくなってしまった——(…)曰く「人の頭勝手にリーボックにしやがって!!」——その姿を使い捨てカメラで撮影した写真で、京都を出るまえの引越し作業中に見つけたのをあらためてスマホで撮影したのを昨夜、授業で使える写真はないかと画像フォルダをスクロールしている最中ひさしぶりに発見して爆笑し、そのまま(…)に送りつけたわけだったが、その返信が今朝届いていた。「スシローでペロペロしそうな憎たらしい顔してんな」というもので、それで、「ネットで炎上騒ぎがあるたびに、自分が中高生の頃にSNSがなくてマジで良かったと思うわ。おれも(…)も絶対やらかしとるやろ。」と送ると、「うん間違いない、最近会社でそんな話ばっかしてるわ。あそこもアホばっかやからな。」という反応があり、やっぱそうだよな、ああいう環境で育ってきた人間としてはまずそういうふうに思うよな、少年を無邪気に叩けんわなと思った。田舎のヤンキーがバカやって炎上するたびに、おれはほんと首の皮一枚で助かった人間にすぎんよなと思う。生まれてくるのがあと十五年遅かったら、じぶんもじぶんの周囲もどうなっていたかわからんな、と。(…)はそうでもないかもしれんが、こちらや(…)のような人間は、「やらかしていたかもしれない」ではなく、時代が時代だったら「絶対にやらかしていた」と断言できる。だから全然他人事と思えない。
 トースト二枚を食す。食後のコーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きを書く。投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年2月12日づけの記事を読み返す。ロシアによるウクライナ侵攻の可能性が専門家らのあいだでほぼ確定したものとみなされている時期らしく、小泉悠のインタビューや東野篤子のツイートが引かれているのだが、その後のくだりは以下のように続く。

 あと、きのうづけの記事に書いたVTuberの潤羽るしあの一件について、熱心なファンがTwitterハッシュタグ「るしあ大好きだよ」運動を起こしたところ、それがTwitterによる翻訳機能によって“WeLoveRussia”に変換されて世界のトレンド欄に表示されるみたいな、そして海外の人間が日本どうしたんだと困惑するみたいな、こんなもんそんじょそこらの小説家では絶対にマジで思いつくことができひんやろみたいな出来事が生じていた。トランプまわりのあれこれもそうであるし、日本であれば自民まわりの、それこそ最近だったらオリンピックやコロナに関するあれこれもそうだが、ああいうのを見ていると、ガルシア=マルケスの『族長の秋』に見られるような戯画的な独裁者あるいは独裁国家のふるまいというのは、実をいうとそれほど戯画的ではなくけっこうリアルなんではないかという気すらしてくる。先日、安倍晋三肝煎のクソマスクを処分するのか希望者に送付するのかという論争みたいなのがあったらしいが(送付費用が保管費用より圧倒的に高くつく時点で議論の余地なんてないという話だと思うのだが!)、維新の議員がわざわざ国会でそのマスクを縫い合わせてこしらえた産着を取り出してこんなふうに有効利用することもできるんですと媚びに媚びた発言をフェイクでもなんでもなくマジでやっていたのを見て、本当に絶句したのだが、同時に、こういう荒唐無稽さのまかりとおるのが独裁国家なんだなと心から思ったのだった。

 こうした荒唐無稽さがマジで笑えなくなってきているのが、ものすごく大雑把にいえば、第二次安倍政権以降の変化だったわけだ。しかしこの後、安倍晋三は銃撃される。そしてその死後、彼をもっとも熱心に支持していた層がもっとも忌み嫌う韓国の新興宗教とのベタベタに過ぎる関係が明るみに出されたわけだが、というか統一教会と自民の癒着なんてこちらの記憶にあるかぎり、それこそ十年以上前からネット上ではふつうにでまわっていた情報だと思うのだが、それはともかく、あの支持層というのはその癒着をいまどういう理屈でもって合理化しているのだろう? ビジネスでネトウヨをやっているような連中は厚顔無恥にひらきなおるのが仕事のようなものなので平常運転しているのだろうが、ある意味ピュアな「憂国の士」として幼稚なナショナリズムを声高に語る政権を熱狂的に支持していた層は、そんじょそこらの理屈でもってはもはやごまかしようのない報道の連続に対してどのような防衛をくわだてているのだろう? ひまがあったら、その手のまとめブログやツイッターアカウントを調査してみたい。
 それから以下のくだりもちょっと印象に残った。「過去の日記とそれに対する注釈というかたち」の小説の素案もある。

(…)シャワーを浴びている最中、直前までFF7REMAKEの動画を見ていたためだろうが、ループものについて考えた。すべての記憶を持ち越したままじぶんの人生を最初からやり直すという方式ではなく、たとえばある日、突然、人生の軌道がそれ相応に固まりつつある時期に(十代後半から二十代前半?)じぶんの人生が二周目であることに気づき、一周目と二周目の差異に翻弄されるみたいなタイプのエンタメ小説もあるのだろうかと思った。なろう系の発想でいえば、一周目の記憶をフルに使って二周目の人生を神話の原父のごとく思うがままに享楽しまくるわけだが(チート)、この発想って結局、一周目の人生のなにもかもが壊滅的にうまくいっていないことが前提になっている。たとえばじぶんの身で置き換えてみるとわかりやすいのだが、手持ちの記憶を引き継いで高校卒業と同時に人生をやり直すとして、一生食っていける金を稼ぐ手段は無数にあるだろう。ただ、そこで食いっぱぐれることのないほどの大金を稼いだとして、じゃあもう働く必要はないのだしという感じで、(…)や(…)で働かないという選択をじぶんは選びとることができるのだろうかと思う。記憶の中に同僚や学生らとともに過ごした経験は確かに蓄積されている、その経験をこの世界は決して認めない、そういう状況にじぶんははたして耐えられるのだろうかと思う。耐えられないのではないか? そこで二周目でも仮に(…)や(…)で働くことになったとする、しかし当然一周目とは差異が生じる、一周目とはいくらか異なる人間関係を築き上げることになるだろうし、一周目で起こったはずのイベントが二周目では起こらないこともあるだろう。一周目に比べてはるかに良い関係性を築き上げ、はるかに良いイベントが生じるかもしれないが、一周目はより良く美しいそれらによって次々となかったことにされていく。そのことに自分は耐えられるだろうか? 耐えられないのではないか? 耐えられずに狂うか死ぬかするのではないか? そういうようなことをぼんやりと考えていたとき、ふと、あ、おれってこんなにもじぶんの人生を肯定している人間なんだ、と驚いた。橋本絵莉子波多野裕文の“飛翔”の「もう一度やり直せても同じことを選ぼうと思う」という歌詞を思い出した。
 この発想であれば、ラノベではなく擬似私小説のほうが面白いかもしれない。自分の人生を大学卒業あたりからたどりなおすのだが、「なかったこと」にされていく細部に耐えられなくなっていく語り手による手記。この方法を用いれば、私小説(一周目)と擬似私小説(二周目)を組み合わせることができるし、それを現実と虚構の対立として作り上げることもできる。さらに手記という体裁に工夫をくわえてもう一段メタフィクションっぽく積み上げることもできるかもしれない。ずっと以前から、過去の日記とそれに対する注釈というかたちで小説を作ることができないかと考えていたわけだが、その方法よりもこちらのほうがずっといいかもしれない。

 それから2013年2月12日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」のほうに転載。さらに今日づけの記事もここまで書くと、時刻は17時半だった。

 街着に着替えて部屋をあとにする。自転車に乗って(…)へ。雨はあるかなしかの小降り。道中、先ほど書いたばかりの炎上騒動について、あれをなんであんなことするのかまったく理解できないと受け止める層と、じぶんだったかもしれんと受け止める層とで、世の中の人間を大きく二分することはおそらくできるんだろうだろうなと思った。それと同時に、あのような騒動を見てじぶんだったかもしれんとまったく思わないひとがいるのだとすれば、そのひとは実際かなり恵まれた生まれ育ちだと言ってしまってもいいんではないか、とも。ものすごく適当な直感だが。

 (…)の手前にある交差点の歩行者信号が修理されていた。青信号がきちんと表示されるようになっていたのだ。(…)市政府の人間、はやくもこのブログを嗅ぎつけたか? しかし(…)店内でのスポンジの取り扱いはないまま。いや、別の売店でもう購入したので、ここで取り扱いがなくてもいいといえばいいのだが、ここまできたら意地でも——腰痛を押してでも——毎回チェックしてやれという気になるのだ。
 腰の痛みや強張りに気を配りながら買い物をする。重い荷物を運ぶのはよしたほうがいいだろうというアレから量は控えめにする。野菜コーナーでは广东菜心とトマトとブロッコリー、精肉コーナーでは鶏胸肉を三枚だったか四枚だったか買う。豚肉ではなく鶏肉にしたのは、(…)さんが土方時代、腰痛のひどいときはとにかく鶏肉を食いまくれという話を、ゴッドハンドと称される整体の先生に言われたのだったか、あるいは土方仲間のあいだで常識として流通していたのだったか、いやそうではなくてNHKかなにかの番組でそういうのを見たというのだったか、ちょっと忘れてしまったがとにかくそういう話を(…)さんから以前聞いたことがあり、あれはしかしどうしてそんな話になったのだったか? あのときもやはりなにかをきっかけにこちらが腰を痛めていたのかもしれない。鶏肉はもも肉ではなく胸肉にしたほうがいい、なぜなら鳥は翼をはためかせて空を飛ぶときに胸の筋肉を使うから、だから胸肉を食えば筋肉の損傷は治るみたいな、ちょっとおもしろい迷信じみた論理をそのとき聞いたおぼえがあって、で、その論理が気に入ったので、以来、こちらは体をいためるたびに胸肉を食うのが習慣になっている。
 ほか、冷食の餃子も買い物カゴにつっこんでレジへ。会計をすませて顔認証ロッカーの前に移動する最中、ほうきとちりとりを手にした清掃婦のおばちゃんが通路に設置された求人情報の看板をながめているのを見た。じぶんの時給より高い仕事が掲載されているんだろうなとなんとなく思った。ロッカーからリュックサックを取り出して店の外へ。空は暗く、霧がかっている。霧というよりはスモッグなのかもしれないなと思いながら自転車の鍵を開錠する。すぐそばを赤毛のボーダーコリーが飼い主といっしょに歩いていく。
 寮にもどる。四階の一室の扉があけっぱなしになっている。おもてにはバケツやモップが出したままになっている。この部屋にひとが住んでいる印象はないのだが、なぜ掃除を? と考えたところで、三月から大学にもどってくるというほかの外国人教師らの到来にそなえて、管理人の(…)が部屋の掃除をしているのかもしれないと推測する。
 帰宅。キッチンに立つ前に休憩をかねてモーメンツをのぞく。数年前、(…)さんと一緒にスタバで作業をしている最中に声をかけてきた小学校教師の(…)さんが——彼女はわりとしょっちゅうモーメンツに写真だの文章だのを投稿するのだが、その投稿内容から察するに、すでに数日前から小学校は新学期がはじまっているらしい——受け持ちの児童らの書いた作文+漢字テストの結果を、たぶんとりわけ優秀な結果だけをチョイスしてというかたちだと思うのだが、名前も伏せずに投稿している(こういうところ、やっぱり個人情報とかプライバシーとかそういうもののとらえかたがまったく異なるよなと思う)。で、その児童らの書いた一文二文程度の短い文章のテーマというのが、たぶん将来の目標とかそういうものだと思うのだが、みんな紋切り型の文句ばかりで、というのはつまり、医者になりたいとか先生になりたいとかあるいは歌手になりたいとかそういう具体性はいっさいなく、そろいもそろって社会のために国家のために役立つ優秀な人間になりたいみたいな抽象的なスローガンじみたアレばかりで、うちの学生からは何度か、中国の作文には常に正解がある、小学生のときから作文といえばそういうものだという認識がすりこまれている、だからほとんどの学生は作文が嫌いだ、みたいな話を聞いたことがあるわけだが、なるほどこういうことなんだなと思った。
 キッチンに立つ。米を炊き、鶏肉と广东菜心とトマトとニンニクをカットし、タジン鍋にドーンしてレンジでチーンする。食す。食後の休憩というタイミングで、「(…)」のふたりから連絡。ビデオ通話の誘い。了承する。
 そういうわけで19時半から(…)さんと(…)さんと通話。冬休みのあいだほぼヒゲの手入れをしておらず(最後に剃ったのは(…)といっしょにvizaの更新に出向いたときか?)、そのせいで現在またヒゲボーボーになっているのだが、そのヒゲを見せびらかしながら、どう? かっこいいでしょ? というと、ふたりとも顔をしかめて手の前で両手をふりまくりながら否定し、(…)さんにいたっては、「先生! だらしないオタクね!」というので、クソ笑ってしまった。それにしても中国の女子はヒゲが嫌いだ。ボーボーではない、いわゆるおしゃれな無精ヒゲですら拒絶する子が多い。これまで中国でヒゲをはやしている男の姿を見たことはマジで通算五回未満だと思う。上海とかにいったらまた別なのかもしれないが、しかし学生らにこれまでヒアリングしたかぎり、都市部であってもそんなに変わらない様子。中国でヒゲをたくわえている男性というのは芸術家だけだみたいな話も何度か聞いたことがある。そういう社会のなかで、数年前のじぶんはのばした顎ヒゲをヘアゴムで束ねていたわけで、そりゃ(…)の電車内で見知らぬ子どもたちに指差して笑われるわな。
 先生ずっと(…)にいたのというので、ずっといたと応じる。ずっと読書? とかさねてたずねてみせるので、読んだり書いたり授業準備をしたりとにかくずっと部屋にいるよと答える。きのう部屋の掃除中にぎっくり腰になったことも話す。ぎっくり腰といっても伝わらないに決まっているので、椅子をもちあげた瞬間に腰が痛くなって動けなくなってと説明すると、(…)さんはそれでピンときたようす、すぐに中国語で(…)さんに通訳すると、(…)さんは笑いながら、「先生! やっぱり老人ね!」という。だまれアホと返事する。冬休み中の過ごし方についての話が続いたので、実は(…)先生から春節前に食事に誘われたのだと告げると、ふたりともすごくびっくりしていた。行きましたかというので、いや逃げたよと応じ、みんな爆笑。英語学科の(…)のところでは何度かいっしょに夕飯を食べたよと続ける。
 コロナの話にもなる。こちらはまだ感染していないと伝えると、中国の病毒だから中国人しか感染しないと(…)さんが冗談をいうので、でもイギリス人の(…)は感染したよ、それも熱が40度以上出たんだよと伝えると、「先生は独身だから……」となぜか声をひそめていうので、だまれアホとここでも受ける((…)さんがなにかふざけたことを口にし、それに対してこちらがアホと応じるというのは、完全にパターン化している——ちなみに、学生らと話すときは当然標準語を徹底しているわけだが、悪態をつくときだけは「バカ」だけではなく「アホ」も使うようにしている)。ふたりは新学期がどうなるものか、やはり少々心配しているようだった。学内で感染者が出たらどうなるのだろうというので、またオンライン授業になるのかなと受けると、それは絶対にいやだ! とふたりとも首をふってみせる。(…)も(…)先生も今後はオンライン授業になることはないだろうとは言っていたものの、そんなもんお上の思いつき次第だしなァ。でも感染者がひとりでも出たら大変なことになるよね、たとえば(…)さんがもし来学期コロナにまたなったら、ルームメイトの(…)さんも(…)さんも(…)さんも(…)さんも(…)さんも(…)さんもきっとみーんな感染するでしょというと、ふたりともうんうんうなずく。ま、その場合はこちらとて例外ではないわけだが。
 しかしいちおうはゼロコロナ解除で通常の社会にもどったということになっている。少なくとも、いまのところは。たぶん。そういうわけで来学期クラス旅行があるかもしれないとふたりはウキウキしたようすで口にした。あれはどういうくくりだったか、たしか口語の実践研修みたいな名目だったと思うが、三年生の後期、学生たちは二泊だったか三泊だったかの旅行をするのだ。いちおう都市部にいる日本人に声をかけて口語能力を試すみたいな大義名分もあるのだが、実際はそんな機会を見つけることのできない学生が大半で、ほぼ修学旅行みたいなノリで終わるのだが、それもここ数年はコロナのせいで中止となっていた、それが今年は復活するだろうといわれているとのことで、かつてのように西安に行くことになるのか(…)に行くことになるのか、いずれにせよたいそう楽しみにしているようす。時期はまだわからないという。例年けっこう暖かい時期だったように思うのだが、仮にそうだった場合、たとえば五月だったとして、その時期というのはちょうど集団免疫も失われつつある時期とかぶるのではないか、次の波がおとずれる時期にぴったり重なるのではないか、そうだった場合中止になる可能性もなくはない。
 四級試験の結果はまだ出ていないとふたりはいった。心配でたまらないという。(…)さんは正直合格するのはきびしいと思うが、(…)さんはなんとかなるんではないか(とはいえ、彼女はスピーチの練習がいそがしく、試験対策に時間をほとんどかけることができなかったというアレもある)。結果がいつ出るかもわからないというのだが、たぶん来学期がはじまって早々に発表されるんではないか。ふたりは教師の資格試験を受けそこねたといった。そもそも教師になんて興味なかったでしょうというと、いちおう資格をとるだけとっておいて、で、就職ができなかった場合、最後の手段として教師になることを考えているという返事があった。高校の日本語教師の資格であるわけだが、高校教師はストレスがえげつないので(「人生が決まる」高考にかかわることになる)、できるかぎりなりたくないとのこと(学生らの早朝の自習に付き合う必要もあるので、朝などかなり早起きする必要もあると聞いたことがある)。
 三度の飯よりバドミントンの(…)さんに、冬休み中はバドミントンしていないのかとたずねると、いっしょにできる相手がいないという返事。去年の夏休み中、地元のバドミントン場をおとずれたところ、おっさんたちがたくさんいて若いひとを見つけることができなかったと言っていたのを思い出したのでその話をふると、いつも四十歳から五十歳くらいのおじさんたちがバドミントンをしているという返事があり、日本ではその年代の男性がバドミントンをしている姿を見ることなんてほぼないよなと思った。しかし中国ではごくごく一般的な光景らしい。
 通話は21時過ぎに終えた。院生の修士論文を手伝わなければならないからと理由をつけてこちらから終わらせたかたち。それから日語口語(三)の第27課の教案にざっと目を通し、詰めるべき問題点を確認する。で、浴室に移動し、シャワーを浴び、浴びている最中に問題点の解決方法をひらめく。天才やな。
 あがってストレッチ。コーヒーを淹れ、22時から1時まで「実弾(仮)」第四稿執筆。シーン14の続き。前回追加した(…)さんのエピソード、うまくならしてはめこむことができたと思うのだが、多少無理をしたことはいなめない。結果、ごくごくささやかなアレではあるのだが、文章としてどうしても弱く脆い継ぎ目のようなものが浮かびあがってしまい、そこがちょっと気になる。次回修正する。
 冷食の餃子を茹でて食す。ジャンプ+の更新をチェックしながら歯磨きをする。歯磨きのあとはいつもフロスもするのだが、どうも糸にシャンプーがついていたらしく、ゆすいだあともしばらく口の中がシャンプーのにおいでいっぱいになって、これはちょっと気持ち悪かった。寝床に移動し、腰をストレッチしながらEverything That Rises Must Converge(Flannery O’Connor)の続きを読み進める。“The Enduring Chill”を読み終えたのだが、これは“A Stroke of Good Fortune”とペアになる小説と位置づけることができるな。妊娠を認めようとせずそれを病気のしるしとほとんど偏執狂的に思い込んでいる女性が最後にその妊娠の事実を受け入れる前者と、都市で作家になりそこねた男が病をきっかけに実家のある田舎にもどり才なき自分に対する救い(死)をもたらすその病の帰結を待ち望んでいたところが実際はそれが死の病でもなんでもなくちょっとした体調不良でしかないことがあきらかになるという後者。前者のクライマックスは妊娠の事実を受け入れる主人公のようすがポジティヴなトーンで描かれていたのに対し、後者のクライマックスはそれとは反対に、死という救いすらあたえられることのない男の人生にこれから先も続く(作家たりえない自分が生きざるをえない)人生が一種煉獄のようなものとして表象されている。
 しかし腰痛に見舞われて思うのだが、冨樫義博はこれよりもずっと、はるかに、くらべものにならないほどえげつない痛みと不便さに年単位で悩まされながら、それでも『HUNTER×HUNTER』を不定期連載しているわけで、すごいな、本当に尊敬する。