20230216

 ムージルのこれらのエッセイでは文学的ディスクールと学術的ディスクールが対話を始め、融合して、生き生きとした思考となる。そのため本来の執筆のきっかけが踏み越えられてしまうこともめずらしくない。たとえば「新しい美学への端緒——映画のドラマトゥルギーのための覚書」(一九二五年)も当初は、ハンガリー出身の友人ベーラ・バラージュ(一八八四年〜一九四九年)の映画理論『視覚的人間』を特定の問題に注目して論評することしか意図していなかった。ところが、美学、ゲシュタルト心理学精神病理学精神分析学、さらに民俗学の知識を援用することで、この書評は簡にして要を得た芸術理論にまで発展してゆく。この理論によると、どんな芸術にも「通常の体験を破砕しつくす根本的な力」(…)がある。「芸術は体験されることで経験の型を破砕し、そうすることで世界の見え方と世界の中での振舞い方とをたえず鋳直し、新しいものへ変えてゆく」。これが芸術の使命である(…)。
(オリヴァー・プフォールマン/早坂七緒、高橋 完治、渡辺幸子、満留伸一郎・訳『ローベルト・ムージル 可能性感覚の軌跡』)



 7時半にアラームで起きた。9時間ほど寝た計算になると思うのだが、早起きするとそれだけで調子が出ない。朝早くに起きたという事実が——昼前まで寝床でぬくぬくできなかったという事実が——睡眠時間とは無関係にこちらのメンタルに影響をおよぼすのだ。玄関からいったん外に出て、向かいの部屋に入り、奥にある便所で小便をする。そうしてその部屋をあとにし、また自室にもどってくるわけだが、デカいうちに住んでいる金持ちは毎日こんな感じなのかもしれない、小便に行くだけでも扉をいくつも開けたり閉めたりする必要があるのかもしれない、だとすれば金持ちの暮らしというのもなかなか鬱陶しいものだ。
 ストレッチをする。腰はかなり良くなってきている。反らすとまだ痛むので、重いものは持たないほうがいいとは思うが、来週にはもう筋トレを再開することもできるんではないか。少なくとも腰の筋肉を使わない懸垂は問題ないはず。
 トースト二枚を食し、白湯を飲み、ニュースをチェックする。食後のコーヒーを淹れてほどなく(…)から微信が届く。(…)さんの荷物を日本に送る件について、いつであれば都合がいいかと問うもの。新学期がはじまるまでのあいだであればいつでもいい、ただ業者が部屋に入っているあいだはやはり留守にしたくないので、そうなるとおそらく新学期に入ってからになる、その場合は月曜日か水曜日であれば空いていると答える。
 (…)でいえば、きのうづけの記事にひとつおおきな書き落としがあった。人夫らが去ってほどなく、こちらがキッチンで夕飯の準備をしているとき、彼女と(…)のふたりが突然部屋にやってきたのだ。工事中の様子をチェックしたいというので部屋に招きいれ(土足のままでいいのかというので、かまわないと答えた)、そのまま阳台のほうに案内したのだが、阳台から浴室のほうをのぞきこんだふたりはやや険しい顔つきでなにやら言葉を交わしはじめた。それから(…)は英語で、予定していたのと違う、本当はもっと底のほうまでハツってもらうはずだったのに、みたいなことを言った。トラブルの予感。もしかしたら予定より長くなるのかもしれないと思いながら、そもそもこの工事は何日かかるんだとたずねると、(…)は中国語で(…)に確認したあと、いまのやり方であれば合計五日間、けれども元々予定していたやり方であれば七日間かかるといった。それで、思っていた以上にずっと長期戦になるんだなと、けっこうげんなりしたのだった——そのことを書き忘れていた。
 9時になったところで「実弾(仮)」第四稿に着手した。ほどなく玄関の扉がノックされた。出ると、ペケジがいた。今日はひとりらしい。浴室のほうに通して、デスクに戻る。そのままカタカタやっていたのだが、10時過ぎになったところで、ペケジが浴室から寝室のほうにやってきた。今日はもう終わったのかとたずねると、終わったという。それから水道の使用について説明をしはじめたのだが、それがちょっとよくわからなかった。こっちへ来てくれといって浴室のほうにいくので、ついていくと、フロアがプールサイドよりももっと青いペンキでベタ塗りされていた。水道の元栓は浴室にある。颜料という単語が聞き取れたので、ああ、このペンキが乾くまで入るなということなのだろうなと察したが、細かいところがよくわからなかったので、筆談をお願いした。それでペケジがスマホに打ち込んだメッセージを見せてくれたのだが、颜料が乾いたら元栓を開けてもいい、けれども乾かないうちは開けてはならないとのこと。水栓を開けた状態にしても浴室の水道すら使わなかったら問題ないのではないか、台所の水道は使ってもかまわないのではないかと片言の中国語でいうと、水栓を開けた状態にすると浴室のシャワーかどこかから水漏れがするのだとペケジは言って、それでいえば、ペケジは今日浴室に入ってすぐ、昨夜シャワーを浴びたのかとこちらにたずねたのだったし、浴びていないと応じると、でも水が漏れていると不思議そうな顔で言ったのだった。
 いずれにせよ、今日の仕事はこれで終わりである。明日は何時に来るのかとたずねると、中午に確認にくるみたいなことを言った。明日は15時半から外国人教師の会議があるので、時間がバッティングしないかどうか少し心配だったのだが、確認だけであればすぐに片付くだろう。
 執筆は12時に中断した。前回にひきつづきシーン14をひたすら加筆修正したわけだが、うーん、なかなかけっこう苦戦している。(…)さんが精神病院でアルバイトしていた(…)さんにしょっちゅうあまっとるポンプないんですかと注射器をせびりまくっていたという(…)時代のエピソードを削った。
 部屋がシンナー臭くてたまらなかった。ペンキのせいだ。あたまが痛くなってくる前にいったん換気して部屋を出ようと思った。それで阳台とキッチンの窓を開け放して風が通るようにし、換気扇もつけっぱなしにした状態で部屋を出た。自転車に乗って南門の外に出る。后街の(…)へ。また鱼头面を食う。客の姿はほかになし。貸切の店内でクソうまいスープを飲み、クソうまい麺を食す。あまりにうまいのでこれほんまに合法やろなと思う。先学期のスピーチコンテスト当日、結果待ちのあいだ夜のグラウンドにある芝生の上で(…)くんとふたりで世間話をしていたとき、アヘンかなにかを料理に混ぜて客を中毒にすることで荒稼ぎしていたメシ屋の話を彼が口にして、似たような報道をこちらがまだ大学生だった時期、なんだったら最初のアパートである(…)に住んでいたころかもしれないが、ネットで目にした記憶があり、だから、それってずいぶんむかしの話だよねと応じたところ、いえいえほんの数年前ですよという返事があり、えー! となったのだった。
 それにしてもうまい。食い終わったところで厨房の店員にあいさつし、店を出て、そのまま(…)へ。店員のおばちゃんがおもてでほかのおばちゃんと立ち話していたのであいさつ。店のなかにはそのおばちゃんとは別のおばちゃんがいた。いつものようにあずき入りの食パンを三袋購入する。鱼头面だけではちょっと物足りなかったので、いちごのショートケーキも買うことに。このいちごのやつがおいしそうだねというと、もうひとつのいちごのやつもおいしいよと別のケーキを指してみせるので、今日はこれにするよ、そっちはまた今度と応じる。おばちゃんは笑った。
 店を出る。南門から新校区に入る。キャリーケースを引いている女子学生ふたりの姿を見かける。特例ではやめに返校した子たちだろう。ほかにも職員とおぼしき姿がちらほらあり、きのう(…)もこちらの部屋をおとずれたことであるし、事務系の教員らはもしかしたらぼちぼち出勤しはじめているのかもしれない。外国語学院の事務員らも出勤しているのだろうか? だとしたらいまだに提出できていない先学期の成績表を持っていかなければ。
 (…)楼の快递に立ち寄る。コーヒー豆が届いているのだ。半地下の店内に入り、奥にある倉庫に足を踏み入れる。倉庫では男性従業員ふたりが椅子に腰かけて昼メシを食っている。店に積まれている段ボールの中からじぶんのやつを取り出そうと番号を確認していたところ、従業員の片方が「(…)?」とこちらの名前を中国語読みしてたずねる。うんと応じる。すぐに段ボールを見つけて手渡してくれる。礼をいって受け取り、セルフで回収手続きをすませる。
 寮まで戻る。帰路、あそこのスタッフにも完全に顔と名前をおぼえられたなと思う。これまでに何度か書いたことがあるが、外国人のほとんどいないこの地方の、それも若者ではなくある程度歳のいった人間にとっては、抗日ドラマやニュースに出てくる日本人ではない、生身の日本人と接触する機会というのはまずないわけで、だから彼らにとってこちらは彼らの人生で唯一直接言葉を交わしたことのある日本人である——あるいは、そうなる——可能性が非常に高い。そうすると、あえてこういう言い方をするのだが、じぶんが日本を背負っているというか、日本人代表であるみたいな規範意識がどうして働いてしまう、働いてしまうというほど力強いものではないかもしれないが、だからといって決して無視できるわけでもないある種の圧みたいなものを感じる瞬間はたびたびある。個人と国家は別物だと日頃から公言しているし、実際そう考えてもいるはずなのだが、おそらく個人と国家を同一視する視線の持ち主がとりわけ多い国にいるからという事情もあるのだろう、自分自身もまたそういう意識を内面化してしまう、そしてそのことを自覚しながらも脱却することができない、そういううわつきのようなものがたしかにあって、だからこれがじぶんのなかでくすぶるナショナリズムの燠火なのだと思う。ワールドカップの日本戦だけをついつい観戦してしまうのと同レベルの、だからといって——あるいは、だからこそ——過小評価するわけには決していかない、油断すればいつどのようなタイミングで醜く燃え盛ることになるのかわからない、そういうものがたしかにじぶんにもあるのだ。疑いなく。
 そういえば、快递のスタッフも、ペケジも、それに昨日の(…)や(…)にしても、マスクを装着していなかった。さすがに(…)の厨房に入っているスタッフは装着していたが、新学期はどうなるのだろう。授業はできればマスクなしでやりたいのだが、明日の会議は全員マスクを装着して出席するようにと言われている。
 帰宅。ベッドに移動し、『〈ヤンチャな子ら〉のエスノグラフィー ヤンキーの生活世界を描き出す』(知念渉)の続きをちょっと読む。それから30分ほど昼寝。覚めたところでいちごのショートケーキを食し、コーヒー豆をゲットしたもののミルでネルでドリップしてとなると水の出る隣室のキッチンまで移動しなければならないしそれは面倒なのでひきつづきインスタントコーヒーを用意して、きのうづけの記事の続きにとりかかる。書き終わり、投稿し、2022年2月16日づけの記事の読み返し。以下、『ラカン社会学入門 現代社会の危機における臨床社会学』(樫村愛子)から転移についてのブリリアントな説明。初出は2020年2月16日づけの記事。

 転移とは他者を理想的なものと設定することであり、宗教の教祖に対する転移や、心理療法の分析家に対する転移など、心の操作の入り口に存在し、自己変容の支えになっていくものである。子どもは他者に力の審級を措定し、この他者に依存することで成長が可能である。大人になっても、理想的なものを設定し、それがあるからこそそこに向かって人は努力が可能となる。つまり転移とは、片方で退行し快楽を受け取りつつ(依存や甘えによって心理的緊張を緩和したり、現実認識を他者に仮託しこれを節約する)、一方でその他者が導くような理想へと自己を変容させ現実を受容していくプロセスである。人が厳しい課題に取り組むとき、そのインセンティヴ(動機)として他者からの評価は機能し、また他者への依存により課題のもつ困難は見えにくいものとなるだろう。でなければ快感原則に閉じようとする自己を現実に即して変容させていく力を得ることはひとりでは困難であろう。このような転移を支えとした成長の過程は、子どもが母親に絶対的に依存しながら世界を取り入れていったように、人に備わった無理のない基本的な構造であり、大人になっても機能するものである。実際、科学的生産にしろ、世間からの評価・カリスマ的チーフへの依存・隣人の心理的なサポートなどに支えられているものである。宗教における修行やお務め、心理療法における自己分析は、このように転移に支えられ進められていく。
樫村愛子ラカン社会学入門 現代社会の危機における臨床社会学』p.7-8)

 一年前の今日は当時二年生だった(…)くんがシャワーを借りに来た日だった。そういえば、そんなこともあった。以下、シャワーを浴びたあともなかなか帰ろうとしない彼について。

 (…)くんは帰る様子をみせなかった。このまま居座られたら困るな、授業準備だってしたいし、と思っていると、洗濯機の回っている音が聞こえた。あれ? と思って様子を見に行くと、作動していた。(…)くんだった。こちらの許可なしに勝手に洗濯をはじめているのだった。しかし悪びれるふうでもなくニコニコしている。あ、中国人だな、と思った。(…)に来て最初の年、(…)くんが作文コンクール用に書いた原稿——佳作を受賞した——に、はじめて(…)先生の部屋をおとずれたとき、彼の許可を請わずにコンセントに充電器を差し込んでスマホの充電をはじめたところ、それを軽く叱られたというエピソードが、それが日本では失礼に当たるという事実など想像だにしていなかったという驚きとともに書かれていたが、それをちょっと思い出した(ちなみに、同じ作文に(…)くんはこちらの初対面の印象として「教師なのにちょっとファッションすぎるだろう」と書いていた)。いや、さすがに(…)くんのふるまいを中国人全員にあてはめるのはちょっと無理があるかもしれない、これに関しては(…)くんが単独でだいぶおかしいのかもしれないが、いやはや、という感じ。そもそも(…)くんは日本語がほとんどまったくできず、会話の大半も中国語になってしまう、そういうコミュニケーションの難しさもあって、もろもろのやりとりを端折って洗濯機を勝手に使用することにした——いや、それにしたってやっぱりだいぶおかしいか。こういうときはやっぱり注意したほうがいいんだろうか? 優秀な学生たちからはときどき日本ではこれこれこういうことをしたらマナー違反であるということも教えてくださいみたいなことを言われるし、たぶん言ってやったほうがいいんだろうが、なんせ相手は日本語がからきしであるから下手に注意をすれば大いに凹んでしまう可能性もある。まあ、次に似たようなことがあれば、そのときは、あのね、君も子どもじゃないんだから……と切り出すとかしたほうがいいのかもしれない。

 それから2013年2月16日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に転載する。『火山の下』からの抜き書きがすばらしい。

「とっつぁん、狂人や酔っ払い、激しい興奮状態にあって苦しんでいる者の行動というのは、その行動をとった者の精神状態を知る者には自由度が低く必然性が高いものに見えて、知らない者には自由度が高く必然性が低いものに見えるのだよ」
マルカム・ラウリー斎藤兆史・監訳/渡辺暁・山崎暁子・共訳『火山の下』)

 これについては、同年同月14日づけの記事冒頭に引かれていた以下のくだりとセットで読んだほうがいいかもしれない。

狂人が救命帯のように古い自転車のタイヤをつけて通った。落ち着かない様子で首の周りのぼろぼろのタイヤ面を始終動かしている。領事に向かって何かつぶやいたが、返事も見返りも待たずにタイヤを外し、はるか前方の屋台に向かって放ち、それから、ブリキの釣りの餌入れから何かを取り出して口に詰めこみつつ、タイヤのあとをふらふらと追いかけた。タイヤを取り上げるとまた前方へ投げ、これを繰り返しながら去っていった。彼は、この極限まで単純化された法則に永遠に身を捧げているように見えた。
マルカム・ラウリー斎藤兆史・監訳/渡辺暁・山崎暁子・共訳『火山の下』)

 それから、アル中の酩酊状態について、「目覚めたと言っても、一つの夢から醒めて別の夢を見はじめたようなものであった。自分は酔っており、しらふであり、二日酔いなのだ。」という記述があり、16日づけの記事でもやはりおなじ所感が書きつけられているが、これは酩酊状態をものすごく見事かつ端的に言い表していると思う。
 ほか、(…)での一幕。

(…)さんが用事があって階下におりてきたときにチョコレートをくれた。隠しといてね、といわれたので、わかりました、と応じた。次におりきてきたときには、別にびびらんでええからね、(…)さんと(…)さんと(…)さんにはバレンタインの当日にあげたから、ただ(…)さんにだけはあげてないから隠しといてって頼んだだけやで、といわれた。びびらんでええからね、という断りがちょっと面白い。

 ここを読んで、そうか、もう(…)さんが同僚として働いているんだな、とちょっとびっくりした。どうやら週二日の土日勤務のうち、日曜日のほうは(…)さんと顔をあわせるシフトになっているようだが、いまのところ、記事で(…)さんに対する言及がほとんどない。この時点ではまだ殺人の前科がオープンになっていなかったのか? あるいはすでにオープンになっているのだが、さすがに記事にして公開することはできないと判断していた? いや、そんなことはないはず、一般公開していたころもけっこうきわどいことをいろいろ書いていたはずなので。単純にまだみんなそれほど親しくなかったというだけかもしれない。前科がオープンになって以降、まず(…)さんが(…)さんに対して肯定的になり、(…)さんが内心ひそかに反感を持ちつつも一目置くようになり、(…)さんもだいたい似たような感じになって——というような経緯だった気がするのだが、ちょっとよくおぼえていない。少なくともこの時点では(…)さんは(…)さんのことを明白に嫌がっており(しかるがゆえに付き合いの長さだけでいえばこちらとほとんど変わらないはずの(…)さんに義理チョコを渡さなかったわけだ)、これはのちのちの展開を知っている全能の目であらためてながめると、なかなか味わい深いな。

一昨日だかその前の日だかの晩ちょっと色々あって留置所で過ごしていたと(…)さんが朝から出し抜けにいったので驚いた。親族のいない(…)さんは身元引き受け人として(…)さんを選び、夜中の3時ごろだかに悪いけれどむかえにきてくれないかと電話したらしい。(…)さんは何もいわずにわかりましたといって迎えに来てくれたという。なんだったら一生ものといえるくらいの恩を作ってしまった、と若干悔いの残るニュアンスで呟いていたのがおかしかった。

 これ、すっかり忘れていた。「ちょっと色々あって」と言葉を濁しているが、これは万引きだろう。じぶんを大物に見せようとするため、わざと罪の内情を語ろうとしなかった(…)さんであるが、何年か経ったあと、このとき身元引き受け人として留置所をおとずれた(…)さんから、あのとき実は……というかたちで話を聞いたはず。いや、そうではなかったか? (…)さんから聞いたのだったか? (…)さんもたしか二度か三度、(…)さんの身元引き受け人として留置所をおとずれているはずで、そのことを(…)さんが(…)さんとそろってパクられたときだったか、あるいは外に出てきた(…)さんをみんなに内緒でしばらく自分の部屋に居候させていたものの、約束の覚醒剤をいつになっても持ってこないからという理由で追い出したあとだったか、どちらかのタイミングでこちらに打ち明けたのち、あいつの、手癖病気やど、ワシなんべん留置所まで迎えにいったかわからん! と憤慨してみせたのだった。ちなみに(…)さんははじめて(…)さんに迎えに来てもらったとき、薬物を運んでいる最中警察の内偵に気づいた、だからわざとバレバレの万引きをして留置所に逃げた、みたいなめちゃくちゃ苦しい弁明をして、それにはさすがの(…)さんも、こいつなにいうとんじゃ? となったのだった。
 しかしこうやって読み返してるとやっぱりいろいろ思い出すな。「帰宅。また玄関の鍵があいてやがる。最近では帰宅するたびにまた解錠されてるんじゃないだろうかとむしろ期待しているような節すらある。」というくだりなども、あー! そういえば大家さんいつも合鍵でひとの部屋の玄関勝手に開錠して勝手に入りこんで、しかもそのまま鍵をかけずにまた母屋に戻っていくんだった! となつかしく思い出した。一度など、仕事を終えて帰宅したところ、玄関の引き戸が完全にあたらしいものに取り替えられていたことすらあった。あれには参った。
 読み返しのすんだところで浴室をチェックする。ペンキは当然乾いていない。しかたがないので炊飯器やまな板や中華包丁やお碗やタジン鍋やザルや食材や調味料やをまとめて隣室のキッチンに運びこんで調理。まずは汚れものをまとめて洗う。その後、米をとぐ。といだ米は炊飯器ごと自室のキッチンに運んで炊飯する。それから豚肉とブロッコリーと广东菜心とニンニクをカットし、調味料と一緒にタジン鍋にドーンする。ドーンしたものをまた自室にもっていき、電子レンジにつっこんで8分加熱。そのあいだにまた隣室にもどり、汚れものを洗う。実際にやってみると、想像していたほど面倒ではなかった、この程度の手間隙であれば仮に一週間続いたとしてもさほど難儀ではないなと思った。これで、トイレ・風呂・料理をすべて隣室で体験したことになる。あとは洗濯だ。洗濯機は設置されたままになっているし、おそらく問題なく動くはずであるので、明日さっそく試してみようと思う。隣室のほうが阳台は広く、洗濯物を干すためのスペースもたっぷりあるし、窓も大きいので日当たりも良いはず。
 しかし、やる前は強烈めんどくせえなと思っていたのが、実際にやってみると案外どうにでもなるもんだなとなる、この感覚になんかおぼえがあるなと考えてみたところ、あ、オンライン授業だ、と気づいた。
 メシ食う。食後ひととき休憩したのち、隣室でシャワーを浴びる。ついでに明日まとめて洗濯するつもりの汚れ物をまとめて持っていき、寝室にあるはだかのベッドの上にぶちまけておいたのだが、そのとき風呂上りに体を拭くために持っていったバスタオルもあやまってそこに放り捨ててしまったみたいで、結果、シャワーを浴びたあとバスタオルがないことに気づき、やむをえず脱いだばかりのヒートテックで全身のしずくをぬぐうことになったし、それが原因というわけでもないんだろうが、ひどく湯冷めして、自室にもどってデスクに向かうあいだもしばらく毛布にくるまることになった。

 自室にもどり、コーヒーを淹れ、毛布にくるまりながら、今日づけの記事を長々と書いた。23時になったところで中断し、小腹が空いていたので、カップヌードルを食った。食いながらジャンプ+の更新をチェックしたのち、隣室で歯磨きをすませ、それから第32課の教案を少しだけチェックした。「〜でしょう」という文型の応用問題、なにか思いつかないかなァと思いながら教科書をペラペラめくっていると、星座占いの例文が掲載されており(「何か新しい仕事を始めると、成功するでしょう」)、あ、これでいいや、と思った。2023年の各星座ごとの恋愛運と金運だけピックアップして部分的に表現を変更したり省略したりしたものを配布するなりスクリーンに映すなりし、で、文型確認しつつ、それをきっかけにいろいろ脱線していけば多少面白くなるかもしれない。発話をうながすタイプのアレではない、読むのがメインとなる応用問題となってしまうわけだが、たまにはそういうのを織り混ぜるのも悪くないはず。
 それから寝床に移動。「河北省の石家荘正定国際空港で航空機の離着陸が一時できなくなる混乱があり、航空当局関係者の話として、気球の飛来が原因だと報じた」というニュース記事にさすがに笑ってしまった。こんなわかりやすくやり返すの? と。巻き込まれた乗客がいちばんかわいそうなわけだが。その後、『〈ヤンチャな子ら〉のエスノグラフィー ヤンキーの生活世界を描き出す』(知念渉)の続きを読み進めて就寝。