20230218

 一九二七年から翌年にかけての冬も、おそらくムージルは、テーブルクロスのかかった執筆机の周囲をタバコを吸いながら一日中歩きまわっていたはずだ。そのころセラピーを受けていなければ、第一巻を完成させることはできなかっただろう、とのちに告白している。彼が受けたのは時間のかかる精神分析ではなく、より実際的な、フーゴルカーチの短期療法だった。このハンガリー出身の個人心理学者があたえた、《主導イメージ》をさがすようにという助言は、はからずもムージルの自己注釈への傾向を強め、長編執筆をおおいに促進したが、それによって執筆が阻害される危険も同時にあった。ムージルの執筆障害は、古典的な《作家のスランプ》などではなかった。彼の問題は、思考を言語化する多くの可能性のなかから、たったひとつを最終的に選ぶということができない点にあった。一度できあがったものを放置しておけず、経済状態がどんどん悪化していくというのに、同じ章を二〇回も書き直してしまうというふるまいが、この長編小説を、言語的・思想的にたいへん複雑なものにしてしまった。作品の幕開けを告げる第一章「注目すべきことにここからは何も生じない」も、このような執筆障害の産物のひとつである。この章は、書かれたことをみずから絶えず取り消しては先に進む点において、文学による自己省察の典型とみなされ、近代的な語りの危機を示すものと解釈されている。一九二九年一月五日、作品の清書を開始するにあたって、作家は次のように書いた。
 「第一章を新しくする。満足できるアイディアが三日前に浮かび、昨日書きはじめ、冒頭部分はうまくいった。ここで執筆障害がはじまる。それはいったいどんなふうにはじまったのか。頭のなかには、第一章の終結部分と主要部分についても、すでに満足できるものがあった。ぼくは冒頭部分を書きついだが、その形式にあまり芸がない感じがして消した。そこで、まだ使っていなかった素材、大都市の騒音と速度の描写をここに挿入しようと思いつく。この描写と終結部分をどのように橋渡しすべきか、なんとなくイメージはあるが、それはぼんやりと定まらない形でしかない。執筆障害がはじまるお定まりの状況がこれでできあがりだ。ふたつの固定された柱があるのだが、そのあいだの移行部分がなかなかうまくいかない。ぼくは移行部分を挿入したり、その一部だけ採用したかと思えば、また削り、別のやり方をしてみる。どこか気に入らない。全体の脈絡を見失い、復文の主文に対する位置関係といった文体の細部にこだわる。意気消沈。こんな状態が続くようでは清書に一年はかかるだろう[…]。夕方になった。原稿に手をくわえるのをやめて読む。明かりを消そうと思った瞬間、これまでもよくあったように、どうすればいいのか思いつきメモする。移行部分について考えていたことを、あらかじめメモしておかなかったからうまくいかなかったのだとくやまれる。とはいえメモをしていたらしていたで、それが妨げになっただろうが。ぼくはぐっすりと眠った。しかし目がさめて、すべて順調だと自分に言い聞かせるまえに、さっそく苦痛が襲ってくる。頭部に感じる身体的なものだが、正確には苦痛とは違う。「知的絶望」という表現が一番ぴったりくるように思える。それは無力感であり、執筆に取りかからなければならないことに対する恐ろしい嫌悪感(ひどく疲労しているときに感じるような)が混じっている」(…)。
(オリヴァー・プフォールマン/早坂七緒、高橋 完治、渡辺幸子、満留伸一郎・訳『ローベルト・ムージル 可能性感覚の軌跡』)

 ここ、マジでわかりすぎるくらいわかる。『A』や『S』の出版直前も、まさに、「すべて順調だと自分に言い聞かせるまえに、さっそく苦痛が襲ってくる。頭部に感じる身体的なものだが、正確には苦痛とは違う。「知的絶望」という表現が一番ぴったりくるように思える。それは無力感であり、執筆に取りかからなければならないことに対する恐ろしい嫌悪感(ひどく疲労しているときに感じるような)が混じっている」という状態だったし、これがさらに悪化すると、『A』のときのように、原稿を目にするだけで吐き気を催すようになるのだ。



 11時にアラームで起きる。歯磨きしながらスマホでニュースをチェックする。隣室の洗濯機できのうコーヒーをこぼしたコートを洗濯し、軽くストレッチをしたのち、トースト二枚と白湯の食事をとり、食後のコーヒーを淹れる。そのままきのうづけの記事を途中まで書く。
 12時半をまわったところで、きのうづけの記事はいったん中断し、「実弾(仮)」第四稿にとりかかる。16時までカタカタやり続けるが、シーン14はまだ終わらない。バス停周辺の風景をこれまで描写せずにすませていたのだが、やっぱりちょっと物足りない感じがしたので加筆した結果、ぼんやりとあいまいにすませることでうまくいっていた京都と(…)の両方をモデルにするという無理が、かなりクリティカルな瑕疵として浮かびあがってしまった格好。ここまでさんざんやってきてアレだが、第三稿ないしは第二稿までいったん撤退しようかな。うーん、参った。進捗、ぜんぜん捗々しくないな。
 浴室工事の業者は結局今日も来なかった。ということは明日の午後やってくるのだろう。水の元栓はずっと締めたままなのだが、ペンキの乾き具合はどうなのだろうとのぞいてみたところ、青く塗られた床の上にうっすらと水溜りができあがっていて、いやいや普通に水漏れしとるがなという感じ。これ結局長引くパターンになるんでは?
 隣室に移動して夕飯の支度をする。米を炊き、豚肉と青梗菜とトマトとパクチーとニンニクをカットし、タジン鍋にドーンしてレンジでチーンする。食す。食したあとはひとときだらだらする。その後、コーヒーを用意して、きのうづけの記事の続きにとりかかる。投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年2月18日づけの記事を読み返す。まずは昨日にひきつづき、夏目漱石「坑夫」の引用。

こう自分の事を人の事のように書くのは何となく変だが、元来人間は締りのないものだから、はっきりした事はいくら自分の身の上だって、こうだとは云い切れない。まして過去の事になると自分も人も区別はありゃしない。すべてがだろうに変化してしまう。無責任だと云われるかも知れないが本当だから仕方がない。これからさきも危しいところはいつでもこの式で行くつもりだ。
夏目漱石「坑夫」)

 あと、以下のくだりはクソ笑った。マジでおもしろい。じぶんは結局うんことかちんことかそういう話がいちばん好きなのかもしれん。

 書き忘れていたことを思い出したので、なんの文脈もなくここに挿入しておくことにするが、(…)くんは糖尿病関係の検査で一度全裸になる必要があったらしいのだが、そのとき担当の女医に「あなた、ちんこが小さいね。精力が弱いんじゃない?」と言われたらしい。先日、彼と焼肉を食っているときにこの話を聞いたのだが、爆笑した。

 それから2013年2月18日づけの記事を読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に転載。以下、(…)さんの大ボラを死ぬほど酩酊した状態でふきこまれた翌日起き抜けのようす。

一晩あけても昨夜を整理できない。現実と妄想と便宜的な二分法を適用することでしかいいあらわすことのできないある種の対立、拮抗、相互浸潤、折衝、闘争、乱交、シームレスな接続、細胞分裂、アメーバ、リゾーム、ゲル、スライム、粘液と吐瀉物、永遠の持続、さめない夢、さめたと思えば別の夢、メタの天空がベタの地層にめりこんだ認識の奇形の持続。これが永続するならば、ある意味で脳を壊すことに成功したともいえるだろう。主観が強化され、相対的な目線が曇り、情報リテラシーが弱体化する。そのことに恐怖も不安もないという事実が何よりもまず壊れている。どんな暗示にも催眠にもたやすく引っかかる気がする。パラノイアがすぐそばで控えている。陰謀論に陥りがちな別人の脳をシミュレーションしているかのようでもある。知性が失われるというのは要するにこういうことなのかもしれない。

 それから今日づけの記事もここまで書くと、時刻は22時前だった。ひとつ書き忘れていたが、きのう二年生の(…)くんから連絡があり、家の用事で一週間ほど返校するのが遅れる、だから初回の授業に出席することができないと言われたのだったが、もしかして身内がコロナで亡くなったのだろうか?

 隣室に移動してシャワーを浴びる。あがってバスタオルで体をふいていると、例のクソババアが爆弾魔といっしょに階段をあがっていくのが聞こえたが、例によってやはり酔っ払っているのか、クソデカい声で歌をうたいながら、親の仇でも踏み殺してんのかという激しさで段差をダン! ダン! ダン! とやっていて、こいつマジでイカれとんなと思った。部屋にもどってスマホでカレンダーをチェックしてみると今日はやはり土曜日。
 ストレッチをする。筋トレも再開する。ひとまず腰に負担のかからない懸垂をこなす。その合間に授業準備の日程をチェックする。日語会話(三)について、あと3課分用意する必要があるのだが、そのうち1課は連休がどれかひとつ当たってつぶれるだろうし、もう1課についても期末テスト直前の総復習をするか、期末テストを三回ではなく四回にわけておこなえばとりあえず問題ない(ただ、テストを四回にわけておこなうのはちょっとアレであるし、やっぱりあと2課分用意するべきかもしれない)。
 冷食の餃子を茹でて食しながら、ジャンプ+の更新をチェックしていると、上のクソババアがまた泣き女のようにおーいおいおいと泣きはじめて、なんなんやこいつらは! はよ別れろ! 红枣のヨーグルトを食い、第32課の残りをちゃちゃっと片付けたのち、そのまま第33課の流れもざっと確認する。22日までになんとか第33課を片付けて、学期はじめ最初の授業でおこなうゲームも用意する。で、その後学期中の手隙を利用して、なんとか第34課も準備する。それで終わりだ。正直第34課はもう必要ないんではないかという気もするのだが、というよりめんどくさくてめんどうくさくてこれ以上準備したくないのだが、ここでやらないとなると、また学期中に地獄を見ることになるかもしれん。今学期は先学期とことなりフルオープンであるから、学生からの誘いもまた増えるだろうし、日本語コーナーだって再開するかもしれんし。
 その後はベッドに移動し、書見もせず、延々とだらだら過ごしてしまった。