20230221

マルセル・ライヒラニツキ(一九二〇年〜二〇一三年)
 ムージル研究家たちはこう言いくるめようとする、ムージルは実際のところ失敗した、しかし高度の次元において彼の敗北は勝利であり、本当は大成功なのである、まことにもってこの破産こそが、彼の作品の偉大と現代性を証すものである、と。真実をのべよう。『特性のない男』は失敗作でありムージルは実は徹頭徹尾失敗した男である。
(「ムージルの顛蹶(フィアスコ)」『シュピーゲル』二〇〇二年八月一九日)
(オリヴァー・プフォールマン/早坂七緒、高橋 完治、渡辺幸子、満留伸一郎・訳『ローベルト・ムージル 可能性感覚の軌跡』より「評言」)



 10時半にアラームで起床。歯磨きしながらスマホでニュースをチェックする。身支度を整えて第五食堂へ。今日は二階の店もすべて営業していた。明日から授業開始である。大半の学生は今日の午前中に大学に戻ってきているはず。プラスチックの弁当容器に好きなおかずを好きなだけ盛り、はかりの重さにあわせて値段が決まるというタイプの、先学期は毎日のように通っていた店で数ヶ月ぶりの打包。この便利さに慣れてしまうと、やっぱり自炊する気は失せるわな。
 帰宅。食うべきものを食う。隣室に移動し、阳台に干してある洗濯物を回収。自室のほうの洗濯機は工事の影響で汚れているかもしれないので、隣室のほうの洗濯機で残る衣類をまとめて洗濯する。自室の阳台に足を踏み入れる。どうもほこりっぽい気がするので、ためしに床を指でなぞってみたところ、指の腹がものの見事に灰色になり、いやこれ全然掃除できとらんやん、ペケジ嘘ついとるやんけ。雑巾で拭き掃除。床だけではなく、壁や窓に付着している粉塵もすべて拭き取る。それから、リビングのほうに避難させていた折りたたみデスク、椅子、簡易ラックをすべて阳台に移動させる。姿見も寝室にもどす。あとは水道と排水溝の工事が完了するのを待つだけ。それさえ無事に済んでくれれば、隣室との往復生活を送る必要もなくなる。
 コーヒーを淹れる。きのうづけの記事の続きを書き、ウェブ各所を巡回し、2022年2月21日づけの記事を読み返す。

 俗人はその時その場合に書いた経験が一番正しいと思うが、大間違である。刻下の事情と云うものは、転瞬の客気に駆られて、とんでもない誤謬を伝え勝ちのものである。自分の鉱山行などもその時そのままの心持を、日記にでも書いて置いたら、定めし乳臭い、気取った、偽りの多いものが出来上ったろう。とうてい、こうやって人の前へ御覧下さいと出された義理じゃない。
夏目漱石「坑夫」)

 このくだり、こちらの考える日記観と正反対でけっこうおもしろい。というのも、こちらはむしろ、時間が空けば空くほど、事後的な正当化をやどした気取りや偽りが混じるという考えから、日記はなるべくためずに、さっさと書いてさっさと投稿すべきという考えなので(そのほうがじぶんの「愚かさ」をちゃんと記録できる)。
 あと、2月21日は(…)の誕生日であるらしく、お祝いのLINEを送ったと記されていたので、今年もこちらと(…)と(…)の三人からなるグループに「おっさん、誕生日ちゃうか?」とメッセージを送っておいた。ちなみに一年前の記事には、(…)が姉と妹と交わしたやりとりとして、「大人になってから(…)と(…)に『アンタ見とったから男だけは産みたくなかった』って言われたからな!」という彼の発言が記録されていた。たしかにじぶんの子どもが(…)みたいなどうしようもないヤンキーになったらかなわんな。
 記事には、当時四年生の(…)くんと(…)さんから大学院試験の結果報告が届いたという記録も残されていたのだが、まさにその記述を読む直前、現四年生の(…)さんからも同様の報告があった。筆記試験の結果は394点。高いのか低いのか最初よくわからなかったが、二次試験の面接にそなえて日本語の自己紹介原稿を修正してほしいという依頼が続いたので、たぶんかなり手応えありということなのだろう。一年前の記事には(…)さんが399点をとったと記録されている。この点数について(…)さんはかつて、非常に高い点数です、先輩はとても優秀ですと言っていたはず。その(…)さんと5点しか変わらない点数を(…)さんは今回とったことになるのだから、やはりかなり良い出来なのだ。彼女が面接でトチる場面もあまり想像できない。十中八九、合格するだろう。
 それから2013年2月21日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に転載。10年前のこの記事にはハーパース・ビザールに対する言及がある。あったな、そんなバンド! すっかり忘れていた! というわけで、さっそく『The Secret Life of Harpers Bizarre』(Harpers Bizarre)をものすごくひさしぶりに、ひょっとしたらマジで10年ぶりになるのかもしれないが、流しはじめた。別に熱心にきいていたバンドでもなんでもないんだが、一曲目のイントロがはじまるなりたしかによみがえるものがあり、けっこうおぼえているものだ。渋谷系に影響をあたえたとされるバンド。
 作業中にやりとりを交わしたのは(…)さんだけではない。(…)さんと(…)さんのふたりから「(…)」経由で晩ご飯の誘いもあったのだった。もちろん了承。17時半に落ち合うことに。きのう(…)にお願いした業者がやってこないので、その件についてたずねる微信を送ってみたところ、今日中に来るはずだ、きのう電話したときはそう言っていたという返事。了解。しかし、今日づけの記事をここまで書いた16時現在、いまだに業者は姿をあらわさない。

 初回授業ではゲームをするのが恒例になっている(先学期の初回授業のみ例外的に全クラス通常授業を行なったが)。(…)の一年生については、一年前に現二年生の授業でおこなったゲームの内容をそのままそっくり流用すればいい。その現二年生のゲームだけは今回あらたに作り直す必要がある。といってもコンテンツ自体は変わらない。名詞ビンゴとパーセントクイズなので、ネットでいろいろサーチしてウケそうな問題だけ用意すればいい。
 で、サーチしていると、玄関の扉をノックする音がひびく。業者の到来。短髪で、背の低い、しかし肩幅は相応にがっしりしている男ひとり。三十代か四十代か。口数が少なく、表情もやたらとかたい。浴室に案内し、水道と排水溝の現状を説明するも、ほとんど反応はない。ぱっと見、発電ケーブルのようにもみえる、ワイヤーをぐるぐる巻きにしたような道具をもっている。そのワイヤーの片側を排水溝にぶっさし、もう片側を阳台のほうに軽く放りなげる。ワイヤーをぐるぐる巻きにする台座のようにみえたものは機械で、その機械のレバーをいれると、排水溝の中に突っ込んでいるワイヤーが、生きた蛇のようにびくんびくんとのたうちまわりだす。のたうちまわるものを男がちからいっぱい上から押さえつける。阳台のほうに投げ出されたもういっぽうの口から、排水溝から吸引した汚水やゴミがどっと流れ出してくるんではないかと警戒したが、そういうことはなかった、吸引したものはどうやら機械のほうにストックされるようだった。いや、そうではないか? あれはもしかしたら圧縮した空気を送り出す機械だったのでは? 阳台のほうに投げ出された蛇の尻尾から吸いこんだ空気を、おなじ蛇の口からおもいきり吐き出す仕組みだったのかもしれない。
 おもいのほか難敵だったのか、男はいちど別の道具を取りにもどった。手が濡れたままだったので、ハンドタオルを差し出したのだが、男は必要ないとジェスチャーで応じた。ペケジとは全然違う。愛想の欠片もない。しかしその分仕事ははやい。男はほどなくしてトイレの詰まりを治すあのゴム製のすっぽんをもってあらわれた。そいつと先のワイヤーを交互に使う。詰まりがとうとう通ったのが、一気に流れはじめたフロアの水でわかる。詰まりの正体は砂利だった。
 男はなにも言わずに去った。蛇口のほうを修理するための道具をもってふたたび戻ってくるだろうとこちらは勝手に思いこんでいたわけだが、いつまでたっても姿をあらわさない。それで浴室をあらためてのぞいてみたところ、蛇口のほうもいつのまにか修理されていた、パーツが取り替えられたわけではないのだが、以前よりかたくなっている栓をひねると、これまでにないいきおいで水が流れはじめた。排水溝のほうは、一部分パーツが新調されているようだった。

 なにもいわずに出ていったわけだが、たぶんこれで修理は完全にすんでいるのだろう。夕飯の約束までまだ多少時間があったので、浴室の掃除だけすませることにする。今晩入浴するついででもよかったが、浴室の床を覆う黒い汚水をそのままにしておくとにおいがつくかもしれないというアレがあったので、その汚水をシャワーで洗いながし、ついでに工事の際の粉塵に覆われているとおぼしき浴室の壁や扉もスポンジや雑巾できれいにした。掃除がすんだところで、隣室の浴室に置いたままになっているシャンプーやボディソープも移動させる。これで元通りの生活が戻ってきたことになるはず!
 ほどなくして(…)さんから微信が届く。寮にむかっているというボイスメッセージ。こちらも身支度を整えて部屋を出る。階下にある空き室の玄関先で(…)と見覚えのない人夫が談笑していたのであいさつ。ついでに隣室の鍵を(…)に返却。寮の外に出る。いたるところに学生たちがいる。女子寮のほうに向けて歩き出したが、この人混みではすれちがっても気づかないかもしれないというアレから、すぐ近くの交差点で足を止めて待つことに。じきに(…)さんと(…)さんのふたりが腕を組んであらわれる。ふたりだけではなかった、めずらしいことに(…)さんも一緒だった。(…)さん、こんなことを言ってはアレだが、冬休みのあいだにブクブクに太ったようす。もともとぽっちゃりはしていたものの、一目見ただけでこれは相当だらけていたなというのがわかるくらいの変化だったので、ちょっとびっくりした。(…)さんと(…)さんのふたりは特に変わったように見えず。そもそも冬休み中にビデオ通話を三回もしている。
 (…)さん、変わったのは外見だけではなかった、日本語の発音もめちゃくちゃ悪くなっていた。一昨年、こちらが(…)に戻ってきてほどないころに、先輩の(…)さんの導きで初回授業の前に彼女と(…)さんと会い、いっしょにアーチェリーをしたり火鍋を食ったりし、ふたりが同性愛者であることもそのとき知らされたわけだったが、当時二年生前期であるにもかかわらず、ふたりともこちらの日本語をかなり自在に聞き取ることができ、それでたいそうびっくりしたのだった、このふたりはクラストップに君臨するだろうと確信すらしたのだったが、蓋をあけてみれば、(…)さんのほうは予想通りクラストップレベルに君臨しているものの、(…)さんはその後全然のびなかった。ルームメイトである(…)さんや(…)さん曰く、彼女はいつもゲームかアニメをみているだけらしい。実際、現三年生の女子学生のなかでも(やはり同性愛者であるはずの)(…)さんとならんで、(…)さんはまずまちがいなくトップレベルのオタクだと思うのだが、もったいないな、オタク趣味がディープであり、かつ、勉強もある程度熱心にするという条件がそろっている学生は、たとえば(…)さんや(…)さんや(…)さんのように、卒業をまたずに教員以上に日本語が達者になる規格外の化け物として育つものなのだが、(…)さんも(…)さんもあいにく勉強は大嫌いなのだ。
 (…)さんは今学期から寮を出てひとり暮らしを開始したという。家賃は1300元。ルームシェアをしているわけでもないというので、やっぱり平均的なうちの学生にくらべるとずっと裕福なんだろう(そうでないとSwitchを買ったりガンダムのプラモを割高設定で買ったりできない)。しかしこのタイミングでひとり暮らしというのもちょっと気になったので、のちほど彼女がパーティから離脱したのち、残るふたりにもしかしてほかのルームメイトと喧嘩したわけじゃないよねとついつい確認してしまった。(…)さん曰く、「わたしたちの寝室は穏やかです」とのこと。ひょっとしたら(…)さんみたいに異性愛者のルームメイトに告白して気まずくなったみたいな話だったりするのかなとも思ったのだが、考えすぎか、ひとりでゆっくり好きなアニメやゲームを死ぬほど楽しみたいというアレなのかもしれない(そもそも寮暮らしであればSwitchもできないだろうし)。あと、(…)さんは趣味が料理という事情もある。キッチンが欲しかったのかもしれない。ちなみに、先学期デートしていた女子学生との関係は特に進展していないとのこと。(…)さんと(…)さんのふたりもあいかわらず浮いた話がないし、せっかくの大学生活なのにこのままじゃ恋人ができないまま終わるな、悲しい青春だねとからかってやると、わたしたちはまだ若い! だいじょうぶ! でも先生37歳! どうしよう? どうしよう? という反応があった。あのね、大学を卒業したらほんとうに一瞬で37歳になるからね、本当にすぐだから! とおどす。
 后街に向かう。小雨が降っていたが、めんどうくさいので傘を差さずに歩く。日本人もイギリス人みたいにあまり傘を差さないのかと(…)さんがいうので、そんなことはない、ぼくがめんどうくさがりなだけだと答える。(…)さんと(…)さんのふたりは相合傘。濡れるのを気遣ってか、(…)さんは手持ちの傘をたびたびこちらの頭上に寄せてくれたが、彼女は背が低いので、傘の端っこがしょっちゅうあたまにコツコツ当たる。それを注意するわけにもいかない。身を離す。寄せてくる。コツコツ当たる。
 南門の外に出る。横断歩道を渡り、(…)医院の前を通りがかったところで、二年生の(…)さんと(…)さんのふたりとすれちがう。ちょっとめずらしい組み合わせ。このふたりが一緒に行動しているところを見るのははじめてだ(学籍番号が近いし、ルームメイトなのかもしれない)。ふたりとも快递で回収した荷物を持っている。軽くあいさつ。それから(…)に立ち寄って食パン三袋を購入。
 后街は大混雑。学生でごった返している。小学生のときにおとずれた商店街の夜店をちょっと思い出す。ほとんどだれもマスクを装着していない。二ヶ月後か三ヶ月後、はたしてどうなっているか。
 道中、(…)が閉店したという話を聞き、は? となる。今日の昼間、(…)さんと(…)さんのふたりは(…)のそばにあるスーパーで買い物をした。そのときに店が閉店していることに気づいたらしい。これはちょっと衝撃。(…)に来て最初に好きになったメシ屋なのに。チェーン店であるし、いちおうよそに別の店舗はあるはずだが(去年の夏休み、(…)さんと(…)で火鍋を食った帰り、彼女を実家まで送っていく途中の道で、別支店を見かけた記憶がある)。
 魚料理の店に入る。前回、(…)さんと(…)さんとビデオ通話したとき、新学期がはじまったらまずここに行こうと決めていた店。(…)さんと(…)さんとそろっておとずれるのはこれで三度目。店内はやはり大混雑。席が空いていなかったので、(…)さんが電話番号だけ店のおばちゃんに伝えて、いったん外に出ることに。おもてでひととき立ち話。(…)さんは近くの蜜雪冰城でミルクティーを購入。ほどなくして電話がかかってきたので、店にもどり、いちばん奥にある四人がけのテーブル席に就く。前回と同じ席だねと(…)さんと(…)さんのふたりと話す。注文は学生にお任せ。金汤なんちゃら(魚の切り身が酸辣なスープに入っているやつ)とトマトスープのなかにやはり魚の切り身が入っているやつ。で、それらスープとは別に、じゃがいもと鶏肉を小さな鉄鍋で煮込んだものの上に餃子の皮をかぶせて蒸したやつも注文。白米は食べ放題なので、どんぶり茶碗にたくさんよそってもらい、いただきます! 多少辛いが、やはりうまい。会計はひとり20元ほど。安い。
 店を出る。その後は(…)で買い物する計画だったわけだが、(…)さんはここでパーティを離脱、ひとり暮らしのアジトに去るという。残った三人で歩き出してほどなく、あ、写真を撮り忘れているんじゃないの? という。(…)さんと(…)さんのふたりが言い出しっぺなのだが、こちらといっしょに食事をするたびにその店の前で記念写真を撮影する、で、それを卒業までに100枚ためるという計画があるのだ。(…)さん、店にもどろうという。それで元来た道を引き返す。店の前に到着したところで、さて撮影をだれかに依頼しなければならないわけだが、店のスタッフはなかなか忙しそう。そのへんを歩いている若い兄ちゃんやおっさんに頼めばいいじゃんとこちらは思うわけだが、(…)さんは写真にこだわりのある女子なので、撮影のうまそうなひとがあらわれるのを気長に待つ構え。目の前に屋台をひいたおばちゃんがあらわれる。その屋台の前に立ち止まった夫婦らしい男女の女性のほうにねらいをつけた(…)さんが撮影をお願いする。彼女の読みは正しかった。撮りおわった写真、こちらは確認していないが、なかなかいい出来映えとのこと。
 后街をあとにする。出口を左に——ということは西に——折れてそのまま道なりに歩く。ほどなくして大きな交差点があらわれるが、その先にとてもおいしい麺の店があるという。しかし朝食のみの営業だというので、じゃあぼくは無理だ、朝起きるのは嫌いだしという。その交差点を右に折れて、大学の塀沿いに北進する。大学の西側は現在絶賛開発中のエリアで、それこそ(…)がオープンしたのもおそらくその開発の一環なわけだが、后街などにくらべるとやや価格帯の高いメシ屋や商店——その大半がオープンして半年も経っていないはず——がちらほらある。

 このエリアを開発している投資会社の資金によって大学の西門が開通されると(…)さんが言う。大学はお金をまったく出していない、エリアに学生を呼びこむためにわざわざ会社のほうで西門開通を請け負ったらしい。冬休み中、第四食堂付近が緑色のフェンスでふさがれているのを見て、道路を舗装しなおしているのかなと思ったことがあったが、あれがどうやら西門の準備だったようす。門はまだできあがっていないが、たぶんちかぢか自由に通り抜けできるようになる。そうなるとけっこう便利かも。
 レストランがある。果物屋がある。バーがある。ホテルがある。その中に一軒、ほかとたたずまいの異なる店舗がある。おもちゃ屋。中をのぞいてみることにする。子ども用のおもちゃ屋というよりはオタク向けのグッズ店で、ワンピース、ナルト、名探偵コナンポケモン鬼滅の刃などのフィギュアをはじめとする諸々がたくさん陳列されている。ガンプラもいくつかある((…)さんに教えてあげないといけない)。陳列されている商品の半分以上、いや三分の二ほどが日本のアニメグッズだったと思う。二階はバービー人形をはじめとする女児向けの商品がたくさんあるようだったが、そちらは特にチェックせず。
 店を出る。開発エリアをひきつづき歩く。「(…)」という看板を出している広場がある。広場には池があり、池には噴水らしい設備もある。その池と連絡するかたちで水路が流れており、おそらく将来的にはその水路に沿ってさまざまな店がたちならぶことになるのだと思われる。いちおう現時点ですでにある程度建物がならんではいるのだが、肝心のテナントはまだ入っていないのだろう、水路沿いには照明すらろくに設置されておらず、人影もまったくない。
 広場の池をのぞきこむ。魚はいない。真っ白な大型犬を連れた男性が近くを歩いていることに(…)さんが気づく。近くで見たいというので、三人そろって接近する。先客の女性と幼子がいる。犬はたぶんサモエドだと思う。ふわっふわの真っ白な毛で、顔は愛くるしい。まだだいぶ若いなと思ったが、飼い主のおっちゃんによれば、すでに10歳とのこと。このサイズで10歳ということはかなり老齢ではないかと思う。おっちゃん曰く、もともとはアメリカにいた犬らしい。どういう意味かわからない。むこうのペットショップで購入したということだろうか? あるいは身内がアメリカで飼育していたものの、なんらかの事情で手放さざるをえなくなり、彼が中国で引きとることになったということだろうか? 名前は馒头。(…)さんも犬に年糕という名前をつけていたし、后街に以前いたボーダーコリーの名前は可乐だったし、なぜみんなペットに食べ物や飲み物の名前をつけるのか? しかしこれは中国だけにかぎった話ではない、日本でも犬猫にプリンとかマロンとかココアとかつけるひとはたくさんいる。言い出しっぺの(…)さん、大型犬に触れるのはやはりちょっとこわいのか、(…)さんとそろって近くでながめているだけで、なかなかなでようとはしない(学生らがたびたび見せるこの犬に対する警戒心というのは、おそらくだが、狂犬病の蔓延している文化圏に特有のものではないか?)。こちらは例によって正面からハグしてわしゃわしゃしまくる。馒头も馒头でこちらのことが気に入ってくれたのか、顔を正面からペロペロなめようとする。そんな様子を見た飼い主が、彼は日本人か? それとも韓国人か? と学生にたずねるのがききとれたので、日本人だよとじぶんで答える。中国語ができるのかというので、ちょっとだけと受ける。
 馒头と別れたのち(…)へ。顔認証のロッカーに荷物をあずけ、買い物カゴは持たず、手ぶらのままオートスロープの手前にある高級チョコレート店を物色する(全部あほみたいに高い)。それから二階へ移動。便所用のブラシがこの仕事をはじめた当初買ったものであり、いい加減ボロボロにすぎるので、日曜雑貨品のコーナーであたらしいやつを買うことにする。同じコーナーで(…)さんはガラスのコップをひとつ購入。さらにドラッグストア的な一画ものぞく。あやしい日本語がパッケージに記載された日本製をうたうシャンプーやリンスを検分する。
 オートスロープで一階にもどり、お菓子のコーナーとヨーグルトのコーナーをのぞく。(…)さんがロシア産のクッキーを買う。こちらと(…)さんは何も買わず。
 会計をすませて店を出る。(…)から微信が届いていることに気づく。いまアパートにいるのか、と。一時間以上前に届いたメッセージであるし、急を要するものであればいつものように電話してくるはずなので、いまは外にいる、15分ほどで寮にもどると返信を送る。のちほど届いたメッセージによると、the repair manがこちらの部屋にwent backした、と。無言で去ったものと思っていたわけだが、最終チェックかなにかをするつもりだったのだろうか? だったら事前にそう言ってくれればいいのに。いずれにせよ明日ふたたび訪問するとのこと。
 大学の北門に向けて歩き出す。雨脚が強くなりつつあったので傘を差す。明日はなんの授業なのかとたずねると、高級日本語と日本文学という返事。どちらも(…)先生の担当だというので、そうか、文学関係の授業は(…)先生が引き継いでくれたのかと思う。
 北門からキャンパスに入る。寮にもどる道中、周囲からあたまひとつ飛び抜けて高い建物のてっぺん付近に(…)を宣伝する看板が出ているのを見て、先生の寮からスーパー近いねとふたりがいう。ふたりの生活している女子寮からはちょっと遠いが、西門が開通すればそうでもなくなる。寮の前に到着したところで、じゃあね、今度また食べにいくお店を決めておいてね、と伝えて別れる。ふたりは道中、卒業までにあと98回こちらといっしょに食事をとって記念写真を撮影すると張り切っていたのだ(三人で定期的に食事をとったり散歩したりするようになってひさしいが、記念撮影のアイディアを彼女らがひらめいたのはごくごく最近のことにすぎない)。
 帰宅。ベッドにごろんして休憩していると(…)から電話。またパソコントラブル。詳しい事情はよくわからんが、QQと紐づけるメールアドレスを変更しようとしたところ、なにかがうまくいかずうんぬんかんぬん。とりあえずパソコンを持っていけばいい感じだったので、今からそっちにいく、ちょっと待っててと伝える。ついでなので、去年の誕生日に(…)さんからもらったドラえもんのマウスとキーボードを持っていくことにする。(…)へのgiftsだ。
 (…)一家の部屋へ。階段をあがっているときから(…)のわんわん吠える声が聞こえてくる。ノックする。(…)が出迎えてくれる。中に入ると、(…)は一転しておとなしくなる。これで四度目の来訪になるのか? さすがにだいぶ慣れてくれたようす。(…)はキッチンで家事の最中。(…)はリビングのソファに腰かけて宿題をしている。こちらの姿を見るなり、(…), look at this! といいながらプリントを見せてくれる。漢字の宿題。拼音が記載されている下に空白のマスがある、そこに正しい漢字を書くというもの。それがかなりむずかしいのだと(…)がいう。それはそれとして、ドラえもんのグッズをプレゼントする。(…)がドラえもんにどハマりしているというのは事実らしく、たぶん彼の通学用バッグだと思うのだが、(…)がわざわざ持ってきて見せてくれたバッグにもドラえもんのキーホルダーがついている。
 (…)の寝室に移動する。ベッドの脇にある椅子に座り、リュックサックからMacBook Airを取り出し、ベッドの上に置いてある彼のノートパソコンのとなりにならべる。パソコントラブルは続いている。VPN問題とは別に、大学から支給されていたデスクトップも最近壊れたという。大学のほうに連絡し、余っているやつに取り替えてもらったものの、その余っているやつというのがずいぶん古い型らしく、OSもWindows7といっていたか、Windowsのことは正直よくわからんのでアレだが、いずれにせよ、とにかく、交換してもらったやつというのも以前だれかが使っていたお古で、しかるがゆえにまずはそいつを初期化する必要がある。その初期化がうまくいかないと言っていたのか、あるいは初期化に成功したものの、その後のOSのアップデートがうまくいかないと言っていたのか、ちょっとよくわからんかったが、そっちはそっちでまたトラブルを起こしている最中とのこと。教室のcomputerもしょっちゅうトラブルが生じる、PPTなんてできれば使いたくない、smart boardで授業をやりたいというので、うちの大学は予算がないからあれを導入することがあったとしても当分先だろうねと受ける。
 Astrill VPNは問題なく機能している。ただ、さっき電話であったように、QQに紐付けするメールアドレスの変更がうまくいかないらしく、かつ、どういうアレかよくわからんのだが、メールボックスにアクセスするためにこちらのパソコンが必要という話らしい。とりあえずパソコンだけ(…)に渡しておいて、こちらは(…)のいれてくれた甘いコーヒーを飲みながら、もしかしたら馒头のにおいが残っているからだろうか、今日はやたらとなつっこい(…)の相手をする。ほどなくしてドラえもんのマウスをさっそく箱から取り出したらしい(…)が、そのマウスがおさまっていた透明なプラスチックのカバーだけ持ってこちらのそばにやってくる。マウスのかたちにかたどられたそのプラスチックのカバーを丸椅子の上に置き、まるでそれが本物のマウスであるかのように、指先でカチカチとクリックするふりをする。そして突然ひとりで爆笑しはじめる。そのようすを見て、こちらもつられて笑ってしまう。幼い子どもというのは、しばしば、大人にはまったく理解のできない笑いのツボを有しているものだ。その沸点の低さがおもしろい。自由だと思う。姪っ子らの相手をしているときもたびたびそういう瞬間があった。
 (…)相手に馒头の話をしたり((…)は馒头を見たことがあるといった)、阳台に飾ってある花を見せてもらったりする((…)はその際、じぶんはgreen handだといった、植物を育てるのが上手なひとくらいの意味かなと思ったが、いま調べてみたところ、初心者という意味らしい——植物を育てるのが得意な(…)にくらべて、じぶんはまだまだ未熟な青二才だという意味だったのかもしれない)。浴室の工事が今日ようやく終わったよというと、夫妻も最近壁の水漏れ修理をしてもらったとのこと。阳台に置かれている洗濯機のすぐそばにある壁から水がずっと滲みでてきていたのを業者に修理してもらったらしい。(…)さんがまだ(…)にいたころ、下の階の住人から、おまえの部屋の浴室から水が漏れてくる、気をつけてほしいと言われたみたいなことを言っていた件もふくめて、われわれの寮、ちょっと水漏れが多すぎなのでは?
 コーヒーに続けてジャスミンティーももらう。(…)の作業は難航した。QQに紐づけるメアドを交換するところまではうまくいったようなのだが、その後パソコンからQQにアクセスしたところ、なぜかメールボックスがemptyになっていたのだ。(…)はAstrill VPNとQQのパスワードが一緒なのがいけないのかもしれないといった。なんらかの事情でそれらが衝突するのではないか、と。いや、そんなわけないでしょという感じであるが、とりあえず彼がAstrill VPNのパスワードを変更するのを見守る。やはりうまくいかない。そこでいったん再起動してみることに。結果、それでうまくいった。QQのメールボックスも問題なく復活したのだ。いや、すべてが解決するまでにもう少しいろいろなプロセスがあったかもしれないが、基本的に今回は彼に任せっぱなしだったので、どういう問題が生じてどういう方法で解決したのか、こちらは正直よくわかっていない。
 (…)があれこれしているあいだ、今日は(…)とけっこうたくさんおしゃべりしたのだが(彼女も(…)と同様、去年から今年にかけてのこの交流を通して、あきらかにこちらに対して好印象を抱きつつあるようにみえる——Stardew Valleyでいえば、好感度がどんどん上昇している感じだ——そもそものスタートが日本人というマイナス属性からのアレなので、相手がこちらに抱く印象の変化はけっこうわかりやすい、割合はっきりと感じとることができる。あるいは単純に、コロナ以前はこちらが英語をあやつることができるとは、(…)も(…)も思っていなかっただけという可能性もあるが。(…)さんがいたころは、外教らの集うイベントや会議の場でも、基本的に彼とふたりでずっと日本語で話していたし、歴代の日本語教師もこれまで英語のできる人物がいなかったときいているので、古株の(…)はこちらも同様であると以前は判断していたのかもしれない。(…)との会話のなかで、学校教育のストレスに耐えられず首吊り自殺した中学生か高校生の話が出た。中国ではかなり報道されていたというので、Twitterにいる中国人界隈でなんかそんな話が以前出ていたなと思った。中国の中高生は勉強しすぎだ、朝はやくから夜おそくまで毎日自習を強いられている、あれはかわいそうだというと、日本ではそんなことないのかと驚いてみせる。どうやら(…)のイメージでは、日本と中国と韓国の東アジア三カ国(+東南アジアのタイ)が強烈な学歴社会であり、学生らのプレッシャーがえげつないというふうになっているようだ。日本も以前はそうだったがいまはそうでもない、少なくとも中国にくらべると全然リラックスしていると伝える。うちの学生の中にも教師の資格をとる子は多い、でもみんな高校の教師にはなりたくないといっているというと、(…)は以前(…)にある高校で英語教師の仕事をしていたといった。進学コースの学生を担当していたのだが、朝の自習にあわせて教師も5時半に起床する必要がある、授業を終えたあとは夜の自習に付き合う必要があり、10時半の消灯時間までひたすら学生らの質問に答えなければならない、帰宅すると11時をまわっていた、毎日そんな生活だったとのこと。地獄やな。
 そうこうするうちに、パソコンのほうの問題は無事片付いたわけだった。(…)は大喜びだった。(…)にキスしたい気分だといったその言葉をきいた(…)が、じゃあわたしが代わりにしてあげるといって(…)の頬にチュッとやった。Easy peasy Japaneseyだと(…)はいった。この言葉を知っているかというので、はじめてきいたと応じると、なにかeasyなことを指してEasy peasy Japaneseyと口にすることがある、ここでJapaneseyという言葉が出てくるのはおそらく家電やコンピューターやテクノロジーの分野で日本製品が世界でトップだった、その時代の空気を踏まえてのものだと思うと説明が続いた。一例として(…)は日本メーカーの名前をあげようとした。(…)が横からPanasonicと口にすると、Panasonicアメリカのものだろうというので、いやあれは日本の会社だよと引き取った(しかしそのPanasonicもいまや中国資本の傘下にあるのではなかったか?)。
 問題が解決したところで(…)の寝室を出てリビングに移動。明日は授業があるのかというので、ない、しかし明後日は(…)で授業だと受けると、(…)の授業があるのかと、ふたりそろって気の毒そうな表情をした。移動時間を気の毒がっているのだろうが、こちらはわりと(…)までの移動時間を苦にしない。むしろ、昼寝や書見の時間としてけっこう満喫している。(…)にはむかしバイクでよく通ったものだと(…)はいった。学生たちがいつもその姿を見て、Cool! と褒めてくれたという。
 (…)はいつのまにかドラえもんグッズフル装備でほかでもないドラえもんをパソコンで視聴していた。のび太がブリーフ一丁になってはずかしがっているシーンを見て死ぬほどゲラゲラ笑っているの指して、毎日あんな感じと(…)は言った。中国語の吹き替え版ではなく日本語音声の中国語字幕で視聴していたので、いずれ簡単な日本語なら話せるようになるかもしれないねというと、子どもは外国語の吸収がはやいからと(…)も同意した。アニメファンの(…)はアニメ作品だけで1TB分のストックが手元にあるといった。ジブリをはじめとする日本アニメのほか、a strange planetとかなんとかいうタイトルのポーランドの古いアニメ作品がとくにおもしろいみたいなことを言っていたが、ググってみても出てこない((…)自身タイトルの記憶があいまいだと言っていた)。アニメを見るときはいつも字幕にすると(…)は言った。吹き替えをEnglish——といいながら引用符のチョキチョキマークをする——にすると、流れるのはいつもAmerican English——といいながらまたチョキチョキする——だといったのち、その吹き替え音声の真似をしてみせた。高いピッチとたっぷりの抑揚で演じられる大袈裟で子供だましな口調。なるほど、イギリス人にとってのアメリカ英語とはそういうふうに聞こえるのか。アメリカに一ヶ月ほど滞在していたことがあるのだが、現地のニュースを見ておどろいた、アナウンサーやキャスターまでそんな調子で話すのだと(…)は続けた。(…)はマジでアメリカの悪口を言い出すと止まらない。
 (…)と(…)とそろって部屋を出る。一階までおりる。(…)は白いイヤホンをつけていた。(…)の散歩中はいつもこれをきいているんだというので、音楽? とたずねると、BBCpodcastだという。陰謀論者がBBC? とちょっと驚いたが、ニュースではなかった、scienceやtechnolgy、あるいはDIYなどについての専門家の話を聞くのが好きなのだという。
 さよならして部屋にもどる。すぐに浴室でシャワーを浴び、ストレッチをし、部屋を出る前に(…)から渡されたお菓子やみかんを食う。さらにトースト二枚も追加して食し、ジャンプ+の更新をチェック。それから(…)さんの自己紹介を軽く添削したのち(続きは明日!)、今日づけの記事の続きにとりかかる。1時半になったところで作業を中断し、ベッドに移動。就寝。