20230223

 一九八九年春の北京は、アナーキストの天国だった。警察が急に姿を消し、大学生と市民が自発的に警察の任務を果たした。あのような北京が再現することは、おそらくないだろう。共通した目標と共通した願望が、警察のいない都市の秩序を整然と維持していた。街に出れば、友好的な空気が流れていることを感じる。地下鉄もバスも切符を買わずに乗れた。人々はお互いに微笑み合い、よそよそしさが微塵もなかった。よく見かけるような街角での口論もない。いつもは勘定高い商売人も、デモ隊に無料で食べ物と水を提供していた。退職した老人がわずかな銀行預金から現金を引き出し、広場でハンストをしている学生にカンパした。コソ泥たちまでもが窃盗協会の名義で、「ハンスト中の学生を支援するため、一切の窃盗行為を停止する」という声明を出した。当時の北京は、「四海の内はみな兄弟」とも言うべき都市になっていた。
 中国の都市で暮らしていると、強く感じることがある。とにかく、人が多いのだ。しかし私は、天安門広場の百万人デモを見て、ようやく中国は世界でいちばん人口の多い国だということを実感できた。天安門広場が毎日、黒山の人であふれている光景は壮観だった。地方からやってきた大学生が広場の片隅あるいは街頭に立ち、来る日も来る日も演説を続けていた。喉がかれ、声が出なくなっても、頑強に演説をやめようとしない。取り囲んでいる人々は、苦難の人生を歩んできた老人も、赤ん坊を抱いた母親も、若い学生の童顔に見入り、稚気に富んだ演説に耳を傾けている。誰もが尊敬の表情を浮かべ、しきりにうなずき、熱烈な拍手を送っていた。
(余華/飯塚容・訳『ほんとうの中国の話をしよう』)



 11時起床。(…)からreminderが届いている。今日の午後から(…)で授業があるよ、忘れないで、と。歯磨きと身支度をとっととすませて第五食堂へ。打包。帰宅し、ニュースをチェックしながら食すものを食し、コーヒーを淹れたのち、USBメモリに授業で使うデータをインポートする。
 午後の授業は14時半から。(…)まではバスで40分から50分ほどかかるが、道の混雑具合によってけっこう左右されるはず。木曜日の午後がどれくらい混雑しているかはわからないし、最初であるからとりあえずはやめに出発することに。それで13時10分過ぎには寮を出たのではなかったか? 小雨が降っていたので、バス停までは自転車を使わず徒歩で向かった。歩き出してほどなくゲームの景品として配る予定のお菓子を部屋に置きっぱなしにしてきたことに気づき、けっこう愕然とした。あれほど念入りに荷物をチェックしたにもかかわらず(ひさしぶりの授業なのでけっこう神経質になっていた)、よりによって景品を忘れる? おれの脳みそもいよいよバグってきたのでは? 部屋まで戻っていたらバスに間に合わないだろうし、なによりもめんどくさいので、ピドナ旧市街の入り口にある売店でなにか代わりのものを買うことに決める。がしかし、実際店に立ち寄ってみると、小さな商店だからしかたないのだが、日本製のお菓子はペコちゃんのペロペロキャンディくらいしか置いていない。これはやっぱりちゃうわなというわけであきらめる。ゲームをやるだけやって、景品は来週の授業で配布するというかたちにするか。
 バス停に到着する。バスがなかなかやってこないのでじりじりする。バスの運賃を支払うためのミニプログラムをひらいてみると、一年前はそんな機能なかったのだが、じぶんがいまいるバス停に何番のバスがあと何分後にやってくるかというデータがリアルタイムで表示されるようになっている。これはなかなか便利。
 バス停では10分以上待った。昼はもしかしたらバスが動いていないんじゃないかと思い、時間も時間なのでタクシーでもつかまえようかなとそわそわしはじめたところで、ようやくやってきたのだった。39分発。間に合うかなと心配だったが、ふたをあけてみれば、終点の(…)に到着したのは14時10分。ほんの30分の道のりだった。問題なし。
 しかしひさしぶりにローカルバスに乗ってみて思ったのだが、やっぱりジジババはうるさいな。めちゃくちゃでかい声でしゃべる。そしてそのおしゃべりにときどき運転手まで加わるのがちょっとおもしろい。イヤホンで耳をふさいで音楽を流し、残りわずかになっていた『〈ヤンチャな子ら〉のエスノグラフィー ヤンキーの生活世界を描き出す』(知念渉)を読み終わる。あとがきがいい。共感するところが大いにある。

 大学に入学して間もない頃、とても戸惑った経験がある。小学校の教師を目指して進学した教育学部の授業で周りの友人・知人と意見交換したときのことだ。はっきりと覚えているわけではないが、大学の授業では「理想の教師とは何か」「教師になりたいと思ったのはなぜか」「いい授業とはどんなものか」などのお題について話し合う、という機会が多かった。そういう意見交換を通じて周りの人がもっている生徒観をおぼろげながら知るわけだが、それが当時の私にはとても「優等生的なもの」に感じた。「こんな教師がいたら生徒に好かれると思う!」とか「こんな授業をしたら魅力的なんじゃないか」という友人たちの意見に対して、当時の私は「教師は教師であるという時点で、授業は授業であるという時点で、生徒にとって魅力的なものにするのは無理だろう」という冷笑的な態度をとっていた。
 いまから振り返れば、そうしたズレは私が生まれ育ってきた軌跡と、学友たちの軌跡の違いに原因があったのだと思う。私は、沖縄県玉城村(現・南城市)という農村部で生まれ育ち、親や親戚をはじめとする身近な大人に大卒者はいなかった。周りにいた大人や先輩、友人たちの多くは、高校卒業後あるいは中学校卒業後に農業や畜産、運輸業に携わっていた。そのような環境から、自分自身もきっと高校を卒業したら働くものだと思っていたので、高校では「遊び尽くす」と考えて、進学校ではなく中堅高に進んだ。実際、高校一年生から二年生まではかなり遊びほおけていたのだが、いろいろな偶然が重なって、高校三年生のときに一念発起し、地元の国立大学に進学することになった。一方、大学で出会った友人たちの多くは、親が教員や公務員だったり沖縄の一流企業に勤めていて、進学校を経て大学に入学してきていた。このような生まれ育った環境の違いから、生徒観のズレが生じていたことは想像にかたくない。
 ただ、いまだからそう整理できるわけで、当時の私にはそうしたモヤモヤを簡単にぬぐい去ることはできなかった。「優等生的なもの」を批判しながらも「なんだかんだ言って、結局、国立大学に進学した」自分自身に嫌気がさしていたし、「教師になりたい」と考える以上、自分の冷笑的な態度が自己矛盾を抱えていることにも気づいていた。議論の最中に周りから「友達の話ばっかりで、自分のことじゃないじゃん」と言われても、何も言い返せなかった。「大学になんて進学しなければよかった」「大学を辞めてしまおうか」と悩んだことも一度や二度ではない。だが、辞める決断ができないから、また鬱積してしまう。さらに言えば、大学での言葉遣いなどになじんでいくなかで、高校までの友人たちと距離ができてきたことも体感していた。大学生の自分探しと言ってしまえばそれまでだが、大学に入って一年くらいはそのような堂々巡りの状態が続いた。

 このあたりに関しては、大学進学後のじぶんの経験とかなり共通するところがあるなという感じ。「高校までの友人たちと距離ができて」いった理由として「大学での言葉遣いなどになじん」だことが挙げられている点など、似たような経緯を有している人間はみんなうんうんうなずくんじゃないかと思う。「言葉遣い」というものがいかに明確なしるしとして——部族の刺青のように——われわれの社会で機能していることか!
 以下のくだりも、ほとんどじぶんが書いたのではないかという気がするほどだ。激しく共感する。

 このように形をあらためて振り返ると、私にとって「ヤンキー」とは、とても身近だったのに、大学進学を機に突然「絶対に同一化できない/してはいけない他者」になってしまった存在なのだと思う。こういった言い方が許されるなら、「ありえた(が、もう選びえない)もう一つの生き方」と言ってもいいかもしれない。本書のもとになった調査をするようになってから、いろいろな機会(大学の採用面接でも!)に「知念さんはヤンキーだったんですか?」と問われるのだが、その問いに私が肯定も否定もできずに言いよどんでしまうのは、ヤンキーに対してそうしたアンビバレンツな感情をもっているからだ。

 終点でおりる。(…)のキャンパス内入ってすぐの売店に立ち寄る。日本製のお菓子はやはりほとんどない。水だけ買う。教室へ。指定されているのは四階の教室。(…)の四階に足を踏み入れるのははじめてだ。まずは便所で小便をする。例によって壁沿いに溝が掘ってあるだけの原始的な便所。タバコの吸い殻とクソのかけらが浮かんでいる。何度見ても最悪の光景だ。
 教室に入る。先着している学生がすでに十人以上いる。入り口に立ち、「日本語?」と声をかける。何人かの学生がうなずく。「こんにちは」と声をかけながら教壇にあがる。箸が転んでもおかしい年頃の子たちなのでキャーキャーキャーキャー笑いまくる。そうこうするうちにほかの学生たちも続々やってくる。教室前方の壁にかかっているスマホ収納ケースにスマホを入れてから席に着こうとするので、必要ない、ぼくの授業ではスマホを使ってもいいです、と日本語と中国語で伝える。
 まだ始業時間前だったが、ある程度人数のそろったところで、簡単な確認をする。クラスは38人。なかなか多い。男子学生は7人。高校生のころから日本語を勉強しているのは10人。出身は全員(…)省。(…)とはやはり全然異なる。(…)はいちおう一本大学にランクアップしたので、省外の学生も年々増加しているが、(…)はやはり地元のあまり勉強のできない子たちがくる大学という位置づけなのだろう(といっても毎年なんだかんだで一流の大学院に進学する子たちが一人か二人はいるのがおもしろいわけだが)。学習委員は(…)くんという男子学生。先学期の日語会話(一)を担当したのはたぶん(…)先生だと思うのだが、教科書の第何課まで進んだのかと確認したところ、第3課までという返事があり、え? どういうこと? (…)先生これまでなにやっとったんや? となった。16回分授業があったはずなのにどうして? 教科書を使わず授業をしていたのだろうか? こうなると今後どうするべきかちょっとむずかしい。(…)にあわせて第9課からやるのはさすがにアレであるし、ひとまず第4課から第8課までのうち重要そうなところだけピックアップしてやるべきか。(…)との学力差を踏まえても、やはりそうしたほうがいいかも。
 まずは自己紹介をする。あらかじめ用意しておいた写真など使いながら、いつからこの仕事をはじめて、いつからいつまでは日本でオンライン授業をしていて——みたいな経緯をなるべく簡単な日本語でゆっくりと説明する。スクリーンに映した写真がどれもこれもやたらと薄く見えづらいのでカーテンを閉めたが、それでもほとんど状況は変わらず。同様のトラブルは以前(…)の教室でもあった。プロジェクターが劣化しているのだ、にもかかわらず予算不足で大学はあたらしいプロジェクターを買ってくれないのだ。
 自己紹介は簡単にすませる。一年生の後期ではそれほどむずかしい話をするわけにもいかない。続けて、写真撮影。例によって学籍番号順に学生を五人ずつ教壇に呼んで、黒板に名前と趣味を板書させてこちらのスマホで撮影。学生の顔と名前をなるべくはやくおぼえるために必要な作業。
 それがすんだところで名詞ビンゴ。お題は「教室にあるもの」。景品のお菓子は忘れたので来週持ってきますと断ったついでに、最前列の机にのっかって「申し訳ございませんでした」と土下座するふりをする。これをやると学生らは毎回みんなめちゃくちゃあせる。中国ではなんだかんだいって教師の権威がめちゃくちゃ強力なので、たとえ冗談であってもそんなことは……! みたいな空気になるのだ(さすがにこちらの軽率さにすっかり慣れている三年生ともなると、そこまでういういしい反応は示してくれないが!)。
 ビンゴはお題を変えてもう一度やるつもりだったのだが、時間が押しているふうだったので、一回きりにして、残る時間でパーセントクイズ。AからGまで適当にグループ分けし、去年(…)でやったのと同じ問題をやる。例によってこれは死ぬほど盛りあがる。展開によっては悲鳴や喝采で窓ガラスが破れるんじゃないかというくらいワッと沸き立つ。
 しかし問題がいくつかあった。まず教卓のパソコンでPDFを開くことができなかった。jpegも同様に開くことができるものとできないものとがある。パソコンに詳しい学生はいるかとたずねたが、みんな詳しくないという。たぶんパソコンが古いせいだと思うと学習委員の彼がいう。しかたがないので、パーセントクイズの問題をあらかじめ文章にしておいたPDFを使わず、いちいち口頭と板書でやったわけだが、当然これはめちゃくちゃ時間がかかる。そういうわけでパーセントクイズのほうも一巡(五問)プラスαで終わり。勝利したチームのメンバーには紙に名前を書いてもらった。来週この記録に即して景品を配布する。
 しかしたとえ初回のゲームであろうと、グループワークという形式をとると、どうしてもそのなかに積極的に参加しない子たちが出てくる。これはもうしかたない。これがせいぜい20人未満の少人数クラスであれば、グループワークなしでも工夫次第でいろいろできるのだが、40人近くいるクラスとなると、どうしてもグループ単位で動いてもらわないとできないことが多い。集団行動が肌に合わない子もいるだろうし、特定のクラスメイトと犬猿の仲の子もいるだろうし、そういうアレから、先学期も先々学期もこちらは授業でグループワークをしない方針でやっていたのだが、そうするとどうしたってゲーム性のあることができない、つまり、アクティビティが不可能になる。結果、退屈する学生が出てくるというわけで、こちらを立てればあちらが立たず、こんなもんクラス全員のリクエストすべてに応えようとするのがそもそもまちがいだろう、そこまで学生をお客さん扱いすることもないだろう、強すぎる権威をおびた教師は問題だが、権威が弱すぎる教師というのもそれはそれで転移の成立する余地もなくなってしまうし、否定性を学生に与える契機を奪うことにもなってしまうわけだから——とか、そんな理屈はアレするにしても、今学期はとにかくグループワークを導入する。それでやってみる。うまくいくかどうかは知らん!
 授業が終わったところで教室を出る。おもてはまた雨降り。傘を差してバス停まで移動する。バス停にはすでにバスが到着している。そのバスが去ろうとするのを認めた女子学生ふたりが声をあげて駆け出す。こちらも彼女らのあとに続くかたちで走り、バスにすべりこみで乗車する。バス移動中はひたすら微信で友達申請のあった学生のアカウントを許可し、よろしくお願いします的な簡単なメッセージを送り続ける。これがなかなかの作業量になる。
 終点。后街のスーパーに向かう。閉店した(…)のとなり。先学期日本製の飴——UHA味覚糖のやつ——を買ったコーナーをのぞくと、同じ製品が何袋か残っていたので、追加で購入する(いちご味、ココナッツ味、抹茶味、ミルク味)。それから徒歩で大学にもどる。自転車ではなく徒歩で、それもイヤホンで音楽を流しながらキャンパスを移動するのは、かれこれ何ヶ月ぶりになるのか? ひさしぶりにそうやってみると、けっこう新鮮だ。舐達麻を流す。
 第五食堂に立ち寄って打包する。帰宅して食う。(…)一年生の(…)さん——という名前もなかなかすごい、日本語読みが「ラカン」だなんて、これはどんなしるしなんだろうと思う——から、こちらのアカウントを友人に紹介してもいいかという連絡が届く。(…)で歴史を専攻している学生らしいのだが、日本語にも興味があるらしい。許可する。すぐに(…)と名乗る人物から連絡がある。漢字の字面的にたぶん男子学生だと思う。簡単なやりとりだけする。
 食後のコーヒーを淹れる。きのうづけの記事の続きを書いて投稿する。ひとつだけ書き忘れていたことがある。(…)からけっこうあらたまったお礼の微信が届いたのだった。VPNもパソコンもいま問題なく動いている、(…)が協力してくれたおかげだ、それに(…)に素敵なgiftsをどうもありがとう、You’re a very special friend and wonderful colleagueだ、と。もちろん、似たような返事をこしらえて送っておいた。
 ウェブ各所を巡回し、2022年2月23日づけの記事を読み返す。2013年2月23日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。それから浴室でシャワーを浴び、ストレッチをしたのだが、それより少し前から悩まされていた頭痛がこのときから悪化しつつあり、なかなかきつかった。今日はまだコーヒーを二杯しか飲んでいないし、カフェインの離脱症状かなと疑ったが(そういうタイプの頭痛だった)、少ないといっても夕飯後にいちおう飲んではいる。とりあえず応急処置としてインスタントコーヒーをコップ半分ほど用意して薬のように飲んだ。
 それから(…)一年生の名前の日本語読みをネットでチェック。学習委員の(…)くんから名簿(エクセル)を受けとっていたので、漢音に気をつけながら一字ずつ確認していく。以下、その結果。男子学生は7人。

(…)

 まあなにがびっくりしたって、(…)さんと、(…)さんと、(…)さんの三人だ。こんな名字、これまで一度も目にしたことがない。あとは(…)さんのファーストネームもすごいなと思った。シンプルに(…)なのか、と。それから漢音について、晶が「ショウ」ではなく「セイ」であり、漫が「マン」ではなく「バン」であり、田が「デン」ではなく「テン」であるのもはじめて知った。しかし(…)一年生の顔と名前もまだはっきりしていないのに、追加でさらに38人か……。顔と名前を一致させる能力、むかしからイマイチなんだよなァ。記憶力は悪いほうではないと思うんだが。
 来週の授業で配布する日本語読みを付した名簿を作成する。その後、明日以降の授業で使う予定のビンゴ用紙を追加で印刷。頭痛はそのあいだもなかなかひかない。トースト二枚を食し、ジャンプ+の更新をチェックし、歯磨きをする。もしかしたら水分不足かもしれないと思い、白湯をガブ飲みし、1時半になったところでベッドに移動。横になってほどなく楽になったので、デスクに向かう時間が長すぎるせいでまた首まわりや肩まわりが凝って張ってしてきているのかもしれない、それが頭痛の原因かもしれんなと思う。