20230504

 大文字の他者とは、すでに第一章で見てきたように、①ランガージュの場(シニフィアンの宝庫)、②両親、③父の名(大文字の他者を支える中心的なシニフィアン)といったいくつかの意味を併せ持つ概念である。ラカンの前期理論においてはこうした大文字の他者は存在している。より正確に言えば「大文字の他者大文字の他者は存在する」のである。このことが何を意味するのかは、次のラカンの引用から明らかとなろう。
 「私が父の名と呼ぶもの、すなわち象徴的な父とはまさにこれです。それはシニフィアンの水準にある一つの項であり、法の座としての大文字の他者において、大文字の他者を表象・代理している項です。それは法を支え、法を公布するシニフィアンです。それは大文字の他者における大文字の他者なのです」(…)
 「大文字の他者大文字の他者は存在する」という表現において、後者の大文字の他者は引用から明らかなように、父の名である。それは象徴的なものの構造の中心にまるで絶対的な支配者のように存在しており、意味を保証している特別なシニフィアンである。換言すれば、それはファルスのシニフィアン[φ]であって、前者の大文字の他者[A]、すなわちシニフィアンの集合として描かれる象徴的な無意識において、構造化の中心に位置しているシニフィアンなのである。
 このような理論的前提から「無意識は一つのランガージュとして構造化されている」という先のテーゼは導かれる。つまり、ラカンにおいてはシニフィアンの集合[A]が無意識なのであり、それは父の名という特別なシニフィアン[φ]に支えられて構造化されているものなのである。
 そして、症状とは「一つのシニフィカシオン(signification:意味作用)、一つのシニフィエ」(…)であり、さらに言えば、上述のような言語的な無意識における意味の空白であって、主体は大文字の他者、先行するランガージュ、出自の世代といった基本的な所与の欲望に従属しているが、そのことを知らないのである。分析によって分析主体は無意識に書き込まれたこうした解読可能な意味を徐々に受け入れていくことになる。
 「主体が症状の意味を拒絶することこそが問題を提起します。この意味は主体に明らかにされてはいけません。この意味は主体によって引き受けられなくてはならないのです」(…)
(赤坂和哉『ラカン精神分析の治療論 理論と実践の交点』より「第三章 ラカン第一臨床あるいは同一化の臨床」 p.62-63)



 11時前起床。第五食堂で打包。食後のコーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きを書く。
 13時20分をまわったところで寮を出る。ケッタで移動している最中、脳内ビートにあわせてフリースタイルする。南門の近くにケッタを置き、歩いてバス停に向かう。ルートが変更になってからというもの、体育館前から乗車するのが習慣になっていたが、今日はそのひとつ手前にある(…)前から乗車することにした。
 40分をまわったところでバスがやってくる。乗る。運転手は石原軍団がかけていそうなサングラス——デカくて、真っ黒で、フレームがほぼない——をかけている。次のバス停でビート博士が乗車する。やつがスマホから鳴らし続けるクソダサいビートにあわせて小声でフリースタイルしてみるが、すぐにやめる。その次のバス停だったか、次の次のバス停だったか忘れたが、運転手が急に運転席から離れて、乗客らのいる車内の窓を閉めはじめた。そのようすを見た乗客らもおなじように窓を閉めはじめる。どうやらエアコンを入れることにしたらしい。こちらもかたわらの窓を閉める。今日は最高気温が30度あるかないかくらいだったが、体感的にはけっこうきつかった。たぶん湿度が高かったからだと思う。予報では午後から雨降りだったが、結局晴れたままだった。
 移動中はThe Garden Party and Other Stories(Katherine Mansfield)の続き。終点でおりる。売店でミネラルウォーターを買って教室へ。14時半から(…)一年生の日語会話(二)。第19課。教室後方にはめちゃくちゃ古いエアコンがいちおう置かれているのだが(冷蔵庫みたいなかたちをしたもの)、たぶん壊れている。それで冷房といえば天井の扇風機しかないわけだが、全部で四つあるうちの一つが壊れており、スイッチを押しても動きださない。学生らはみんな動く扇風機の下に集まった。いつもと座席が少し異なる。暑さのせいもあってか、授業はいつもにくらべると多少間延びした空気に。基本的にやりにくいクラスであるのだが(一年生の時点ですでにやる気のない学生がかなり目立つのにくわえて、高校履修組のやる気があったり能力が高かったりする学生のほとんどがめちゃくちゃシャイでろくに発言しようとしない、さらにクラス内での対立やイジメの気配をひしひしと感じる)、今日はそのやりにくさがわりとけっこうデカめの障壁としてたちはだかった感じ。(…)でやったときもおなじ感想をもったが、挙手をもとめるタイプのアクティビティは今後やらないほうがよさそう。(…)さんと(…)さんのふたりはもうダメ。ゲームの時間ですら居眠りする始末。こんな学生いままで一人もいなかった。
 5分はやく授業を切りあげる。帰りのバスも運転手の指示で乗客らが窓を閉める。往路と帰路で“Her First Ball”を読み終え、ああ、これもやっぱりいい作品だったなとしみじみ思ったわけだが、ひとつどうしても理解できない箇所があった。序盤、ballに向かう車内でナーバスに興奮しているLeilaの描写に続いて、彼女のcousinであるLaurieが姉妹であるLauraに"The third and the ninth as usual. Twig?”と語りかける、この言葉の意味が全然よくわからん。以下にその前の部分から引く。

 Oh dear, how hard it was to be indifferent like the others! She tried not to smile too much; she tried not to care. But every single thing was so new and exciting… Meg’s tuberoses, Jose's long loop of amber, Laura's little dark head, pushing above her white fur like a flower through snow. She would remember for ever. It even gave her a pang to see her cousin Laurie throw away the wisps of tissue paper he pulled from the fastenings of his new gloves. She would like to have kept those wisps as a keepsake, as a remembrance. Laurie leaned forward and put his hand on Laura's knee.
"Look here, darling," he said. "The third and the ninth as usual. Twig?"

 Chat GPTにでも質問すればわかるのかもしれないが、そもそもChat GPTを利用するためにはアカウントを作成しなければならないし、その作成のためには(中国以外の)SMSを利用する必要がある。だから頼れない。だれかこのLaurieのセリフの意味がわかるひとがいれば教えてください。あるいは翻訳ではどうなっているか教えてください(マンスフィールドもオコナーも和訳はすべて日本に置いてきた)。クソ気になります。
 (…)前でおりる。道路の対岸に渡って(…)で食パンを買う。食パンとは別にチョコレートのケーキもひとつ買う。阿姨が今日はそれは買うのかと笑いながらいうので、今日は甘いものが食べたいと応じる。店を出る。イヤホンを装着し、きのうYouTubeでリコメンドされるがままにフリースタイルしてみたら気持ちのよかったharuka nakamuraの“Lamp(feat.Nujabes)”を流し、歩きながらケッタに乗りながらあるいは寮の階段をあがりながら小声でひたすらフリースタイルし続ける。
 帰宅後ひととき休憩したのち、第五食堂に出向いて打包。バスケコートではまた応援団勢揃いで試合をしている。学部対抗試合もぼちぼち決勝戦をむかえるころでは? メシ食ってベッドに移動して30分寝る。起きたところで、一年生の学習委員である(…)さんに明日の授業で使う資料を送る。
 シャワーを浴びる。夜であるがかまわず洗濯機をまわす。ストレッチをし、コーヒーを淹れ、きのうづけの記事を投稿する。ウェブ各所を巡回し、2022年5月4日づけの記事を読み返す。(…)の教卓に銭鍾書の妻である楊絳(ようこう)の本が一冊置いてあるのを見つけたと記録されている。楊絳の本はまだ一冊も読んだことがない。帰国したら図書館を当たってみるつもり。
 以下はオープンダイアローグについて。

 2020年5月4日づけの記事を読み返した。以下、斎藤環『オープンダイアローグとは何か』より。

 このほかに言語を絶した経験といえば、PTSDなどのトラウマがあります。あまりに過酷なストレス体験は、断片化され現在との連続性を失ったトラウマとして心に刻まれます。断片化ゆえに、トラウマは、自分自身の人生の一部として統合され物語化されることがありません。それは断片のままフラッシュバックしてきたり、悪夢に入り込んだり、身体症状に転換されたりします。
 断片化されたトラウマの記憶を、言葉の力を借りて自分の人生に再統合すること。トラウマの治療の多くが、そうした基本方針のもとで構築されてきました。
 たとえばナラティブ・セラピーは、トラウマに意味を見出し、言語化を促進することで、もう一度患者自身の人生に再統合するという側面を持っています。あるいはまたPE(持続暴露療法 Prolonged Exposure)は、繰り返しトラウマを語らせること(暴露すること)で、それによって生ずる不安を軽減し、断片化した体験の統合をはかります。
 私はPEについてはよく、精細度が高く情報量が多すぎて保存しきれない画像データを“圧縮”して、記録しやすい情報サイズに変換する作業になぞらえます。ここで情報量の圧縮に大きく貢献しているのが「言葉の力」ということになります。
 ここまでで言えることは、精神障害の原因が「体験を言語化できないこと」かどうかはともかくとして、多くの精神障害にとって「病的体験の言語化=物語化」は何らかの治療的な意義を持つ、ということです。この側面について、オープンダイアローグはナラティブ・セラピーから大きな影響を受けています。
斎藤環『オープンダイアローグとは何か』より「オープンダイアローグの理論」p.35-36)

 ここでいう「物語化」や「断片化した体験の統合」、「精細度が高く情報量が多すぎて保存しきれない画像データ」の「圧縮」としての「PE(持続暴露療法 Prolonged Exposure)」など、すべて予測の体系をはずれた出来事(現実的なもの)を予測の体系(象徴秩序)に埋め込み直す作業として理解できる。伝承される知(予測体系1)としての〈父の名〉と経験的に培われていく個人的(身体的)な知(予測体系2)の二段重ねとして主体を考える道筋をこちらは考えているわけだが、この方向性はうまく発展させればオープンダイアローグ理論とも十分接続可能であると思う。

 2013年5月4日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。(…)さんのアホっぷりにやっぱり笑う。ほんまにどもならんジジイやったわ。この件についてもマジでキレていたはず。

(…)さんが60歳からのhow to sexみたいな記事につられてなけなしの金で週刊ポストを購入していたのが笑えた。いぜん新聞の広告欄にその見出しが出ているのを見つけて(…)さんが(…)さんこれどうですかねとすすめてみたところ、んなもんダメや週刊誌なんて嘘ばっかりや、と一顧だにせずな態度であったのに、結局これである。しかも数件のコンビニと書店をめぐったあげくの購入だったらしい。肝心の中身については、おめーこれスワッピングパーティーいうたかてな!紹介しとるとこぜんぶ東京ばっかやないか!ワシちょっと編集部に電話したろかいなコレ!とお怒りであった。

 ケーキ食う。食パンも食う。グルテンフリーを実践している人間が卒倒するような夜食の食い方しとる。(…)さんからもらったびわもいくらか食う。ひとつひとつがライチ並みに小さいし、これほんまにびわけ? という疑いがあったのだが、皮をむいて食ってみたらたしかにびわの味がした。種もやたらとデカくて、あ、やっぱりびわだな、という感じ。
 明日の授業で必要な資料を印刷し、USBメモリにインポートする。ジャンプ+の更新をチェックし、歯磨きをすませ、0時半から2時半まで『本気で学ぶ中国語』。その後、ベッドに移動して就寝。