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 分析家の意図や欲望が謎であれば、分析主体は同一化する対象[a]を見出すことができず、分析家は一つの理想[I]として分析主体の前に姿を現すことはない。分析家の欲望が謎のxとして留まるためには、分析家は彼の考えや意図を分析主体に伝えないことが一つの方策となろう。それはつまり分析家が沈黙することを意味する。分析家の沈黙によって、分析主体は分析家を謎の対象として経験し、分析家に代表される大文字の他者を理想とすることなく、脱同一化へと向かうのである。
 Dは治療者の沈黙によって、まず自らのパロールを聴くという基本的な分析的体験をした。そして、この沈黙において、彼女は恐怖などの強否定的な感情によって治療から脱落することなく、抱えられる体験をし、さらに治療者からの解釈が少ないことで想像的な同一化が起こりにくくなり、転移幻想はより純粋に展開されていった。こうして最終的に、Dは諸々の大文字の他者(自我理想)から離れていったのである。それが、聴くことを可能にする沈黙、抱える効果をもつ沈黙、転移の前提となる沈黙という三つの沈黙の上に成り立つ、沈黙の脱同一化という機能である。
(赤坂和哉『ラカン精神分析の治療論 理論と実践の交点』より「第五章 分析的経験の前面に位置する沈黙」 p.125-126)



 正午過ぎ起床。歯磨きして寮を出る。ケッタに乗って(…)へ。小雨が降っているせいで、めがねのレンズ表面に小粒の水滴がつく。店では食パンを三袋買う。店内では販促用の音声が流れていたのだが(以前はそんなものなかった)、いかにもラジオパーソナリティっぽい抑揚たっぷりの声で語る男性がしきりに“泰裤辣!”と繰り返しており、マジで流行ってんだなという感じ。
 店を出る。(…)のとなりには眼鏡屋があるのだが、ここではいつも白衣を着用した店員の女性が入り口に立って、店の前を通る通行人らを退屈そうにながめている。日本ほど接客業にもとめられる水準の高くない社会であるし、客のいないときくらい店の奥にひっこんで本でも読んでいればいいのにと思う。中国では基本的に店番をしている人間はずっとスマホをいじっているし、客がレジに来てもそのスマホから目を離さないまま対応することもざらにある。ああいうのを見るたびに、日本でおなじことが許されるのであれば、勤務中に読書できるバイトを求めてあくせくしたり、あるいはワンオペ勤務中に監視カメラの死角に隠れてこそこそ本を読んだり、これまでじぶんがずっとやってきた七面倒なあれこれの手間が省けるのになとうらやましく思う。とはいえ、その分こっちの店番は賃金が全然高くないだろうし、なにより文学だの芸術だのやる人間にとっては地獄のような社会であるから、そういう意味ではまったくうらやましくないわけだけど。
 第三食堂に立ち寄る。ちょうど昼休みどきだったので、食堂内の照明はすべて落ちている。しかし店自体は営業している。まっくらなホールのテーブルに腰かけている姿もいくらかあるが、その大半が休憩中のスタッフらしい。ハンバーガーの店にいく。こちらのことを完全に認知しているおっちゃんが、海老のハンバーガーと牛肉のハンバーガーでいいか? と先取りしていうので、今日は海老のやつだけでいいと応じる。海老のやつができあがるまでのあいだ、おっちゃんは例によって周囲にはばかりないようすで歌をうたう。もうひとり店に入っている若い男もやっぱり大きな声で歌をうたう。鼻歌というレベルではない。裏声までしっかり出すマジ歌。ふたりともかなり達者だと思う。店の前だけ照明がついていたので、そのあかりの下に突っ立って、樫村愛子の続きをちょっとだけ読む。
 帰宅。ハンバーガーを食し、洗濯機をまわす。きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年5月10日づけの記事を読み返す。以下の記述におどろく。また一年越しのシンクロを果たしてしまった。バイオリズムなるものの存在を信じてしまいそうになる。

その後寝床に移動したのだが、目が異常に冴えていることに気づいた。コーヒーをたっぷり400ccがぶ飲みしたためかもしれない。明日は朝一で(…)に向かう必要があるのにと考えたところで、あ、今学期まだいっぺんも仮病を使っていないぞ、と思った。デスクにもどりパソコンで今学期のスケジュールをあらためて確認する。(…)三年生の授業はまだ一度も休んでいない。このタイミングしかないなというわけで明日の午前はお休みすることに。

 2013年5月10日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。そのまま今日づけの記事もここまで一気に書くと、時刻は16時半近かった。

 (…)さんの作文コンクール用原稿と(…)さんのスピーチコンテスト用原稿を添削する。作業中はリリースされたばかりの『FINE LINE』(パソコン音楽クラブ)を流す。第五食堂で打包したものを食ったのち、仮眠はとらず、先の原稿をあらためてチェックしたのち、ふたりに返却する。(…)さんには録音も送る。
 シャワーを浴び、ストレッチをする。一年生のグループチャットで(…)さんがあたらしい表情包を送って寄越す。こちらの顔をゴムボールみたいにして巨大な手のひらが揉み揉みしているもの。自習の時間にバカなもん作ってんじゃない! (…)先生に密告するぞ! 許してほしければいますぐ10000元支払え! といつものように恐喝する。それをきっかけにグループチャット内でちょっとしたやりとりがあったのだが、(…)くんが「先生、最近コロナがあります。マスクをしっかり持ってきてください。気をつけてください。」「インフルエンザは恐ろしいものだ」という。精度の低い翻訳アプリを噛ませているためだろう、流行しているのがコロナであるのかインフルエンザであるのか、このやりとりだけではちょっと理解できない。コロナが流行しているのかとたずねかえしたが、結局、夜のあいだに返信はなかった。
 「実弾(仮)」第四稿にとりかかる。23時半までカタカタやった結果、プラス7枚で計504/1007枚。シーン25はひとまずオッケーということにする。ここは長いし重要なシーンであるので、一発でバッチリきめようとするのではなく、第五稿、第六稿と稿をかさねていく過程で、少しずつ修正していけばいい。シーン26も半分ほど確認。このシーンは弱いのでおもいきり加筆する必要がある。今日は筆が乗った。それでいまさら思ったのだが、やっぱり毎日書く必要がある。一日でも原稿から離れる時間ができてしまうと、積み重ねてきたボーナスのようなものがそれだけでいったんゼロにリセットされてしまう、そういうアレがあるような気がする。やったことがないのでわからんのだが、ソシャゲ界隈でよく目にする連続ログインボーナスみたいなものが、長い小説の執筆作業にはおそらくあるのだ。毎日原稿と向き合うことによって得られる特殊なバフのようなもの。
 以下はシーン25。前半の山場であり、この小説の折り返し地点である。

 ステージの上で大道芸人がジャグリングをはじめる。ボーリングのピンみたいなかたちをしたクラブを三本、くるくると回転させながら顔の高さに投げるシルクハットにワイシャツの立ち姿が、照明のついていない代わりに無数の蝋燭が灯されているだけの薄暗がりのなかで、おぼろげに浮かびあがっている。胸元を大きく開けたシャツと宙を舞うクラブだけが、日中にたくわえた光をほのかにたたえているかのように白い。
 蝋燭の炎だけではさすがに間に合わないとスタッフが判断したのか、ほどなくして青白いスポットライトが点灯し、ステージ中央を斜めから照らしだす。大道芸人はジャグリングをいったん停止する。バトンを握った手を抗議のかたちにひろげ、いかにもまぶしそうに目をほそめながら、フロアの後方にあるバーカウンターのほうを文句ありげにながめる。誇張されたその表情に、フロアから笑いが起こる。BGMが停止し、ソーリー! マーティン! とカウンターからスタッフが叫ぶ。それでまたひと笑い生じる。
 宙につりさげられたいくつものスピーカーからふたたびBGMが流れはじめる。停止前よりもボリュームが大きくなっている。先ほどのやりとりも大道芸人によってあらかじめ仕組まれていたものかもしれない。
 節電と祈りを兼ねたキャンドルナイトという趣向の店内には、いたるところに大小さまざまなグラスキャンドルが置かれており、回転するミラーボールの代わりに小さな炎をゆらめかせている。アロマキャンドルも混じっているらしく、店内には変にあまったるいにおいがただよっている。
 ステージの真ん前には、以前はなかった巨大なテーブルが置かれている。分厚い一枚板を天板にしたもので、優に十人は座ることができる。席には子連れの夫婦が二組同席している。幼い子ども三人のうち、二人は双子かもしれない、遠目の暗闇にも顔から背丈からそっくりにみえる。短く刈りあげた側頭部に稲妻のようなラインを走らせている幼い兄弟は、ステージの中央でふたたびクラブを構えはじめた大道芸人には見向きもせず、大皿の上に山盛りになったフライドポテトに次から次へと手をのばしている。
 そのほかのテーブル席はフロアの両端に追いやられている。ステージに向かって右端の壁際には、四人がけのテーブル席が三つならんでいる。真ん中のテーブル席には、浅黒い肌のアジア系の男がふたり、ステージに背を向ける格好で背もたれのない丸椅子に座り、テーブルをはさんだ先でグラスをなめている、こちらは日本人のようにみえる太った金髪の女ひとり相手に、顔と顔がひっつくくらい前のめりになって話しかけている。
 ステージに向かって左端の壁際には、木製のベンチが雨樋のように継ぎ目なくまっすぐのびている。ベンチの上には色も形もバラバラのクッションや座布団が乱雑に、まるで犬猫の寝床のように、場所によっては何枚も重ねて敷かれている。そのベンチに沿う格好で、小ぶりの円卓が五つ間隔を置いて設置されているが、クッションや座布団と同様、こちらもサイズやデザインに統一感はない。寄せ集めのものでやりくりしているかのような、安っぽくカラフルなそのありさまは、テレビで何度も目にした避難所の光景にも似ている。ベンチのほかに椅子は置かれていないので、客は壁を背もたれとする格好で横一列に腰かけることになる。以前来たときもそんなふうだったか、孝奈はうまく思いだすことができない。震災の発生する前だったのはたしかだ。
 孝奈とまおまおがならんで腰かけているのは、ステージからいちばん離れた小ぶりの円卓の前だ。孝奈がベンチの端っこを陣取り、肩のぎりぎり触れないその左となりにまおまおが腰かけている。ジャグリングを再開した大道芸人のいるステージのほうをながめるふりをしながら、ビールの入ったほそいグラスを手にして首から上をやはりステージに向けているまおまおのなかばそむけられた横顔を、孝奈はじっとながめた。ニット帽からはみでた右耳が、テーブルの上に置かれているグラスキャンドルの明かりに照らされて、そこだけ妙に血色良く浮かびあがってみえる。
 まだ少ししか口をつけていないジンジャエールのグラスをテーブルの上から取りあげ、模造煉瓦の壁にもたれかかる。背もたれと同時にパーテーションの役割も担っている壁は、着席するひとびとの首の高さで途切れており、その向こうには、壁と並走するかたちで通路がまっすぐにのびている。突き当たりにある出入り口は、そこだけ天井の高さにまで達している模造煉瓦の壁によって、隣接するフロアのステージとはしっかりへだてられている。
 その出入り口の扉がひらく。近くにつりさげられた複数のランプの炎が、上下ともに黒いジャージに身を包んだ、道男とおない年くらいの男の姿を浮かびあがらせる。眉がほそく、つりあがった目をしており、小太りで、頬がパンパンにふくらんでいる。癖っ毛を短くカットしているのが、遠目にはどこかパンチパーマのようにみえる。もしかしたら本当にパンチパーマかもしれない。ローテーブルとそれをはさむソファが三セット、店の外に面した大窓に沿って等間隔に配置されている通路を、男はガラの悪さを隠そうともしない早足のガニ股でまっすぐのしのしと歩いてくると、そのまま孝奈の背後を通りすぎ、パーテーションの途切れ目からフロアに足を踏みいれた。フロアの入り口から見てすぐ右手の壁際にあるバーカウンターに両肘をのせて、孝奈のいるほうに背中を向けるかたちで前のめりの姿勢になる。
 カウンターの奥にひかえているバーテンダーと言葉を交わしはじめたその顔が、不意にふりかえった。全体をぼんやりとながめわたすのではない、距離と方向にはじめから見当をつけているような動きだった。ぎょっとした孝奈が目を逸らすよりもはやく、男はすぐにまたバーテンダーのほうに向きなおったが、それもつかのま、今度はそのバーテンダーと一緒になってふりかえると、値踏みするような視線を孝奈にじっと送りだした。
 孝奈はテーブルの上のキャンドルへと目線を切った。相手の視線を受けての反応ではないと姑息に主張するように、ことさらゆっくりと逃したその目の焦点が炎につなぎとめられたところで、グラスを持っていないほうの手の親指と人差し指で両眼のあいだをつまんで揉みほぐすふりをした。視力の悪さを訴えるように、自分はガンをつけていたわけではないと弁明するように。
 焦点を炎の奥に合わせる。フロアをはさんだ正面では、テーブル席のいっぽうにならんで腰かけていたアジア系の男のひとりが立ちあがり、対面にいる日本人の女のとなりに移動するところだった。そのまま首から上を錆びついた蛇口のようにぎこちくなく左にひねる。視界を丸ごとステージのほうに切り替えると、大道芸人があつかっているクラブがいつのまにか五本に増えていた。宙を回転しながら舞うその一本一本をうつろに追う。時間を十分稼いだところで、手にしているグラスをテーブルの上に置くふりをして、バーカウンターのほうをちらりと盗み見た。ふたりは孝奈のほうをさっきとまったく変わらない姿勢でじっとながめていた。勘ちがいではない。バーテンダーの男が耳元で語る言葉にときおり小さく相槌を打ちながら、ジャージの男は黒いスニーカーを履いた右足のつま先をフロアに突きたて、ストレッチでもするみたいにくねくねと右左に回転させている。
 みぞおちのあたりがちぢこまり、呼吸が浅くなった。心臓がざわざわし、締めつけられるような苦しさをおぼえる。フロアに接しているはずの足の裏が一気にこころもとなくなり、尻の穴がゆるんだ。置いたばかりのグラスをふたたび持ちあげて、かたちだけ口に運ぶ。サイゼリヤでドリンクバーを死ぬほど飲んだせいで、腹が金魚と水の入った袋のようにたぷたぷになっている。もう一度ステージに視線を逃すと、ジャグリングを終えた大道芸人が両腕を水平にのばして決めポーズをとるところだった。音楽がジャン! と音をたてて停止するのに合わせて、大道芸人があご先をぐっと持ちあげてみせる。青白いスポットライトの中で、汗のしずくが飛び散るのが遠目にもみえた。
 ステージ前の大きなテーブル席についている家族連れが拍手をする。かたわらのまおまおが尻のすわりを軽く直した拍子に、あまい女のにおいがふっとただよいだして鼻先をかすめた。バクバクと波打つものと変に反応してか、孝奈は一瞬だけ吐きそうになった。大道芸人は手にしていたクラブをステージの上に置き、シルクハットを脱ぎさると、その場で深々と西洋式のお辞儀をした。それからステージをおり、シルクハットを片手に、ステージ前にある巨大なテーブルの周囲をぐるぐるぐるぐるしつこくまわりはじめた。シルクハットのリボンは、Pray for Japanと記された日の丸カラーのものに取り替えられている。おひねりは全額寄付されるという趣向だ。
 双子の兄弟の前で懸命におどけている大道芸人のかたわらを、いつのまにかバーカウンターをあとにしていたジャージの男が、ホールスタッフのような足どりで遠慮なく通りすぎた。孝奈のほうを一瞥もせず、そのままフロアの奥にある個室に向けて去っていく。ほっとするひまもなかった。気づけば、バーテンダーがテーブルのすぐそばに立っていた。うなじの付け根にタトゥーの切れ端がちらりとのぞく例のアジア系だ。BGMのやかましいホールで注文をとるときのように、腰をかがめて孝奈をじっとのぞきこむと、グラスキャンドルに下から照らされてか、のっぺりとした笑みが不気味に浅い陰影をやどした。
「ちょっと来て」
 バーテンダーは促音の物足りないタメ口で言った。
「なに? なんで?」
「いい、いい、来て」
 そう言いながらなかば強引に孝奈の腕をひっぱり、その場に立ちあがらせる。手にしていたグラスの中身がその拍子にこぼれ、グラスキャンドルの火を消した。まおまおが席に座ったままふたりのほうをふりかえったが、間近な灯りが失われたせいで表情をたしかめることができない。
「これ持ってね」
 バーテンダーは孝奈の手から奪ったジンジャエールのグラスをまおまおに差しだした。まおまおは中身のほとんど空になったグラスを素直に受けとった。
 バーテンダーはそのまま孝奈を自分の先に立たせると、腰のあたりをゆっくりと押しながら、フロアを歩かせはじめた。ステージ前にあるテーブルのかたわらを通りがかるさいに、双子の男児からおひねりの小銭を受けとっていた大道芸人が、目をばっちり見ひらき、真っ白な歯をむきだしにして笑いながら、シルクハットをすばやく突きだした。バーテンダーが早口の英語でなにか答えると、大道芸人もまた早口の英語でなにか言い、ふたりして笑った。そのあいだも、孝奈の腰にあてがわれた銃口のような手のひらが離れることはなかった。
 ステージを前にして右手に折れる。短い通路の奥には個室がある。個室といっても扉はない。そこだけ低くなった天井からランプを模した暖色系の照明器具がつるされている六畳ほどの空間が、フロアに背を向けるかたちでならぶワイン棚によって外と区切られているだけだ。その入り口に、ジャージの男がふたりに背を向ける格好で立っていた。通路の途中、左手にはトイレの入り口がある。のれんで目隠しされたその奥から景人が左足をひきずりながら出てくる。バーテンダーとともに目の前を横ぎっていく孝奈の表情になにかを感じとったのか、景人はなにも声をかけることができない。その場に立ちつくしたまま、自意識の枯れた老人のように見ひらいた目で、ふたりの背中をただ追う。
 個室の入り口にいたジャージの男が、ふたりに対して半身に向きなおる。バーテンダーに腰を押されるがまま、孝奈は柑橘系のきつい香水をただよわせている男のかたわらを通りぬけて、中に足を踏みいれた。個室の右手には、木製の長方形のテーブルがひとつ、上座を潰すかたちで壁に寄せて置かれていた。テーブルの両側にはそれぞれ背もたれのない木製のベンチがあり、そのうちのいっぽう、ワイン棚ではなく店の白壁を背もたれとするほうに、グレーのスーツを着た長谷村がひとりで腰かけている。
 腰にあてがわれていた手が離れる。立ち去ったバーテンダーの代わりに、ジャージの男が出口をふさぐようにして孝奈の斜め後ろに立った。個室の左手には、白シャツの襟をたてた若い男が、PKで壁役を担う選手のように両手を股間の上で重ねて足を肩幅程度にひらき、緊張した面持ちで立っている。その男が中学の同級生であることに孝奈はすぐに気がついた。菅田だ。
 ジャージの男が孝奈の左肩を乱暴に突き飛ばした。孝奈はバランスを崩しながら、テーブルとベンチのあいだのせまい隙間に押しこまれた。ぐらつき倒れそうになるのを無理して踏んばったせいで、ひざやくるぶしをあちこちに打ちつける。ジャージの男は空いた距離をすぐに詰めると、孝奈のパーカーの襟元をひっつかんで無理やりその場に座らせた。自身もひきつづき逃げ道をふさぐようにして、その左となりに腰をおろす。柑橘系のにおいがまた鼻をかすめる。そのにおいから顔をそむけるように頭を垂れる。フードに通されている紐のいっぽうが抜け落ちそうになるほど長々と外に飛びだし、心臓よりもはるかに低い位置で振り子のようにぶらぶらしている。耳の付け根にまで響くこの鼓動を受けてゆれているのだと孝奈は思った。
 テーブルの上には、灰皿とグラスキャンドルだけがある。そのテーブルをはさんで向かいあう格好になった長谷村は、火のついていない煙草を口にくわえたまま、孝奈のほうを見むきもせず、以前はかけていなかった細いフレームの眼鏡越しにのぞくややうつろな目つきを、表面に白くスモークのかかったような模様のグラスキャンドルにそそいでいた。孝奈は息を詰めた。長谷村はおもむろに右手をのばし、炎をゆらめかせているそのグラスが熱をもっていないかどうか指の腹で確認すると、腰を浮かしかけたジャージの男を目顔で制し、グラスの底に近いほうを三本の指で持ちあげてゆっくり顔の前に運んだ。そのまま煙草に火をつける。左目のまぶたが半分以上ふさがっているせいで、まるで年老いた犬のように眠たげにみえるその顔つきが、煙を吸いこんだ瞬間、人間らしくしかめられて悲嘆に暮れたようになる。
 長谷村は後ろの白壁にもたれかかると、目線を退屈そうにテーブルに落としたまま、イのかたちにした口の端から煙を吐いた。そのまますぐに二口目を吸う。今度は下唇を前に出し、少し受け口気味にして、やかんの先からたちのぼる湯気のように吐く。吐ききらないうちに、ジャージの男にちらりと目を向けた。
 ジャージの男の右手が、次の瞬間、孝奈の左頬を思いきり張った。孝奈はベンチの上になかば横倒しになり、頭頂部を上座の壁に軽くゴンとぶつけた。次の一発に構える余裕すらなかった。パーカーの襟元をひっつかまれて上体をすぐにひき起こされると、間髪おかずにまた張られた。今度は倒れなかった。右手をベンチの上にぐっと突いて、よろめく身体をどうにか支えた。
 不意打ちの驚きが勝ったおかげで、痛みはほとんどなかった。だれとも目を合わせないようにしながら、孝奈は薄い胸で浅い呼吸をくりかえし、軽くかしいでいた上体をゆっくりと元の位置にもどした。その瞬間にまた張られた。
 今度は上体をかしいだままにしておいた。次の一発がいつきてもいいように口を閉じ、奥歯をぐっと噛んだが、怒りをたくわえている反抗的な表情として映るのをおそれて、すぐに歯の根をゆるめた。顔はあげなかった。垂れた前髪で視線を隠すようにして、うつむいたままでいた。孝奈は自分の目つきが悪いことを知っている。中学でも高校でも入学直後は必ず上級生から因縁をつけられた。上級生だけではなかった。教師も、母親も、みんな孝奈の一重まぶたをなじった。
 張られる。さっきよりも重い一発だったので、右手の突っ張り棒が肘のところでがくんと折れそうになった。視界がチカチカし、呼吸がますます浅くなる。座面に突いた右手のひらの指先を少しだけ折り曲げて力を込めておく。空いた左手がいかにも所在なさげにふとももの上にのっているのが気になるが、どこに置くのが正解なのかわからない。
 また張られる。上体をかしいだままにして距離を稼いでおいたのがまずかったのか、ジャージの男の手のひらは頬をはずれて耳に当たった。左耳がキーンと鳴りはじめる。耳はまずい、打たれるなら頬のほうがいい。変に冷静な頭でそう考えながら、背筋をのばして座りなおしたところで、下手な小細工をよしとしないような、これまででもっとも強い一発を見舞われた。フロアの音楽に負けないほど大きな、クラッカーや癇癪玉にも似た音が、せまい空間にぴしゃりと鳴り響く。ふとももの上にのせておいた左手が反射的に持ちあがり、突っ張り棒になっている右手とならんで、倒れこみそうになる体を支えた。
 酒乱の夫に打たれた妻みたいな、なよなよと崩れてしまった情けない姿勢を、孝奈はすぐにたてなおした。そのくらいの意地はまだ働いた。目線をどこに置けばいいのかわからなかったので、テーブルに向きあいながらも、長谷村の顔が視界に入らない微妙な角度に顔を伏せた。ほかの三人がいまどのような表情を浮かべているのか、目顔でなにを語りあっているのか、たしかめてみたかったが、顔をあげる勇気はなかった。
 口の中で血の味がうっすらとひろがりはじめていた。その出所を確認するべく、とがらせた舌先で左頬の内側をゆっくりとなぞりはじめたところで、また張られた。血の味が今度ははっきりと鼻を抜けたと思うまもなく、もう一発、予想だにしないはやさで続いた。頬の肉が歯に当たって切れ、口内炎を潰しでもしたかのように、唾液よりも重くどろりとしたものがしみわたった。飲みくだすと、鉄のにおいで鼻がいっぱいになり、のどがむずがゆくなった。
 緊張のあまり痛みはやはりほとんど感じないが、張られつづけた頬が熱を帯びてぼうっとしていた。おなじところばかりたたかれないように、孝奈はジャージの男からほんの少しだけ顔を逸らしたが、工夫が裏目に出て、次の平手はまたしても耳を直撃した。さっきよりも強いキーンという音が、張られたのは左耳であるにもかかわらず頭の中の右耳に近いほうで高く鳴り、ほかの物音がなにひとつ聞こえなくなった。これ以上続くと鼓膜が破れてしまうかもしれない。無言でそのおそれを訴えるように、孝奈は左手で自分の耳のあたりをさすった。訴えは聞きいれられなかった。次の一発はその手の甲ごと、勝手な身動きなど許さないとばかりに、顔の側面を激しく打った。とうとう横倒しになった。頭頂部をふたたび上座の壁に、今度はしたたかにぶつけた。ゴツンという音が、頭の内側のうつろなところで響いた。
 このまま横倒しになっていたほうが安全ではないかと考えるまもなく、フードをひっつかまれて無理やり起こされた。フードの付け根の線維がぶちぶちと音をたてて破れるのを、内と外の区別すらつかなくなっている耳が、自分の首筋を通る神経かなにかがひきちぎれる音として聞きとり、軽くパニックになった。パニックになりながらも、鼓膜を守るため、先とは反対に顔をジャージの男のほうに向けて正面から相対したが、そのせいで次の一発は鼻を直撃することになった。激痛が走り、おもわず声が漏れた。たまらず男に背を向けた。両手で鼻を覆ったまま、ベンチの座面ぎりぎりに顔を近づけて、水面で息継ぎするみたいな呼吸を口でくりかえす。視界はとっくに水没していた。意地ではもはや上塗りできないおびえが全身にゆきわたり、手とひざがぶるぶると震えはじめていた。
 それで終わりではなかった。いつまでも地面のにおいを嗅いでいる犬に痺れを切らした短気な飼い主のように、ジャージの男はフードを真後ろからぐいっとひっぱった。喉が締まった。血が垂れ落ちそうになっている鼻を両手で覆ったまま、孝奈は軽く咳きこみながら起こした上体を、逆らうつもりのいっさいないことを訴えるように相手のほうにくるりと向けた。自分の口臭をたしかめる人間のように鼻と口をまとめて覆っている両手が、手のひらと手のひらのあいだにあるふくらみを少しずつ押しつぶすようにして、ゆっくりと懇願のかたちに変わりつつあった。涙でにじんだ視界のなかで、ジャージの男はむすっとした表情のまま、顎をやや持ちあげるようにし、ほそくつりあがった目で孝奈を見おろしていた。その表情をまったく変えないまま、次の一発が、孝奈の合掌ごと鼻を打つようにして放たれた。平手というよりは掌打に近いその一撃に、孝奈はさっきよりも大きなうめき声をあげて後方に倒れこみ、後頭部を壁に激しく打ちつけた。両手で抱えあげた石を土の上に落としたときのような、鈍く太い音が響いた。空気が一瞬、ひやりとするのがわかった。
「すんません」あおむけに倒れたまま孝奈は言った。「すんませんでした」
 だれもなにも言わない。孝奈は合掌した両手の人差し指で鼻の付け根のあたりをやわらかく押さえたまま、口で激しく呼吸をくりかえした。鼻血が詰まって実際に鼻呼吸ができなくなっているのか、恐怖や緊張のせいで息が荒くなってしまっているだけなのか、あるいはすでに十分な制裁を受けたことをアピールするためにそうしているのか、自分でもまったくわからなかった。涙の膜が張った視界のなかで、天井からつりさげられているランプの光が、黄金色のハレーションを起こしている。目に映るものすべての輪郭があやしくにじんでいるなかで、ワイン棚からはみだしているボトルの先端だけが、はっきりと痩せほそってみえた。そのボトルで殴られるかもしれないという考えが、差しせまったものとして不意に浮かびあがった。
「すいませんでした」
 鼻声でそう口にしてから、起きあがろうとしたが、体に力が入りにくかった。夢のなかでヤンキーにからまれたときとよく似ていた。込めた力をそこにしっかりたくわえておく芯のようなものの底が抜けているのだった。それでも無理やり起きあがろうとすると、半分だけひっかかるようにして座面に残っていた尻が、ベンチからずるりと落ちた。テーブルとベンチのあいだに反転しながらずり落ちた下半身にひきずられるようにして、上半身もそのままベリーロールのようにぐるりと回転しながら落下しかけたが、そこでまたフードをひっつかまれた。首の皮を噛んで運ばれる子猫のように上半身が宙づりになり、喉がさっきよりもさらにきつく締まり、顔全体が一瞬で熱を帯びた。襟元の付け根がびりっと音をたてると、締まっていたものが少しゆるみ、孝奈は自分でも驚くほど大きな声を出してゲエッとえずいた。横隔膜が口から飛びでるのではないかというほど持ちあがり、くちびるの端から粘度の高い唾が糸をひいて落ちた。涙もとうとうしずくとなってぼたぼた床に落ちた。
 荒い呼吸をくりかえしながら、ベンチに座りなおした。鼻血がユナイテッド・アローズの股ぐら付近にやはりぼとぼとと音をたてて落ちた。口で息をしながら、涙がこぼれ落ちたために多少見やすくなった視界のなかで、生地に染みこみきる前の鮮やかな血痕を数えた。三つ、四つ、五つ。家にあるものもふくめて、もうすべての服とスニーカーを失ってもいいので、どうか解放してくださいと、朦朧とする頭で神様に取引を持ちかけた。
「おい」
 個室の入り口で直立している菅田にジャージの男が声をかける。菅田はさっとジャージの男のほうに身を寄せ、包装されたままの紙おしぼりを差しだした。ジャージの男は包装を破り、取りだした紙おしぼりで自分の右手の指先についた血を、つめの隙間までゆきとどくように几帳面にぬぐった。それから使い終わったものを孝奈の眼前に突きだし、「拭け」と言った。孝奈は心の底からほっとした。ジャージの男の慈悲深さにほとんど感謝の念すらおぼえた。こんなに優しい人間はほかにいないと声に出して訴えたいくらいだった。軽く頭をさげて紙おしぼりを受けとり、鼻と口のまわりをおそるおそるぬぐいながら、涙をさらにぼとぼとと落とした。
「鼻詰めとけ」
 ジャージの男に言われるがまま、ぶるぶると震えまくる指先で厚手のウェットティッシュみたいな紙おしぼりをちぎって丸め、左の鼻の穴に詰めた。詰め終わったところで、顔を少しだけあげると、待ち受けていたかのように頬を張られた。油断していたので、それほどの力ではなかったはずであるのに、派手に吹っ飛んでしまい、側頭部を壁にごつんとぶつけた。ぶつけた衝撃で、鼻の穴に詰めたばかりのものが抜けかけた。
 壁にこめかみをこすりつけた状態で、孝奈はしばらく口ではあはあと息をくりかえした。なんとかして許してもらおうと、まるでファウルを得ようとするサッカー選手みたいに、体が勝手に演技をしていた。それと同時に、さっきの感謝の念を返せという悔しさがおこり、そのことを自覚した途端、痛みに由来するものではない涙が、目ではなく鼻の奥あたりからつんと湧きあがった。身体は壁際に寄ったまま動こうとしなかった。おびえやひるみというよりもあきらめや自棄に近いものが、意思や打算とは無関係に、ここではじめて反抗らしい反抗をとったのかもしれなかった。反抗はジャージの男との距離として表現されていた。
 その距離を容赦なく詰める手があった。フードをひっつかまれ、ひきよせられる。体の垂直に起きたところで手は離れたが、いきなり宙ぶらりんになった上体が積木の塔のようにその場でぐらりとゆれたところを、おなじ手がすぐさまきつく張った。今度はこめかみのあたりに当たったので、さほど痛くなかったが、制裁がまだ終わりでないという事実によってへし折られるものがあった。くちびるがぶるぶると震え、喉の奥で蚊の音のような声が漏れた。涙が堰を切ったように次から次へとこみあげて、瞳で張りつめてこらえているものを押し流した。顔を軽く伏せて目を閉じると、あふれかえったものがぼとぼととしたたり落ちた。涙だけではなかった。鼻水のたっぷり混じった鼻血も落ち、降りはじめの雨のような音が一瞬間だけ続いた。鼻をすすると、ずるっというまぬけな音がした。心が完全に折れてしまったことを周囲に告げるその音を、孝奈はもうはずかしいとは思わなかった。同情をひくことができるかもしれない唯一の手段として、むしろ何度も何度もくりかえした。
 その横面を張られた。側頭部を壁にぶつけた拍子に、左の鼻に詰めていたものが今度は完全に抜けて、そのまま床に落ちた。壁にこめかみと右肩をこすりつけるようにしながら、自分の体が頭を撃たれた直後の死体のようにずるずると崩れていくのを、孝奈はもはやひきとめようとしなかった。右肘を突き、尻の左半分だけを浮かせた横倒しの姿勢のまま、もう一度フードをひっぱりあげられるのをただじっと待つ。鼻から垂れ落ちてきた血がくちびるに達する。床に落ちた紙おしぼりの真っ赤な先端は、漬物のようにひたひたになっていた。
「知ってんだろ?」
 長谷村が言った。声は孝奈に向けられていない。
「はい」菅田の恐縮した声が聞こえる。「知ってます」
「仲良かったの?」
「いや、良かったっていうほどではないですけど」
「高校?」
「はい?」
「高校一緒だったんだっけ?」
「いえ、中学ッす」
「中学か」
「説明不足でした、すみません」
「おまえそれ口癖だよな」長谷村は笑った。「説明不足でしたって」
 孝奈はおそるおそるそちらに視線を向けた。菅田は個室の入り口で背筋をぴんとのばして突っ立ち、ひいた顎を立てた襟にうずめるようにし、ひきつった笑みを浮かべていた。
 長谷村は煙草の煙をふうっと吐きだした。「つるんでたの?」
「いえ、そんなでもないです」
 菅田はそう言いながらテーブルのそばに一歩だけ寄った。孝奈のほうには目を向けず、椅子に腰かけている長谷村のほうに目線を合わせるようにやや前かがみになりながら、完全にちぢみあがっている内心をこわばった笑みでひたむきに隠そうとしている。遠目にはスラックスのようにみえたズボンは、実際にはブラックデニムのようだった。真ん中にターコイズの埋めこまれたバックル付きの、真っ白な革ベルトを締めている。
「でも何回か、共通の友人と遊んで、集まったりしたこととかあります、はい」
「悪いことしてたんだろ? カツアゲ橋の下で原付乗りまわしてたんじゃないの?」
 ジャージの男が鼻でふっと笑った。それに気づいた長谷村が、な、と同意をもとめるのに、なつかしいっすね、と答える。
「いえ、自分たち中坊んときは全然そこまで」菅田は恐縮したようすで答えた。
「ほんとか、おまえ〜?」
「自分、中坊んころは橋渡るときいつも財布から札抜いて、全部靴下に隠してました」
「おったな、そういうやつ」ジャージの男が明るい声で言った。
「高校は別?」
「中学んときに転校して、こっちにもどってきたのがその後何年かしてからなんで」
「おまえが?」
「いえ」
「これが?」
 長谷村は視線を菅田のほうに向けたまま、煙草を手にした指先で孝奈を指した。
「はい」菅田はうなずいた。「すんません、説明不足で」
 やりとりのあいだ、菅田は一度も孝奈のほうを見ようとしなかった。長谷村から目を逸らさず、相手のひとことひとことにいちいちしっかりうなずき、一秒も待たせてはいけないとばかりにすばやくはっきりした声で返事をする。
「なんで転校したの?」
 長谷村は灰皿の上に煙草の灰を落としながら、そこではじめて孝奈に直接問いかけた。孝奈のほうを見てそう口にしたわけではなかった。目線はあくまでも手にした煙草が灰皿の縁を軽くたたくようすにそそがれていた。ただ顔の向きを菅田のいるほうからわずかにそらしてみせたその動きで、自分が返事をもとめられているのだとわかったのだった。分厚いまぶたにただでさえふさがれがちな左目の、伏し目になっているせいでますます隠れてしまっているのが外斜視であることに、孝奈はそのときはじめて気づいた。返事が遅れたらまた殴られるという頭があったので、体は起こさず壁にしなだれかかるような姿勢のまま、ただ唾を飲みこみ少しだけ咳払いをしてから、親が離婚して、と答えた。ジャージの男がすぐにフードに手をのばした。生地が破れたのか、ゴムがのびきってしまったのか、フードをひっぱっても孝奈の上半身がぴったりついてこないことに気づくと、今度は頭頂部から髪の毛を思いきり鷲掴みにした。そのまま孝奈の左耳を自分の口元にぐっとひきよせ、「敬語!」とドスを利かせた声を張りあげると、髪の毛を離した直後の手で後頭部を力いっぱいはたいた。はたかれたいきおいで前のめりになった孝奈は、そのままテーブルの角に額を打ちつけそうになった。ぎりぎりのところでとどまったが、腰のあたりに変な力が入ってしまい、ぴりっとした痛みが背中全体に走った。鼻血と鼻水の混ざったものがぼたぼたっと、重い音をたてて床に落ちた。
「いつこっちもどってきたの?」
「二年前です」
 答えてから孝奈はおそるおそる顔をあげた。下を向いたままだと、それを理由にまた殴られるかもしれない。
「なんで?」
「母親と一緒に出て、出たンですけど、一緒にいるのが嫌になって」そこまで答えたところで、いったん咳払いをした。声が震えているのを、菅田に知られたくない。「こっちもどってきました」
「なんで嫌だったの? 男連れこんでたの?」
 孝奈は返事に詰まった。長谷村の声色には嘲笑が混じっている。打たれた頬がますます赤くなるのがわかる。鼻の奥がふたたびつんとするのを、奥歯を噛んでこらえていると、ジャージの男の手がゆっくりとのびてきて、後頭部をふたたびはたかれた。今度は踏みとどまることができず、テーブルの縁に額を打ちつけた。灰皿やグラスがゆれて、がちゃんと音をたてる。
「返事」ジャージの男が言う。
「お母ちゃんがほかの男にとられたら嫌だもんな」孝奈の返事を待たずに長谷村が言った。「男はみんなマザコンだって言うしな、おれも母親の葬式では馬鹿みたいに泣いたわ」
 長谷村の言葉は問いかけのかたちをなしているようでもあれば、ひとりごとのようでもあった。どう反応するのが正解なのかわからない。孝奈は次の言葉を待ちながら、いつまたはたかれてもいいように、痛む背筋にそれでも力を込めた。
「いま父ちゃんと住んでるの?」
「いえ」すぐに答える。「兄といます、住んでます、一緒に」
「父ちゃんは?」
「死にました」
「死んだ?」
「はい」
 長谷村は歯をむきだしにして笑みを浮かべると、「同情の余地があるな!」と大きな声で言った。テーブルから身をひき離し、暖色系の照明を受けて黄色っぽくみえる白壁にもたれかかりながら、菅田のほうを見やり、「なあ!」と同意をもとめる。
「おまえよりよっぽど苦労してるぞ!」
「はい! 自分もそう思います」
 菅田が緊張した声で返事をする。なあ! と長谷村がふたたび同意をもとめるのに、はい! はい! と菅田はその都度鶏のように首から上だけを前後にすばやく動かして相槌を打つ。
 長谷村は右手に持っていた煙草の先端を昔ながらのアルミの灰皿にぐりぐり押しつけ、さあ、とため息まじりに漏らすと、その場にゆっくりと立ちあがった。立ちあがった拍子に、ふともものあたりがテーブルの縁にぶつかり、灰皿やグラスがまたがちゃんと音をたてるのに、孝奈の身体はびくりと反応した。「あ痛」とさほど痛くもなさそうに漏らす長谷村の起立に合わせて、孝奈のとなりに腰かけていたジャージの男もさっとその場に立ちあがった。
 長谷村はジャケットの内ポケットから財布を取りだすと、中から折り目のついていない一万円札を一枚抜きとった。
「足りるよな?」
「こいつは飲まさんからだいじょうぶです」
 長谷村の問いかけに、ジャージの男が菅田のほうを指しながら、子どものように目をほそめて答えた。
「飲めないの?」
「こいつ運転あるんで」
「おまえ鬼だなぁ!」
 長谷村は大きな声で笑った。相対するジャージの男もにこにこしている。菅田も無理してこわばった笑みを浮かべている。
「いいの、おまえ?」
「だいじょうぶです、自分これが仕事です!」
「じゃあ今度こいつにおごってもらえよ」長谷村はジャージの男のほうを顎で指して言った。
「はい!」
「はいやねえやろアホ」
 ジャージの男がすかさずそう言って菅田の頭をはたく。孝奈の後頭部をはたくときとはちがい、それほど力が入っていない。菅田もそうされるのに慣れているのか、ジャージの男が手をふりあげた瞬間、みずから頭頂部を相手のほうに差しむけてみせた。そうしたふたりのようすを満足気にながめていた長谷村が、不意に、ベンチに座ったままの孝奈を見おろした。この日はじめて目が合う。
「一杯おごってやりな、酒好きらしいから、なるべく強いのな」
 長谷村はそう言ってから、ジャージの男と菅田のあいだを通りぬけて、個室をあとにした。ふたりはフロアのほうに向きなおり、その後ろ姿に対して「ご苦労様です」と短く口にしながら頭をさげる。

 執筆を終えたところで腹筋を酷使する。プロテインを飲み、トースト二枚を食し、歯磨きをしながらジャンプ+の更新をチェック。1時をまわった段階ではやばやと寝床に移動。明日は(…)での授業なのでいつもよりはやく起きる必要があると考えての行動だったのだが、結局、4時前まで長々と書見することになった。The Garden Party and Other Stories(Katherine Mansfield)の続き。“The Stranger”を読み終わる。これは以前James Joyceの“The Dead”とペアにしてあれこれ日記に書いたおぼえがあるので、けっこう印象に残っている作品であるのだけれど、今回あらためて読んでみて、やっぱりすごいなと思った。ヨーロッパから船で帰ってきた妻を迎える夫のハイテンションっぷり、妻に対する戯画的なまでにまぬけな溺愛っぷりがさんざん描写されたあとに、反してどこか浮かないようすの妻が夫からの追及を受けてとうとう実は船内で若い男性を看取ったことを告白する。それも死の瞬間はふたりきりであったとまず口にされるその告白がどうしても想起させる、ふたりは旅路の過程で抜き差しならぬ関係になったのではないかという疑いが、そうではなくたまたま男が倒れる瞬間その場に妻が居合わせただけであったと続く言葉によって否定される、しかしそれに重ねて男が妻の腕の中で息絶えたことが語られる。この話を聞いた夫は大きなショックを受け、再会の夕べと夫婦水入らずの時間が完全にスポイルされてしまったことを嘆く、“Spoilt their evening! Spoilt their being alone together! They would never be alone together again.”というフレーズで小説は終わる。
 これってある意味究極の寝とられ小説だよなと思った。仮に妻と若い男が肉体関係を結んでいたとしても、それはすでに先んじてむすばれていた妻と夫の関係の二番煎じでしかない。しかし妻の手のなかで絶命するというきわめて印象的かつ象徴的な行為を、夫は当然のことながらそれまで実行に移したことはない。だから換言すれば、ここで夫は、(ゲスい言い方をすると)若い男によって妻のはじめてを奪われているということになる。そしてそういう認識に対する嫉妬を超えた絶望のようなものがここでは描かれているといえる。
 補足しておくと、「ふたりは旅路の過程で抜き差しならぬ関係になったのではないかという疑い」を夫が抱いたとは、この小説のなかにまったく書かれていない。ただ、妻が船での出来事を語る際のその情報の出し方、小出しにする順番からして、(その出来事を知らないという意味で夫と同じ立場に置かれている)読者の頭には、少なからずそのような疑いがよぎるようになっている。また、夫が妻の告白を受けてショックを受けたことは書かれているものの、それがどういう論理でのショックであるのかはやはり書かれていない(上の段落に書き記したような分析的な記述はいっさいない)。そういうところがやっぱりうまい。すべて言語化したくなる、出来事に意味の輪郭線を太くひいてしまいたくなる、読者に対する解説というよりはむしろ書き手自身の足場を固めるためになされるそのような要約的な言語化が、ここでは注意深くこばまれ、貴重な空白のまま手付かずで置かれている。だからすごく上品な印象を受けるのだ。妻の腕のなかで息絶えた若い男の姿とペアをなすかのように、告白を受ける前の夫が妻をじぶんのひざの上にのせていたり、あるいは告白を受けたあとにその妻の胸に顔をうずめたりするという形象的な細部の連動もちょっと気になる。