20230509

 議論が少々抽象的になった感があるので、ここで根源的幻想において主体が空の対象aと出会うという分析の終わりの部分を、分析主体の経験に沿って記述し直してみよう。
 根源的幻想とは、主体が大文字の他者を完全にするというエディプス的な幻想である。したがって、そこにおいて主体は、結局のところ欠如しているのでしかない大文字の他者を完全にするために、自らの存在が機能しているということに気づく。つまり、分析主体は「自分は大文字の他者のために存在していた対象であったのだ」と気づくのである。それはまた別様に言えば、自分の人生を方向づけていた享楽の残余への固着を知ることでもある。こうした洞察を通して、分析主体は「私はこの幻想に捕らわれて人生を過ごしてきたのだ」と実感し、そうした幻想を失墜させるに至る。こうして主体は大文字の他者の欲望を欲望しなくなり、大文字の他者から離れていく。主体の欲望はここから対象aに基づいた享楽的な色合いを帯びた欲望となっていくだろう。
 以上のような過程は幻想の横断(traversée du fantasme)と呼ばれ、これによって特徴づけられる幻想の臨床は、一つの論理にしたがってパスという一つの出口を提供していることから純粋精神分析(psychanalyse pure)と呼ばれる(…)。それはまた対象aの分析、より正確に言えば、対象aを巡る分析と言うことができよう。
 分析主体がこうした過程を辿る際、分析家は知を想定された主体の位置にいる。分析家が解釈の際に意味する内容が明示的な解釈を主体に提示をすれば、愛によって分析が一つの真理で止まってしまうことがある。そうなれば、主体はシニフィアンを数え上げることを止め、幻想を横断して根源的幻想を構成することはできなくなり、分析は擬似的な終わりを迎えることになってしまう。そこでそうした事態を避けるために、分析家は身を与えない解釈、無-意味な解釈をして、主体に自らのものとしての幻想を反覆させる。そうした解釈としては、例えば、意味を空白のままにすることである面接の切り上げ、つまりはスカンシオン(scansion)や解釈できるところで敢えて解釈をしないことである沈黙(silence)などが考えられる。
(赤坂和哉『ラカン精神分析の治療論 理論と実践の交点』より「第四章 ラカン第二臨床あるいは幻想の臨床」 p.89-90)



 正午前後に目が覚めた。腹痛がした。下痢だなと思ったが、トイレに行っても何も出ない。それを二度か三度くりかえした。メシは第五食堂で打包した炒面(今日は面条ではなく方便面にしてみた)。
 (…)先生から微信。今日の夜に会議があるのだが、そこで来学期の時間割を決める必要があるという。去年通りであるならば、三年生の日語閲読(三)、二年生の日語会話(三)と日語基礎写作(一)、一年生の日語会話(一)ということになるのだが、それでかまわないかというので、(…)のほうでも二年生の日語会話(三)と日語基礎写作(一)および一年生の日語会話(一)があるのではないかと質問。それにくわえてスピーチコンテストの指導もあるとなると、さすがにスケジュールがきついし、どうしたものかとこちらも考えていたのだと受けると、スピーチコンテストについては、これまでのように別枠で賃金が発生しないことに決まったという報告があった。以前もそんな話を聞いたが、正式にそういうかたちになったらしい。決定は外国語学院のみならず大学全体のもの。例によって(…)先生は(日本語学科の主任であるにもかかわらず!)中国語でしかこちらにメッセージを送らないので、ちょっと把握しかねるところもなくはないのだが、これまでであればだいたい300节分の賃金が給料とは別に指導教師に山分けするかたちで支払われていた。それが、コンテストで入賞しなかった場合、たった10节分の賃金しか支払われなくなるという。実質ただ働きみたいなもんだ。この決定について(…)先生は、われわれ中国人教師が損をするべきであり、外国人教師に損をさせるべきではない、みたいなことをいった。ということは、こちらがそう望みさえすれば、スピーチコンテストの指導から外れることもできるということだろうか? しかしそれで代表の学生らは納得するだろうか? しないんじゃないだろうか? (…)については、来年から(…)学院として独立することに決まっているという(うわさ話はやはり本当だったらしい)。そうなった場合、われわれ(…)の教師がかかわる必要はもうない。いちおう来学期には日本語学科の一年生が入学することになっているのだが、その年を最後に、(…)学院として独立後は日本語学科そのものが廃止になることに決まっている。そういう状況であるので、(…)先生としては、彼自身(…)の日本語学科主任であるという立場もあるからだろう、こちらにはなるべく(…)の授業を担当してほしいと考えているようす。また、(…)の新入生は2クラスになるという話もあった。しかるがゆえに来学期の日語会話(一)は2クラス分やる必要があるとのこと。今後ずっと新入生が2クラスずつ来ることになったら、単純計算で授業時間が二倍になるわけで、それはけっこうきつくないか? 1クラスの人数が減れば、その分、会話の授業はかなりやりやすくなると思うが。
 それで話をまとめる。(…)はいったんないことにすると、来学期こちらが担当する授業は、三年生の日語閲読(三)、二年生の日語会話(三)と日語基礎写作(一)、一年生の日語会話(一)×2の10节ということになる。しかし仮にここにスピーチコンテストの指導が加わるとなると、さすがにちょっとやっとれんくらい忙しくなるので、そうなるのであれば授業をひとつ減らしてほしいといった。その場合、会話の授業も作文の授業もネイティヴ以外にまかせるわけにはいかないので、こちらがおりるのは必然的に三年生の日語閲読(三)ということになる。だったら閲読は(…)先生にまかせると(…)先生はすぐにいった。ということは、いま、暗黙のうちに、こちらは例年どおりスピーチコンテストの指導教師をつとめることに決まったという理解でいいのだろうか? 別枠の賃金が発生しないのは正直かなり痛いが、普通の授業の代わりに準備のそれほど必要ない授業を割り当てられるのだと考えれば、別におおきく損した感じはしない。それに、スピーチコンテストの指導は、優秀な学生らと親しくなる良いチャンスでもある。
 そういうわけでいちおう来学期の予定は決まったわけであるが、(…)のほうがどうしても(…)先生に来てほしいとお願いしてきた場合、来学期もやはり出張ってもらうかたちになるかもしれないという話が最後にあったのはちょっとあやしい。いや、絶対そうなるでしょという感じ。まあ、そうなったらそうなったで、じゃあスピーチコンテストの指導についてはもう一度考えさせてくださいと言えばいいのか。しかし契約書には毎週7节がリミットとして記載されているわけで、通常授業5节+スピーチ指導2节をするようにと指示されても、少なくとも契約上はすごすごと従うしかない。ま、こちらがよその大学に移ることを懸念して、そういうぎりぎりめいっぱいの時間割を提案してくることはないと思うけど。

 メシを食ったあとも腹の調子がおかしかった。ちくちくする痛みではない、下痢の前兆みたいな急にくるあの痛みがおとずれるのだが、便所に行ってもなにも出ないか、ふつうのクソが出るだけでしかない。で、その痛みも次第におさまっていったのだが、授業中に突然やばい下痢ラ豪雨に襲われることになったらイヤだなと思ったし、それに今学期はまだいちども授業を休んでいないしで、今日はもういいかな、休んじまおうかなとなった。一度そういう考えが浮かんだらもう終わり。そういうわけで二年生のグループチャットに体調不良なので休ませてくださいと通知を送った。
 しかしその後、結局、下痢ラ豪雨に見舞われるようなことはなかった。万事つつがなく平穏に過ぎた。いちおう病人のていでベッドにもぐりこんでいたのだが、だからといって眠りこんでしまったら生活リズムが狂うだけなので、Grim Tidesを小一時間ほどプレイ。メインストーリーのボスをやっつけた。毒+クリティカル+回避を中心としたアサシンスタイル。攻略サイトのたぐいは一切見ていない。
 ごろごろしていてもしかたないのでデスクに向かい、きのうづけの記事の続きを書いた。投稿し、ウェブ各所を巡回する。途中、三年生の(…)さんからスピーチコンテストの原稿修正+録音依頼が届いた。19日(金)に校内予選が実施されるらしい。金曜日ということは(…)一年生の日語会話(一)が潰れるかたちになるのか。できれば授業がふたつある火曜日に実施してほしかったというのが本音であるが、ほかでもないその火曜日である今日こうしておやすみにしたわけだから、まあいいか。(…)さんはかなり優秀な学生であるし、おそらく大学院進学を目指すだろうから、スピーチコンテストも学籍番号の持ち回り制にしたがって校内予選に出場するだけで、本戦に参加するつもりはおそらくないだろう。原稿をざっと斜め読みしてみたのだが、おもいのほかまずい文章だったので、え? 写作の授業があった一年前よりずいぶん悪くなってないか? とびっくりした。修正と録音は明日する。

 第五食堂で夕飯を打包。帰宅して食し、仮眠をとろうとするもとれず、デスクに向かって一年前の記事の読み返し。2022年5月9日づけの記事。この日は2012年4月前半の記事を読み返している。ドゥルーズの『記号と事件』の抜き書きが目立つ。

創造は、創造のネックとなるものがあるところでおこなわれるものなのです。一定の国語のなかでも、たとえばフランス語を使う場合でも、新しいシンタクスはかならず国語内の外国語となるのです。ものを創る人間が一連の不可能事によって喉もとをつかまれていないとしたら、その人は創造者ではありません。創造者とは、独自の不可能事をつくりだし、それと同時に可能性もつくりだす人のことです。発見するためには、マッケンローのように壁に頭をぶつけていなければならない。壁がすりへるほど頭をぶつけなければならないのは、一連の不可能事がなければ逃走線、あるいは創造という名の出口を、そして真理を成立させる〈偽なるものの力能〉を手に入れることができないからです。

かくかくしかじかの点について見解も考えももたないというのはとても気持ちがいい。私たちはコミュニケーションの断絶に悩んでいるのではなく、逆に、たいして言うべきこともないのに意見を述べるよう強制する力がたくさんあるから悩んでいるのです。旅をするとは、出かけた先で何かを言ったかと思うと、また何かを言うために戻ってくることにすぎない。行ったきり帰ってこないか、旅先に小屋でも建てて住むのであれば話は別ですけどね。だから、私はとても旅をする気になれない。生成変化を乱したくなければ、動きすぎないようにこころがけなければならないのです。トインビーの言葉に感銘を受けたことがあります。「ノマドとは、動かない人たちのことである。旅立つことを拒むからこそ、彼らはノマドになるのだ」というのがそれです。

さまざまな人の生涯で面白いのは、そこに含まれた空白の数々、つまり劇的なこともあるし、場合によっては劇的ですらないこともある、欠落部分だと思います。何年間にもわたるカタレプシーとか、ある種の夢遊病のようなものなら、たいていの人の生涯に含まれている。運動が成り立つ場所は、こうした空白のなかにあるのではないでしょうか。いかにして運動を成り立たせるか、いかにして壁を突き抜けるか、と問うことこそ、難局を切り抜ける道だからです。だとしたら動きすぎることも、しゃべりすぎることもないように気をつけるべきではないか。偽の運動を避け、記憶が消えた場所にじっとしているべきなのではないか。フィッツジェラルドがみごとな短編を残しています。十年間の空白をかかえて、ある人物が町を歩くという話です。これと正反対の問題がもちあがることもあります。空白ではなくて、定数外の流動的な追憶が過剰なまでに増殖し、それをどこに置き、どこに位置づけたらいいのかわからなくなる状態(そんなこともあったな。でも、あれはいつだったのだろう)。こうした追憶は、どうあつかったらいいのか見当もつかない。余分の追憶だからです。七歳のときだったのか、十四歳の、あるいは四十歳のときのことか。人間の生涯で面白いのは、いま説明したふたつの状態、つまり健忘症と記憶過剰なのです。

そもそも哲学は議論といっさい関係をもたないはずです。誰かが問題を提起するとき、その問題はどのようなものであり、どのようなかたちで提起されるのか。これを理解するだけで一苦労するわけですから、ただひとつ必要なのは提起された問題を充実させることなのです。問題の裏づけとなる条件に変化をもたせ、これを補足し、連結することがもとめられているのであって、議論している場合ではないのです。

だから、ふたりで書いたところで特に問題はないし、そもそも問題などおこりようがないのです。けれども、もし私たちがほかならぬ個人であり、各人が自分に固有の生活と固有の意見をもち、相手に協力して議論する気になったら、そのときは問題が発生する。フェリックスと私は、どちらかというと小川のようなものだったと申しあげたのは、個体化とは、かならずしも個人にかかわるものではないという意味だったのです。自分が個人であるのかどうか、私たちはまったく確信がもてない。空気の流れ、そよぐ風、一日の流れ、一日のうちのある時間、小川、場所、戦い、病などには非=人格的な個体性がある。つまり固有名があるのです。こうした固有名を、私たちは「此性(haecceitas)」と呼びます。〈此性〉同士はふたつの小川、ふたつの川のように組み合わせることができます。言語のなかでみずからを表現し、言語に差異を刻み込むのは〈此性〉ですが、個体ならではの生を〈此性〉に与えて、〈此性〉と〈此性〉のはざまを何かが流れるようにするのは言語のほうなのです。意見を述べるときは誰でも同じような話し方をするもので、「私」を名乗り、自分はひとりの個人だと思い込んでいるようですが、これは「太陽が起きあがる(=太陽が昇る)」という慣用表現に疑問を感じないのと同じことです。けれども私たちには、それで当然と思えないし、個人というのはけっして正しい概念ではないはずです。フェリックスや私、そして私たち以外にも多くの人びとが、自分のことをかならずしも個人とは思っていないのです。むしろ私たちには〈事件〉の個体性があると考えたほうが正しいのですが、これはなにも大げさなことを言っているのではありません。〈此性〉というのは控え目で、場合によっては顕微鏡をのぞかなければ見えないほど小さなものなのですから。私はこれまでどの著作でも〈事件〉の性質を追求してきましたが、それは〈事件〉が哲学の概念であり、「ある」という動詞と、属詞とを失効させることのできる概念は他にないからです。そう考えれば、ふたりで書くことは不思議でもなんでもない。何かが伝わり、何かが流れ、その一筋の流れだけが固有名をもつようになれば、それでじゅうぶんなのです。ひとりで書いているつもりでも、かならず誰か他人が関係しているものだし、しかもその他人は名前を特定できるとはかぎらない他人であるわけですから。

(…)ところが芸術家は、涸れた生に甘んじることも、個人の生活で満足することもできない。自分の内面、自分の記憶、自分の病を語っても書くことにはならないからです。書くという行為には、生そのものを変容させ、個人を超えた何かにつくりかえよう、生が閉じ込められていたら、そこから生を解き放ってやろうという明確な意図がある。芸術家や哲学者は健康状態がすぐれなかったり、からだが弱かったり、精神的に均衡がとれていなかったりすることが多いですよね。スピノザニーチェ、あるいはロレンスのように。けれども彼らを最後にうちのめすのは死ではなく、むしろ彼らがその存在に気づき、身をもって生き、考えぬいた生の過剰なのです。彼らにとっては大きすぎる生かもしれませんが、それでも彼らの力があればこそ「兆しは近い」ということにもなる。『ツァラトゥストラ』の最後や『エチカ』の第五部を見てください。書くということは、来るべきものとして想定され、まだ自分の言語をもたない人民のためにおこなわれる行為です。創造とは、いわゆる伝達ではなく、耐久力をもち、抵抗することです。

マイノリティとマジョリティは数の大小で区別されるものではありません。マイノリティのほうがマジョリティより数が多いこともあるからです。マジョリティを規定するのは、遵守せざるをえないひとつのモデルです。たとえば平均的ヨーロッパ人の成人男性で都市の住民……。これにたいして、マイノリティにはモデルがない。マイノリティは生成変化であり、プロセスであるわけですからね。マジョリティは誰のことでもないともいえるでしょう。誰であろうと、いずれかひとつの面で、マイノリティへの生成変化に巻き込まれているものだし、生成変化の道を歩む決意ができていさえすれば、誰もが未知の旅路をたどることができるのです。マイノリティがみずからモデルを構築するとしたら、それはマイノリティがマジョリティになりたいという願望をいだくからにほかなりません。たぶん、生き延びたり、救済を見出したりするためには、そうするしかないのでしょう(たとえば国家を構えたり、認知してもらったり、みずからの権限を押しつけたりする場合がそうです)。しかしマイノリティの力能は、あくまでもマイノリティ自身がなしえた創造から生まれるわけで、マイノリティによる創造が少しばかりモデルのなかに流れ込んだとしても、創造がモデルに依存することにはなりません。人民は常に創造的なマイノリティであり、たとえマジョリティを征服したとしても、変わることなく創造的なマイノリティでありつづけるのです。

 こうやってひさしぶりに読み返してみて思うのだが、『記号と事件』に収録されているドゥルーズの語りというのは、なかなかけっこうアジテイトする調子をおびている。
 それから10年前の記事、すなわち、2013年5月9日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。体調を崩しているときはFF10をはじめとするRPGのストーリー動画を視聴するというなぞの習慣がすでにこのときできあがっているらしい。

一連の動画をすべて視聴しおえるころには2時をまわっていた。身体が弱るといつも物語を欲してしまう気がする。ホスピスの患者が現実的な死を間近にひかえて宗教に走るのと似たようなものかもしれない。あるいは単純に、弱った身体では物語の安易さに対抗する複雑な形式を備えた作品を楽しむだけの体力やゆとりがないというだけのことなのかもしれないけれど。さらにはこう考えることもできるかもしれない。つまり、ただじっとして布団に横になっているということができないという時点で、たとえ見かけ上はどれだけ複雑なものであろうと結局じぶんは物語の慰めを欲しているのだと。無為の平板さと退屈の単純さに身を置くことこそが、物語にたいする革命的な位置取りの最たるものである。

 そのまま今日づけの記事も途中まで書いた。20時になったところで寮を出て、第五食堂近くのパン屋でクリームパンをふたつ買った。ついでに第五食堂の一階にある売店でコーラも買った。部屋にもどり、フリースタイルし、浴室でシャワーを浴びたのち、「実弾(仮)」第四稿執筆。21時半から0時半まで。シーン25を延々と加筆修正する。手応えあり。いい感じになりつつある。
 夜遅く、二年生の(…)さんから微信。スピーチコンテストではパワーポイントを使ってもいいのだろうかというので、だめだと返信。(…)さんといえば、クラスでもっともレベルの低い学生のひとりであるし、そもそも足を骨折したために今学期の授業はほぼすべて欠席している、にもかかわらず校内予選に出場する気でいるのだろうかとふしぎに思ったところで、あ、彼女も持ち回り制でやむなく出場せざるをえなくなっているのかもしれんなと察した。
 懸垂する。クリームパンをふたつとも食す。ジャンプ+の更新をチェックし、歯磨きし、またフリースタイルするが、今日はあたまも舌も全然まわらずずっと下手。寝床に移動し、だらけて就寝。