20230620

・たとえば、「男優1」のせりふのあとにまた「男優1」のせりふが続くといったようなことが何度も出てくるけれど、誤植ではない。会話時において、一方の人物が一区切りつくところまで話したあと、その次に話すのが必ず他方の人物かと言えば、必ずしもそうではなく、話しつづけていたほうの人物がまた話し出すことだってある。そういったニュアンスを残すためにこのような書き方をしている。長大なモノローグが続く場合も、話の内容や話す際の意識が完全に断絶しているときなどは、それをすべてひっくるめて一つのせりふとはせず、いくつかのせりふに分割している。
岡田利規『三月の5日間』より「あとがき」)



 正午起床。第五食堂で炒面を打包。狂戦士のメシを食しながら(…)事務室所属の(…)先生に微信。今日の午後事務室にいるか、と。午後は用事がある、しかし16時以降事務室にもどるという返信がほどなくしてあったので、せっかくであるしバスではなくケッタで(…)に行ってみようかと思う。それでマジでクソいまさらであるのだが、百度地图をスマホにインストールした。中国在住でありながらこれまで地図アプリ一切なしで過ごしてきたじぶんのような人間はなかなかいないと思う。肝が据わっているというわけではない。ただ単に生活圏から滅多に出ないだけの話だ。こちらはいまだに最寄駅までの道すら知らない。(…)先生からはのちほど、やはり今日は事務室にもどることができないという連絡があったので、(…)には明日向かうことにした。しかし明日は雨だ。バスを利用することになるかもしれない。
 (…)からも微信が届いた。Dragon Boat Festivalなので大学から粽子のプレゼントがある、(…)に渡してあるので彼のところにいって回収するようにとのこと。そういえば、毎年この時期だった。
 食後のコーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きを書く。ウェブ各所を巡回し、2022年6月20日づけの記事を読み返す。「実弾(仮)」の資料収集のため、過去の日記をまとめて読み返している時期。タイ・カンボジア旅行の分の読み返しを終えて、帰国後の日々にいたっている。いくつかおもしろい箇所があったので引いておく。

12時前起床。旅先に持っていった衣類とリュックをまとめて洗濯。洗濯物を干そうとして、あ、でもスコールが来るかもしれないから中に入れておこうかな、とかすかな懸念がいっしゅん脳裏をよぎって、でもここは日本だからそんな必要はない、ということもないではないのか、梅雨明けはいつだったか、ゲリラ豪雨が発生するのってどの時期だったか、そういう諸々をものすごく圧縮された一瞬の中でさながら走馬灯のように考え、たった一ヶ月かそこら海外にいただけでほんのわずかなものとはいえこんなふうに認識がバグったりするのだからやっぱり人間は豊かだ、われわれはわれわれをたえまなく書き換えることができるのだから、とパーイのカフェで(…)相手に語ったことを思い出した。洗濯機をまわしたり共同便所で歯をみがいたり顔を洗ったり喫茶店でもらった食パンをトースターで焼いたり起き抜けのストレッチをしたりパソコンの電源を入れたり、決まりきった朝の段取りをなにひとつつまずくことなくこなしていくじぶんの両手両足があって、そしてそれらひとつひとつの手順を追いながらそうそうそうだったと後追いする認識の不思議がりがたが少し面白い。薄くなってしまった線をなぞりなおしている鉛筆のじぶん。
(2012年8月10日づけの日記)

別れる二日前の夜、(…)と本気で哲学やら芸術やらのもろもろを含む大議論をしたのだけれど(そしてそれはほとんど大喧嘩といっていいような様相を見せたのだけれど)、そのとき、それじゃああなたは人間はcollected informationにすぎないって言うわけね、と軽蔑的に放たれたそのcollected information=情報の集合体という概念が今日おのずと記述に登場した。旅をしたことで書きかけの小説の内容が大きく変わるんじゃないかと、(…)ラだったかそれともバンコクでいち日本人バックパッカーとして突撃インタビューされることになった関東学院大学の学生さんだったかそれとも翌日からタイの北部にある小さな村でゲストハウスを経営することになっていると言っていた一緒にゴーゴーボーイズのお店にもいった日本人女性であったか、どこかの誰かにそんなことを言われたような気もするのだけれどそれはいくらなんでもたかだか一ヶ月の海外旅行というものを大きく見すぎているというもので、旅で人生が変わったと語るひとたちはきっと旅とは人生を変えるものであると事前からそう考えてそう期待していたから事後的にそう語るわけだろうし、逆もまた然りかどうかはわからないけれどじぶんはその手の紋切り型の物語にたいしてひとかたならぬ警戒心があって、それに変化というものはそれ以後それ以前みたいな明確な境界線のもとにくっきりと見分けられるものではないだろうしそう見えるのだとすればそれはある種の短絡化というか要約にすぎないのであって、たとえばこの旅以降じぶんはこうこうこんなふうに考えるようになりましたとたやすく総括してしまうのは噛むごとに味の変わる終わりのないガムみたいなものとしてある体験=記憶をむざむざと吐き捨てるようなものでそれはいくらなんでももったいないんでないか、体験=記憶とはあるいは近くからあるいは遠くから生涯を通してその影響力を及ぼしつづけるものであるのだろうし、それがもたらした意味の総括は常に暫定的というかたちをとらざるをえないのだろうから、それならいっそのこと総括などしないほうがいいのではないか、だからじぶんはまちがっても旅を通してどうのこうのみたいなクソみたいな感想文はぜったいに書く気にはなれないし、旅について書くことがあるとすればそれはここ数日の記事のような断片的な記憶の配置というかたちをとるだろうし、それはむしろ旅についてではなく旅の記憶、事実、思い出、エピソード、偶景ということになるのだけれど、そうした断片を惹起し召喚するものは(日記という体裁をとりながらも折に触れては過去の出来事や記憶へと記述が脱線してきたこれまでのように)記述の運動にほかならないし、すべてを記憶という単位に一元化してみせるそうしたラディカルな文脈においては一冊の書物を読むことと異国にひとりで出かけることは質的に大差なく、本をたくさん読んでいるというとそれだけでもう頭でっかち認定されたり本の外に出て社会を知らなければいけないとかもっとひとに会って話すべきだとか紋切り型のフレーズをなぞっただけで何か語った気になっている退屈な連中にたいする「具体的で」「経験に即した」反論の要がひとつ出来たという意味では今回の旅(をしたという事実)は使えるものでもあると思うのだけれど、そういうあれこれ含めた上でしかし、今日、collected informationという語句が執筆中のじぶんの指先から弾き出されたのは少し感動的であった。然り。旅先ではたくさんのひとと会ったけれど、日本人だろうと外国人だろうと、いまどき旅行会社のキャッチコピーにも使われないだろうみたいな紋切り型の言い回しを口にして良い気になっている人間というのはやっぱり多かれ少なかれいて、彼らは総じて悦に入っているため日本国内で出くわす同種の人間よりもよほどタチが悪いという印象を持ったのだけれど、(…)と会ったその関係で行く先々で西洋人とばかり知り合ったその利点のひとつは、英語で会話をしなければならないという制限が交わされる会話の退屈さ、交換される言説の稚拙さを多少マシなものにしてくれたというところかもしれない。
(2012年8月15日づけの日記)

光に誘われて飛んできた甲虫が網戸にぶつかるたびに猫が長い外出から戻ってきたのだと錯覚する。この部屋は二階なのに。
(2012年8月16日づけの日記)

シェムリアップベジタリアンカフェで出会ったドイツ人の女性は、原発事故があったのに誰も国外に脱出しようとしない日本人は狂っている、と言った。彼女の英語はジャングルトレッキングで一緒だったイスラエル人の(…)やイギリス人の(…)だか(…)だかと同じくらい聞き取りにくかった。対話は難航した。トイレにたった(…)に早くもどってきて欲しかったが、のちに知ったところによると彼女は近くにあった無人の小屋でひとり、じぶんたちを放ったらかしにして瞑想にはげんでいた。大手メディアは真実を報道しない、だからまずインターネットを利用する層としない層との間に認識の差みたいなものがある、ただそれといってネットから小出しにされる情報がすべて正しいのかどうかといえばそんなわけはない、情報は情報、基本単位でいえば既存メディアとネットとの間にたいした差異はない、情報の真偽を判定するのは至難のわざだ、もっと言うならばそもそも真実の情報というものがまずあってそれを隠そうとする勢力と明るみに出そうとする勢力の二項対立という図式が今回のケースに当て嵌まるのかどうかさえじぶんにはわからない、原発の状況にせよ放射能の影響力にせよじっさいのところは誰ひとりわかっていないんではないか、そういう状況が疎開という選択肢にひとびとが殺到しない理由のひとつとしてあるんでないか、もちろん常に最悪の自体を想定して行動すべきだという指針は理解できる、だがたとえ放射能がどれほどおそろしいものであったとしても土地を離れまいとするある種の覚悟をもっているひとたちがいることも事実だ、そしてそんな覚悟を決めているひとたちにむけてじぶんやあなたのようなほとんど無傷の人間が土地を離れないなんて狂っているとためらないなく指摘することができるだろうか、そんなふうなことを言おうとしたつもりであるし言ったつもりでもあるのだが、ドイツ人女性だけでなくじぶん自身、この論理にはどうも納得のいかないところがあった。友人が何人か東京に住んでいる、というと、なぜ避難するように説得しないの、と詰め寄られた。めんどうくさくなったので、それほど仲良くないからだ、みたいな答え方をしたが、じっさいは違う。本音をいうならばたぶん、「実際のところどうなのか?」というこの確信のなさを、「危険だから避難せよ」という断言調の言説を担う主体となって自ら引き受けることにたいするおそれや億劫さみたいなものがあるのだと、早い話が、仮にここでじぶんの友人知人にそっちの家や職や関係なんてもろもろ引き払って避難しろよと説得して、そしてじっさいに事がそんなふうに運んだとして、それで十年二十年と経過したのち今回の事故の影響がほとんどなかったことが仮に判明した場合、すべてが杞憂だったなという笑い話ではたしてオチがつくのだろうか、彼らの人生の軌道を変更してしまったことにたいする自責や負い目、あるいは周囲からの非難というものがまとわりつくことになるのではないかと、そういうおそれがあって、でもこれって結局、不確かなのはその度合いだけでその存在と日々の蓄積は確実であるところの危険にむしばまれていく少なくない友人知人の安否よりも、もっとずっと不確かな、あるかないかもわからない未然形の責任をじぶんは重視しおそれているということになるんでないか。こういう自問をつきつめていくと胸がえぐられるようできつい。自己欺瞞のかさぶたをはがすのは痛い。地震の話はパーイにいたアクセサリー売りの女性の口からも出た。原発が爆発したけどあなたの街はだいじょうぶなの、と言われたので、京都はたぶんだいじょうぶだ、と応じたそのたぶんって一体なんだと口にした途端にほとんど憤怒のようなものがよぎった。カオサン周辺で過ごした最後の三日間、ゴーゴーボーイズのお店に行くまえにまだバンコクに来て日の浅い日本人旅行者ふたりに、シェムリアップで出会ったドイツ人女性からこれこれこういうようなことを言われたと告げると、あいつらわかんないんすよ、現場の難しさってもんが、すごくナイーヴな話題じゃないすかこんなの、うかつにどうのこうの言えないっていうか、というような反応があって、あるいはひょっとするとそれを言ったのはじぶんだったかもしれないが、いずれにせよこの言い分は言い分でやっぱりだめだ、ぜんぜんだめだ、何にも答えになっていない、ただの思考放棄だ、面倒の後回しだ、責任のたらいまわしだ、行き着く果てはじぶんのだいきらいな自己責任論ではないか。じぶんがもしあのとき東京に住んでいたとしたら地震後はたぶんよそに引っ越していたとは思う、どうせフリーターの身の上であるし職もなければ家族もいないのだから、体だけは軽いのだから、と、そう言っただけで、どこか気まずい同調しかねるものの無言の抗議がひそかに入り混じった沈黙が漂い出して、これなんだ、この空気こそがナイーヴな当事者の問題としてすべてに蓋をかぶせてしまう原因なんだと思った。もう一年半近く経つ。
(2012年8月19日づけの日記)

 また、2022年6月20日づけの記事には、「女子寮の近くではまた(…)さんとすれちがった。しかもまた男子学生と一緒だ。」との記述が残されているのだが、一年後の今日、まさについさっきのことであるが、第五食堂に向かう途中、男子学生の運転するスクーターのケツに乗った彼女からすれちがいざまに「先生!」と呼びかけられたのだった。
 2013年6月20日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。そのまま今日づけの記事もここまで書いた。作業中はSigur Rósの新譜『ÁTTA』を流す。

 「究極中国語」をぶつくさやる。それからケッタにのって(…)楼の快递へ。道中、一年生の(…)さんの姿を見かけた。歩きスマホをしていて、こちらには気づいていなかった模様。快递ではコーヒー豆を回収。これでたぶんぎりぎり出国までの分はもつはず。第五食堂で打包して帰宅。
 食す。仮眠はとらず、ひとときだらだら過ごす。19時から『本気で学ぶ中国語』。小一時間ほどで中断してシャワーを浴びる。21時から語学を再開し、23時半までひたすらぶつくさやる。
 懸垂。プロテインを飲み、トースト二枚を食し、歯磨きをすませたのち、ベッドに移動して『囚われた天使たちの丘』(グエン・ゴック・トゥアン/加藤栄・訳)の続き。もう少しで読了する。