20230619

男優3(…)ずっと二人でしかいない場合、名前なくても話す相手ひとりしかいないから名前要らないんだよねって、ミノべくんがこれは言ってたことなんですけど、
岡田利規「三月の5日間」)



 朝方にいっぺん目が覚めた。二度寝にてこずった。次に目が覚めると正午をまわっていたはず。メシは第五食堂の打包。食後、きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年6月19日づけの記事を読み返す。2013年6月19日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。

 時刻は15時半。日記を投稿した際に日付を見て、今日が母の誕生日であることに気づいたので、(…)の検査結果をたずねるのも兼ねて、LINEでメッセージを送る。検査結果はまだ出ていない。母は69歳になるという。まだ70代ではなかった。じきに電話がかかってくる。(…)は相当弱ってきているという。やはり後ろ足がダメらしい。前足のみの前輪駆動に近い状態らしく、タイミングを見て散歩補助のための道具を導入しようと獣医と相談しているとのこと。朝の散歩はほぼ実家の前の道路周辺をとぼとぼ歩くのみ。夕方の散歩はいちおう車にのってあちこち連れていっているとのことだが、やはりそれほど歩かない。両親が使用している犬関連のアプリによれば、人間の年齢に換算するとすでに96歳になるらしい((…)アパートの大家さんやん! と思わず口にした)。肛門周辺の神経がへたってきているらしく、吠えたり興奮したりすると、うんこがぽろぽろ転がり出てくることもときおりある。下痢ではないので大惨事にはならない。だからまだおむつをはかせるようなことはしていない。今年は地元の花火大会がある。コロナで二年か三年連続で中止になっていた。(…)は花火の音にたいそうビビる。花火大会の夜はいつもガタガタ震えながらよだれを垂らす。そんな(…)を不憫に思った弟が、来年はまだしも今年も中止にしてくれたらいいのにと口にしたという。来年はどうしてかまわないのかと母がたずねると、いやさすがに来年まで生きとることはないやろと弟は言った。あの子優しいんかどうかわからんと母がいうので、あいつマジでクソやなとクソ笑った。犬のことを「犬畜生」呼ばわりするのが常態だった(…)の祖母とおなじだ。
 成績表の記入にとりかかる。以前下書きしたものをあらためてチェックし、結果を微調整しながら、ボールペンで再記入。
 17時になったところで中断。第五食堂でメシを打包。寮にもどると、門前で(…)と(…)が立ち話している。ひさしぶりとあいさつ。以前微信で送ったitineraryについて、flight timeが変更したという話だったがあれは……と切り出すので、fareもflight numberも変わっていない、ただdeparture timeが変わっただけだと補足する。work permitは必要かという。はてなという顔をしていると、ほかの国の外教は入国? 帰国? するにあたってそうした書類が必要らしいからというので、そういう話はきいたことがない、必要ないと思うと応じる。コロナの話にもなる。二度目の感染はさほどつらくなかったという。こちらもとうとう感染した、いまだに嗅覚と味覚がもどらないとぼやくと、一ヶ月かかるよと満面の笑顔でいう。そう、この社会では後遺症はほぼ存在しないものとして扱われている。ゼロコロナ政策を堅持しているあいだは、ネットでもテレビでも、諸外国は感染者爆発で医療崩壊! 後遺症に悩まされるもの多数で社会は混乱状態! みたいなおどろおどろしいテンションであれこれニュースを打っていたらしいのだが(実際、人民らの大半もそれをまるっと信じこんでいたのだが)、そうした記憶がまるですっぽり抜けてしまっているかのように、一転して方針転換したお上による「ただの風邪」論——というのはつまり、後遺症に関する報道が壁の外側にくらべて圧倒的に少ない現状をいうのだが——をやはりまるっと信じこんでいるようにみえる。その記憶喪失っぷりがときどき怖くなる。いや、実際はそう簡単な話ではないのかもしれない。疑ったり反対したりしても意味がないという、徹底的な再帰的無能感(マーク・フィッシャー)にとりつかれている、というよりもむしろこの社会で生まれ落ちたときからデフォルトでそうしたものが内面化されている、非合理的なそのふるまいに付き合わされて右往左往せざるをえないお上の存在は、たとえば日本人にとっての地震や台風に近いものであるのかもしれない。(…)個人についていえば、ゼロコロナ政策末期、こちらの前でいくらか婉曲的に当時の政策を批判してみせたこともあったし、英語の情報にもアクセスできる人物であるから当時から国内のコロナに関する報道に対する疑念があった、そしてその疑念の反動として、いまは「ただの風邪」論者みたいになっているということも考えられる。だからこれも結局度合いの問題なのだ。中国だけではない、日本にも通じる、ある意味こちらが現状もっとも懸念する社会的病理。物事を度合いや程度で捉えることができない、可能性や確率で捉えることができない、中途半端さや例外の存在やグレーゾーンを許せず、断言と確言の語調にこそ論理以上の説得性を見出し、白と黒の二色で世界を割り切ろうとする。
 部屋にもどる。狂戦士のメシを食う。(…)先生から微信が届く。来学期の(…)一年生の授業を担当したいか、と。スピーチ練習と院試組のサポートがあると断る。二年生の会話(三)はどうか? 継続する予定なのか? というので、これも同様の理由でしっかり断る。売り手市場なのだ。安請け合いしてたまるか。それでもなにか言われるようであれば、スピーチ練習の際に(…)先生や(…)先生が学生の作文添削をこちらにまかせずじぶんの手でしてくれるのであればかまわないと受ければいい。しっかり言ったほうがいいですよ、という(…)先生の言葉がよみがえる。中国社会の基本。意見表明をして、力いっぱい通す。
 仮眠。シャワーを浴び、ストレッチをし、「実弾(仮)」第四稿。21時過ぎから0時過ぎまで。プラス9枚で計602/1016枚。シーン31片付く。手応えあり。加筆すればするほどよくなっていく。もういっそのことあと三年くらいかけてもええんちゃうかという気分にもなる。しかしこいつはマジで傑作かもしれない。代表作になるかも。
 腹筋を酷使し、プロテインを飲み、トースト二枚食す。歯磨きをすませてからふたたびデスクに向かい、成績表の記入続き。終えると3時。作業中はひさしぶりに『脈光』(大石晴子)を頭から尻まで何度もききかえしていたが、やっぱりいいアルバムだな、次のリリースが楽しみだ。「季節を渡れ」は名曲。叙情がたぎっているのに、そこに流れすぎることなくクールでもある、そのあんばいが本当にしっくりくる。
 寝床に移動後は『囚われた天使たちの丘』(グエン・ゴック・トゥアン/加藤栄・訳)の続き。