20230621

(…)本書でいう「階層文化」とは、「階級・ジェンダー・地域などの作用が混じり合うなかで具体的に人々の生活のなかに生起する価値観や行動様式」として定義できるだろう。この定義は、橋本健二による階級-階層概念の整理を参考にしている(橋本健二格差社会論」から「階級-社会階層研究」へ、日本社会学会編「社会学評論」第五十九巻第一号、日本社会学会、二〇〇八年)。橋本は、日本の「階級」と「階層」をめぐる議論をたどり、「両者を生産的に共存させる方法」(同論文一〇六ページ)を提案した。それを要約すれば、「階級」を「資本家階級・労働者階級・旧中間階級・新中間階級」の四階級図式で捉え、「階層」を諸制度(産業構造、労働市場、家族、国家と政党システムなど)に媒介され、現実に現れる諸集団として捉えようとするものである。
(知念渉『〈ヤンチャな子ら〉のエスノグラフィー ヤンキーの生活世界を描き出す』)



 11時半起床。(…)先生が日本語学科教員のグループチャット上に来学期の(…)の時間割を投稿していた。こちらが昨日断った一年生と二年生の会話の授業は(…)なる人物が担当する模様。見覚えのない名前。おそらく来学期からやってくるという博士号持ちの女性教諭だろう。しかし「(…)」という字面、日本人の感覚からすると、完全に男性の名前だ。
 第五食堂の一階でいつものように炒面を打包するつもりだったのだが、店はなぜか閉まっていた。もしかしたら端午节だからかもしれない。ほかの店は開いていたが、あまりぱっとしなかったので二階へ移動し、いつもは第四食堂で注文する西红柿炒鸡蛋面をここにある麺の店で打包してみた。
 帰宅。食す。味は第四食堂のほうが上という印象。狂戦士状態なので判断に狂いが生じている可能性もおおいにあるが。食後のコーヒーを飲み、きのうづけの記事の続きを書く。14時をいくらまわったところで寮をあとにする。(…)から粽子の件で声がかかるが、回収はのちほどとお願いする。
 南門付近までケッタで移動。(…)までケッタで行こうかどうか迷ったのだが、予報によると、やはり15時ごろから降りだすようであったし、最近スコールのような土砂降りがたびたびあるので、ここはやっぱりバスのほうがよいだろうと判断。バス停到着後ほどなくして目的のバスがやってくる。車内はエアコンがキンキンに効いていて涼しい。年齢的に父親ではない、しかし祖父にしてはまだけっこう若くみえる男性が、赤ちゃんを抱っこして途中で乗車してくる。赤ちゃんはときおりけっこう大きな声でなにかを口にする(泣くわけではない)。さらに前の席に座っている老婆の髪の毛を引っ張ったりする。老婆は怒らない。後ろをふりむき、小朋友どうのこうのとあやすような声で語りかける。ほかの乗客らもみんなそのようすをニコニコしてながめている。良い空気。高齢化著しい片田舎なので、赤ちゃんや小さな子どもに対する視線が基本的に優しい。移動中は「究極中国語」をぶつくさやる。ノルマをこなしたあとは『囚われた天使たちの丘』(グエン・ゴック・トゥアン/加藤栄・訳)の続き。
 終点でおりる。キャンパスに入る。今度こそ見納めだ。一年前に見納めをすませたつもりだったが、新規入学の途絶えていた日本語学科の新入生が二年ぶりにやってきたため、今学期はこうしてふたたび(…)まで通うことになったわけだが、来学期は担当する授業がないし、来々学期、すなわち一年後は(…)として独立するし、それにともなって校舎も移動するはず。だからやっぱり今度こそ見納めのはずなのだ。
 図書館へ。入り口で一年生の学生複数人とばったり出くわす。えらい偶然だなと思いつつ軽くあいさつし、そのまま事務室へ。事務室のなかにもやっぱり一年生がいる。なにをしているの? とたずねると、用事ですと(…)くん。(…)先生の部屋に入る。教学手冊ほか必要書類を手渡す。問題ないかとたずねると、問題ないという返事。(…)先生、事務的なやりとりのすんだところで、不意に言語を片言の英語に切り替えて、あなたはわたしのために中国語を話してくれているのかみたいなことをいう。勉強をはじめたばかりなのだと中国語で応じると、好厉害! という。もう少しやりとりを交わしたそうにもみえたが、まあここに来ることももうないわけであるしという感じで、さっさとその場を去る。図書館の入り口にはやっぱり一年生たちがいる。全部で七人くらいいたかもしれない。なにをしているのともう一度たずねると、日本語でどう説明すればいいかわからないらしく、怎么说怎么说と言いながらスマホで検索しようとするので、いいよ、いいよ、とジェスチャーで伝える。彼女らの大半ともやはり今後会うことはないだろう。
 売店に立ち寄ってミネラルウォーターを買う。例のお姉さんの母君が店の入り口にある椅子に腰かけている。こちらの姿に気づいてにやりとするので、你好と声をかける。ミネラルウォーターを持ってレジに行く。ほかの客の相手をしていたお姉さんがわざわざレジの内側にもどってくる。支払いはどうせQRコードですませるのだから、わざわざレジにもどってくる必要などないのに、こちらが支払いがすませるそのタイミングで「ありがとう」と日本語で口にするためにやってくるのだ。しかし彼女とももう会うことはないだろう。(…)が(…)として独立してキャンパスも越すとなると、その後この店はどうなるのだろう? メインの客である学生がいなくなったら商売もやっていけなくなるのではないか?
 バス停に行く。ベンチに女子学生がひとり先着している。いま鹿児島にいる(…)さんに雰囲気が似ている。横顔は卒業生の(…)さんにも似ているかもしれない(というかそもそも(…)さんと(…)さんが似ているのだ)。対岸の道路沿いにはバスが三台ほど一列になって終点で停まっているのだが、復路の発車時間はまだまだ先であるのか、先頭の一台はいつになっても動きださない。こんなふうになるんだったら事務室で(…)先生ともう少しやりとりしてもよかったかもしれない。
 書見を続ける。たぶん15分以上は待ったと思うのだが、ようやく対岸で休憩中のバスが一台動き出し、道路をUターンしてこっち側にやってくる。乗車する。いつものように最後尾の端に座る。(…)さんに似ている女子学生とは別に、ここでいっしょに乗車したのだったか、あるいはその先のバス停で乗りこんできたのであったか、詳細はちょっと忘れてしまったが、もうひとり若い女の子が乗車し、通路をはさんだ斜め右前の席に座ったのだが、その子がめちゃくちゃフォトジェニックだった。髪の毛は肩より少し長く、ところどころ紫っぽいピンクのメッシュが入っている。色違いのタンクトップを重ねたうえにデニムのサロペットを着ていて、うちの学生だとすれば身なりから察するにおそらく芸術関係の子だと思う。背はそれほど高くないのだが、顔はとても小さい。そして目元が、あれはなんといえばいいのだろう、いわゆるすずしい目元というのはああいうのをいうのだろうか、いやそうじゃないな、卒業生の(…)さんに似ているのだが、(…)さんほど「女子!」という感じではなくて、ちょっとクールなたたずまいがある、でもその造形自体はきれいよりもかわいいにかなり寄っている、そういうきわどいバランスのもとになりたっている目元で、こちらはたぶん数年に一度、「フォトジェニック」という言葉を使って形容したくなる女の子を街中で見かけるしそのたびに日記にも書いていると思うのだが、なんといえばいいのだろう、見た瞬間にじぶんの目が映画のカメラになるのを感じるというか、ただきれいであるとかただかわいいとかそういうんじゃないんだよな、たとえばさっき(…)さんの名前を出したけれども(…)さんはクラスメイトのほぼ全員が認めるかわいい女子であり、本人にもその自覚があるのだろう、しょっちゅう自撮りをあげているし趣味はコスプレであるし、あと私服はjkファッションかロリータファッションで、クラスメイトたちからも明星だ明星だと騒がれていたのもおぼえているのだが、でも彼女の姿を見てもこちらはフォトジェニックだと感じたことは一度もない。バスで見かけた女子と(…)さんをならべてどっちが素敵ですかとたずねたら、たぶんほとんどのひとが後者をあげると思うのだけれども、そしてその判断もなんとなくわかるのだけど、でもなぜか、なんでなのかわからないが、こちらの目をカメラにしてしまうのは、あたまに焼きついて離れなくなるのは、前者のほうなのだ。フォトジェニックな彼女はわりとすぐバスをおりた。じろじろ見るのは失礼だし気持ち悪いだろうから、乗車中、実際こちらはほとんど彼女のほうを見ていなかった、二度か三度その横顔にちらりと目をやっただけなのだが、ほんとうに画になる、あれはなんなんだろう? どうしてそういうめざましい印象を一部の女の子に対してのみおぼえるのだろう? それで残りの帰路ずっと、この感じをなんとか言語化できないだろうか、ここになんらかの理屈を見出すことはできないだろうかとあたまをひねっていたのだが、ひとつ思ったのは、これはもしかしたら性欲の問題なのかもしれない。女性に対してきれいだなとかかわいいなと思うその感情のなかには、割合や度合いはその都度いろいろに異なるだろうし、意識化の度合いもやっぱり状況次第で大きく変わってくるのだろうが、しかしそこに性欲が含まれていることは間違いないと思う、少なくともそれがゼロであるということはまずない。しかしこちらがフォトジェニックだと便宜的に名指して判断している対象というのは、性欲をほとんど喚起しない、というか性欲を置いてけぼりにしてしまうそういうインパクトがあるのではないか。だからそういう意味でいえば、美しい景色やすばらしい天気を見るのとおなじような目で彼女らを見ているということなのかもしれない、本来であれば性的なものを不可避的にともなうことになる目線がそうでなくなってしまうそういう対象をこそ、いやそうではなくそういう知覚や認知や認識のバグにも似た現象にこそ、こちらはフォトジェニックという言葉を無理やりあてはめているということか?
 是か非かはともかく、ひるがえって思ったのが、では景色や天気を感受し評価しているときにわれわれの性欲はまったくそこに関与していないのだろうかということで、これについては、たぶんいくらかは関与しているのではないかと思う。たとえばこちらがたびたび日記に書いていることだが、夏の先ぶれには一種性的な期待感のようなものがともなう、しかしこの期待感の大部分はおそらく文化的なものや個人史的なものであり、たとえばそれは解放的な季節というイメージであったり、プールや海での水遊びから連想される水着姿であったり日頃の薄着であったり、あるいは「ひと夏の恋」などに代表される紋切り型のフレーズに惹起されるものであったり個人的な経験(記憶)に由来するものだったりするのだろうが、そういうものではない、もっと抽象度の高い性的なものが、夏という季節そのものから、その光、その空気、その熱、その季節の推移からもたらされるということもあるのではないか? だとすれば、フォトジェニックな対象というのは、どこまでもわかりやすく具体的で意識しやすい、いわばわれわれにとってごくごく身近な性欲ではない、もっと抽象的ではるかに意識にのぼりにくい、それを性欲の一種として自覚することが困難な別の性欲をともなうかたちで視認されたもの、というかそういう別の性欲を喚起する対象のことをいうのかもしれない。

 帰宅。ほどなくしてスコールのような夕立が降りだす。バスで移動して正解だった。きのうづけの記事を投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年6月21日づけの記事の読み返し。以下の漱石による描写、すばらしすぎる。

本堂を右手に左へ廻ると墓場である。墓場の入口には化銀杏(ばけいちょう)がある。ただし化の字は余のつけたのではない。聞くところによるとこの界隈で寂光院のばけ銀杏と云えば誰も知らぬ者はないそうだ。しかし何が化けたって、こんなに高くはなりそうもない。三抱(みかかえ)もあろうと云う大木だ。例年なら今頃はとくに葉を振(ふる)って、から坊主になって、野分(のわき)のなかに唸っているのだが、今年は全く破格な時候なので、高い枝がことごとく美しい葉をつけている。下から仰ぐと目に余る黄金(こがね)の雲が、穏かな日光を浴びて、ところどころ鼈甲のように輝くからまぼしいくらい見事である。その雲の塊りが風もないのにはらはらと落ちてくる。無論薄い葉の事だから落ちても音はしない、落ちる間もまたすこぶる長い。枝を離れて地に着くまでの間にあるいは日に向いあるいは日に背いて色々な光を放つ。色々に変りはするものの急ぐ景色もなく、至って豊かに、至ってしとやかに降って来る。だから見ていると落つるのではない。空中を揺曳して遊んでいるように思われる。閑静である。――すべてのものの動かぬのが一番閑静だと思うのは間違っている。動かない大面積の中に一点が動くから一点以外の静さが理解できる。しかもその一点が動くと云う感じを過重(かちょう)ならしめぬくらい、否その一点の動く事それ自らが定寂(じょうじゃく)の姿を帯びて、しかも他の部分の静粛なありさまを反思(はんし)せしむるに足るほどに靡(なび)いたなら――その時が一番閑寂の感を与える者だ。銀杏の葉の一陣の風なきに散る風情は正にこれである。限りもない葉が朝(あした)、夕(ゆうべ)を厭わず降ってくるのだから、木の下は、黒い地の見えぬほど扇形の小さい葉で敷きつめられている。さすがの寺僧(じそう)もここまでは手が届かぬと見えて、当座は掃除の煩(はん)を避けたものか、または堆(うずた)かき落葉を興ある者と眺めて、打ち棄てて置くのか。とにかく美しい。
夏目漱石「趣味の遺伝」)

 2013年6月21日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。それから第五食堂へ。玄関のとびらをひらいた瞬間に空気がひやっとして、あ、スコールで一気に気温が下がったんだなと思う。(…)から粽子を受けとる。こちらの部屋がある棟の一階にある空き部屋の冷蔵庫のなかに保存されていたのだが、赤い袋のなかに全部で十個近く入っていて、え? これひとり分にしてちょっと多くない? と思ったのだが、もしかしたらほかの外教がいらないと言った分が全部こちらにまわってきたのかもしれない、(…)にしても(…)にしても西洋人はわりとsticky riceを嫌がるというイメージがある。
 雨のまだそこそこ降り続いているなかを歩く。バンコクのスコールを思い出した。カオサン周辺をぶらぶらしている最中、空が急に曇りだした。あ、もしかしたら夕立が来るかもしれないなとのんびり考えているこちらを尻目に、まだなにも降りだしていないにもかかわらず周囲のローカルたちがバタバタと屋台をたたみはじめ、え? そんなに急ぐほどなの? と思っているうちに台風のときのような生暖かい風が吹き出して次の瞬間には最初からフルスロットルの土砂降り、マジか、南国のスコールってこんな急激なもんなのか、とびっくりしつつ、トラン・アン・ユンの映画を思い出したりしたのだった。
 打包して帰宅。食し、仮眠とり、シャワーを浴びる。ストレッチをしたのち、ふと粽子の消費期限が気になって調べてみたのだが、冷蔵庫で保存したとしても二三日が限度、足がはやいのではやめに食ったほうがいいようす。やばいかどうかはにおいを嗅いで判断しろとあるのだが、こちとら嗅覚死んどんねん! バクチやんけ!
 20時半から23時半まで「実弾(仮)」第四稿執筆。シーン32の序盤にかなり手こずる。ジャスコ(イオン)館内の描写が物足りなかったのでけっこう加筆したのだが、想定していたよりも苦心した。しかしそこを抜けたらあとはおもいのほかトントン拍子に進んだ。
 執筆中、デスクの左となりにあるクローゼットの壁面をけっこうでかいサイズのゴキブリがカサカサ移動するのを見た。めずらしい。この部屋でゴキブリを見た記憶はほぼない。すぐにクローゼットの裏面に入りこんでしまったのでぶち殺すことはできなかったが、まあいいや、無駄なカルマを背負う必要もあるまい。
 腹筋を酷使し、トースト二枚を食し、ジャンプ+の更新をチェック。歯磨きをすませ、今日づけの記事を途中まで書き、2時になったところで作業を中断してベッドに移動。Bliss and Other Stories(Katherine Mansfield)の続きを読み進めていたのだが(傑作“Prelude”を読み終えた)、たしか2時半ごろだったと思う、最近はずっと静かだった爆弾魔が突然叫び声をあげると同時にドタドタドタと床を走りまわる音が聞こえてきて、なんやなんやとびっくりしたのだが、もしかしてあのゴキブリの仕業なのでは? メシを求めてはるばる上階まで移動した結果、その気配に気づいた爆弾魔がびびって叫び散らしているのでは? 爆笑した。ざまあみろバカが! 来世はゴキブリに生まれかわってアシダカグモにビビる一生をせいぜい楽しめよ! じゃあな!