20231219

 スティグレールは、マクドナルド的主体の問題を「象徴の貧困」の概念で記述する。
 スティグレールによれば、「象徴の貧困」は、「シンボル(象徴)」の生産に参加できなくなったことに由来する「個体化の衰退」を意味する。スティグレールによれば、「シンボル」とは、知的な生の成果(概念、思想、定理、知識)と感覚的な生の成果(芸術、熟練、風俗)の双方を指す。
「ハイパーインダストリアル時代」とされる情報化が進んだ社会において、計算という営みは生産の分野を超えて拡大している。マクドナルドの労働者のように、サービス労働まで計算され、管理されるようになり、何もかも計算可能性の中に放り込まれる。そして、それに相関して産業の領域は拡大していく。それは、今までなら考えられなかった領域にまで拡大し、例えば、ちゃちな心理学的計算は、人事管理や教育の領域にまで拡大する。
 スティグレールはそのことにより、以下のようなプロセスが起こると指摘する。

 人間の注意は、未来把持(現象学の用語で、未来が現在に先取りされている状態。過去把持と対。樫村注)によって前に向かって張りつめられている。対象への先行する期待が、対象を注意の対象として構成している。(略)が、ハイパーインダストリアル時代のハイパーシンクロニゼーションは、期待を過去把持の装置によって計算された結果に変えてしまう。その装置は、原則として唯一、特異なものであるはずの過去把持の蓄えを規格統一し、画一化してしまう。本来ならば、その蓄えが唯一の特異なものであるというまさにそのことによって、注意深い意識は自分について何かを学ぶ。意識が他に向ける注意とは、自身のもつ他性、他のものに変化する可能性、自分の個体化が未完成で開かれた状態でいることを映し出す鏡である。

 例えば、自分が読んできた読書歴の記憶は、その人にとって唯一無二の経験であり、その人のアイデンティティを形作るものである。が、ウェブ書店のアマゾンは、この個人の記憶を規格化された情報として扱い、同じ本を読んできた人たちの情報と形式的同一性をもつものとして、彼らが他にも読んだ本を推薦する。
 そのリストは、確かにある種の蓋然性をもつ情報を提供するかもしれない。が、むしろそのリストにない次の本の選択が、創造性や固有性を生むだろう。
 スティグレールのいうように、予測不可能性を運んだ。未来や体こそが、個人の実存性を支える。すなわち、不確実な未来に対して計算可能性を超えて創造し、行為することが、個人の生の固有性を形作る。が、情報の氾濫は、主体のこのような労働を節約しようとするあまり、主体にとって創造性を意味する行為そのものも奪ってしまう。
 アマゾンが単純なリストの提示でしかないのに比べ、SNSミクシィなど)に入って、日記検索やコミュニティ検索をすれば、同じ本を読んできた多数の人々の、より私的で固有の経験に出会えると思われるかもしれない。
 しかし、結果は同じである。もしそこで提供される情報を分析して自己の経験と関係づける作業を放棄し、ただ大多数の意見に同化してしまったら、「個体化」はやはりなくなってしまう。
 どんなに大多数の他者の経験が指し示されたしても、「自身のもつ他性、他のものに変化する可能性」による選択は、固有のものである。なぜなら、人間の記憶や経験の多様性と複雑性により、一つとして同じ経験を生きた人生がないように、一人の人の生はいかに情報社会になっても固有のものだからである。
 また、たとえ、ある人の選択が結果的に多数の人々の選択と一致したとしても、選択に至るプロセスが、その人の行為にとって重要である。
 これに対し、現在の商品戦略は、この個人的な行為の知的行為そのものを面倒な労働として捉え、この労働を節約し商品化する。「動物化」する主体とは、この労働の節約にのってしまう主体であり、資本にとって都合のいい消費者である。しかし、その便利さにのることは、もっと重要なものを失うこととなる。
樫村愛子ネオリベラリズム精神分析――なぜ伝統や文化が求められるのか』より「第二章 再帰性のもつ問題」 p.92-95)


  • 10時から二年生の日語基礎写作(一)。期末テスト第三回。先週、先々週にひきつづき、途中で勝手にプロジェクターの電源が切れたが、知ったこっちゃねえ。そのまま続行。今日は(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)くん。予想通りであるが、(…)さんはすばらしい。(…)さんと(…)さんもだいじょうぶだろうと予想していたが、前者は「優」圏内であるが後者についてはもしかしたら「良」になるかもしれない。想像していたよりもよかったのは(…)さん。余裕の「優」。(…)さんがボロボロだったのは意外だった。「良」にすら届かないかもしれない。(…)さんも同様のスコア。(…)さんについては、こちらとの交流は好むし会話能力も比較的高いが、勉強そのものは嫌いな子という印象が前々からあったので、この結果には驚かなかった。文法の詰めがあまいのだ。日語基礎写作(一)はこれで終わり。あとは成績をつけて事務室に提出するだけ。
  • 第五食堂で打包して帰宅。食後はどう過ごしたのだったか、よくおぼえていない。仮眠はたぶんとっていないと思う。午後の授業にそなえて部屋を出る直前、(…)から微信。今週日曜日午後からChristmas Activityがある、と。例年この時期に外国人教師とその身内、国際交流処のスタッフ、それから大学のお偉いさん数人で宴席を囲むのが恒例行事になっているのだが(そして例年それをChristmas partyという名称で開催しているところに、近平の旦那の威光もこの片田舎には届いていないのかなとひそかにおしはかったりもするのだが)、今年はその食事会の前に围炉煮茶(kind of Chinese tea party)をするのだという。なんやそれと思って「围炉煮茶」で画像検索してみたところ、あ、これか、たしか去年あたりから中国の若者のあいだで流行しているやつだなとなった。七輪で果物だの野菜だの芋だのを焼いて食いながら茶を飲むやつだ。集合時刻は15時。夕飯も食べる流れだったらけっこうな長丁場になりそうだ。めんどいけれども、英語の勉強と割り切るほかない。また(…)からdisappearしたと思われるのもアレやしな。
  • 14時半から一年生2班の日語会話(一)。きのう1班のほうでやったのと同様、期末テストの説明&心理テスト。休憩時間中にまた教室が停電したが、今日はすぐに復旧した。以前はエアコンのなかった教室に今学期はエアコンが導入されたようであるし、ここ最近の冷え込みはえげつないしで、たぶんどの教室でもエアコンをガンガン稼働、その結果として停電頻発というクソ情けないアレだと思うのだが、デスクトップで事務作業をしている教務室の人間にとってはけっこうな地獄だろうなと思う。外国学院は没有钱だねというと、学生らは笑いながら肯定した。
  • 授業中、廊下にいた四年生の(…)さんと(…)さんから声をかけられた。となりの教室で共産党関係の会議があるのだという。一年生らにいまのふたりは四年生ですと紹介した直後、マジか、彼女ら四年生なんだな、ゼロコロナ政策まっただなかにこちらが再入国したときはまだ二年生だったのに! とはてしない気持ちになった。
  • 授業後、廊下で学習委員の(…)さんとばったり遭遇したので、今学期中に一年生と二年生の学習委員とこちらで食事会をしましょうと伝えた。ちょっと前から学習委員らをねぎらうために学期末にメシをおごってあげようと考えていたのだが、Christmas Activityがこの日曜日に開催されると決まったいま、スケジュールが組みやすくなった。1班の学習委員である(…)さんのことは知っているという。学習委員同士という縁で微信の連絡先を交換しあっているようす。食事会について、いつ? どこ? というので、のちほど連絡すると告げて別れた。
  • 后街の中通快递で荷物回収。MacBook Airの収納ケース。以前使っていたものとはインチ数が異なるので新調したかたち。(…)に立ち寄って鱼头面を食す。食事中、二年生の(…)さんと一年生1班の(…)さんにそれぞれ食事会について打診。店を出たあと、セブンイレブンに立ち寄ってクリスマス仕様のチョコレートなどを大量購入。これは明後日の二年生の授業で行うゲームの景品にするためのもの。
  • 帰宅。一年生の学習委員と二年生の学習委員とこちらからなるグループチャット「ハゲと学習委員」を作成。一年生のふたりはまだ日本語でやりとりするのは難しいだろうし、学生たちのあいだで食べたいものなり日程なりを勝手に相談してくれればいいと思っていたのだが(だからこちら抜きの三人からなるグループチャットをあらためて作成してくれればいいと考えていたのだが)、二年生の(…)さんが積極的に日本語で発言しはじめた。それなので彼女とこちらのふたりで計画の大筋を決定、それについての意見を一年生にもとめるというかたちで、日本語のみでやりとりをすすめた。結果、22日の18時に女子寮前で待ち合わせということに。その後タクシーで友阿の海底捞に向かう。週末であるし混雑するだろうから店の予約を(…)さんにお願いした。
  • 二年生の(…)さんから微信。おもしろいショート動画を見つけたという。日本の中華料理店(屋台?)ではたらく東北出身の中国人のおばちゃんがクソでかい声で客の呼び込みをしているもの。うちは本物の中華料理だ、ほかは偽物だ、本物を食べてくれ! という意味だと思うのだが、動画の最初いきなりクソでかい声で「騙されないように〜!」と叫んでいて、それがもうおもしろかった。「ありがとう!」もちょっと関西風のイントネーションなのだが、それ以上に怒鳴り散らすと形容するにふさわしい声色で、じぶんはこういうおばちゃんに出くわすと無条件で気を許したくなってしまう、細かいことをぜんぶ蹴散らしてしまうほどのでかい声でブルドーザーみたいに物事をおしすすめてしまうおばちゃんという存在になにか希望じみた幻想のようなものを重ねてみてしまうところがある(そういうおばちゃんがときにはガチガチの差別主義者であったり、ムラ社会を体現したような人物であったりすることを経験上知っていてなお、あの手の活発さを目のあたりにするとまずは無条件で善良な人物として見てしまいたくなる!)。
  • シャワーを浴びたのち、20時半から23時過ぎまで「実弾(仮)」第5稿作文。シーン12をまた通す。かなりよくなったと思う。しかしまだ足りない。たぶん書き落としてしまっている景人の心情がひとつかふたつある。それを見つけてひろいあげつつも、書きこみすぎないように慎重に配慮してしかるべき位置に配置する、そういう仕事が残されているはず。
  • ひさしぶりに懸垂。夜食はセブンイレブンのおにぎりとトースト。きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、一年前と十年前の記事の読み返し。以下、2022年12月19日づけの記事より。

 帰宅。浴室でシャワーを浴びる。(…)とのやりとりを思い返す。自分自身が感染することよりも、自分がトリガーとなって彼女の娘が感染することのほうが心配だと伝えた話、それが掛け値なしの本心であることにちょっと驚く。まさか自分がそういう考えを有するようになるとはな、と。二十代のころであれば、絶対そんなふうに考えることはなかったと思うし、そういう考えを口にする人間のことをなんだったら軽蔑すらしていたと思うのだが。姪っ子の影響? まあ、それもあるかもしれんけど、それだけではないだろう。三十代も半ばを過ぎて、なんだかんだで系譜を意識するようになったということなのかもしれない(これは一種の保守化でもあるのだろう)。いつだったかも書いたと思うけれども、本を読めば読むほど、小説であっても哲学書であってもそうなのだが、作風の系譜、知の系譜の見取り図みたいなものがおのずとあたまのなかで作成されていき、かつ、じぶんもそのなかにマッピングされうる存在であるという意識が働くようになる。つまり、やっぱり系譜(歴史感覚)が強化されるというのはあると思う。
 ただ、「子ども」を特権化するというか、一種のマジックワードのように、あるいは言説における切り札みたいにして「子ども」を使う、それこそ俗情の極北ともいうべきアレとは、やっぱりちょっと距離を置きたいというのはある。タイトルも著者も完全に失念してしまったし、読んだわけではないのだが、なにかそういう子ども神話に対する批判的な著作の翻訳が、数年前にどこかで出ていた気がする。もしかしたら反出生主義の文脈につらなる本だったかもしれない。
 それでいえば、サッカー日本代表吉田麻也が、なんかのインタビューで、子どもたちに夢を与えることができてうんぬんかんぬんと語っていて、綿矢りさじゃないけれどもやっぱり「夢を与える」というフレーズにはひっかかりをおぼえるし、ここでもやっぱり「子ども」という言葉が、それさえ持ち出しておけばだれも反論することのできない無敵のワードみたいな使われ方をしているなと思ったのだったが、ただこれもフレーズそのもの陳腐さや紋切り型の言い回しに対する食傷というアレを差っ引いて受け止めれば、彼なりの系譜意識のあらわれとして解釈できないこともない。主体を一プレイヤーである自分自身にではなく、サッカー日本代表という一種の場(器)に託してみる、そういう観点。『百年の孤独』の主役がマコンドという土地そのものであるように、メンバーが年々入れ替わる場(器)としてのチームが主役であるという見方。もちろん、こうした見方には全体主義との危険な接近が認められるのだが、ただそういう危うさとうまく距離をとりながら場(器)をことほぐ、そういう隘路もどこかにあるんではないか。ちなみに、そういう場(器)を主役とした小説の一種として、『百年の孤独』を下敷きに(…)での経験を圧縮して書こうと思ったこともずっと以前あったわけだが(タイトルはサム・シェパードの「モーテル・クロニクルズ」を踏まえて「(ラブ)ホテル・クロニクルズ」にする予定だった)、(…)での経験はすでに部分的に——ほんの一部分だが——「実弾(仮)」にぶちこんでしまったので、もうそれはいいかなという感じにいまはなっている。

  • 以下も2022年12月19日づけの記事より(初出は2020年12月19日づけの記事)。

数日前、朝方にいちど目が覚めたとき、夢の中で考えていたことを寝ぼけまなこのままスマホのメモ帳に記録していたのだが、それを当日の日記に書き忘れていたので、いまここに記録しておく。といってもたいしたことではない。ただ、西洋社会では自分の意見をしっかり主張することが良しとされているが、それのせいでかえって分断が深まったり、陰謀論が強い影響を持ったりするのではないかという思いつきを得たのだ。曖昧さに滞留することが許されず、常に白黒はっきりした意見を表明することが求められるので(英語圏では相手の質問には必ずYes or Noで答えなければならない)、表明したその意見が一種の呪いと化し(言霊の論理)、それに束縛されるかたちで翻意や撤回や転向の余地がせばめられてしまうのではないか。こういうと必ず西洋社会は日本とちがってじぶんに非があるとわかればそれをすぐに認める習慣があるし、翻意や撤回にたいして鬼の首をとったようにむらがるようなみっともない真似をする人間もいないと反論する人間が出てくるんだろうが、そんなものが一種の神話でしかないことは、インターネットを介して英語圏のやりとりにたやすくアクセスできる現在だれの目にもあきらかである(その神話をぶっ壊す象徴的な一撃が、トランプのアメリカ大統領就任だったといえる)。そこを踏まえれば、日本式のあいまいさ、どっちつかず、日和見主義、それからある種の無関心を、オルタナティヴな技法として洗練させていく道も(おそろしく困難だろうが)あるのではないか?

  • 読み返しのすんだところで今日づけの記事に着手。1時になったところで中断してベッドに移動。ソファに置きっぱなしにしていた毛布を今日あらためてベッドにもどしたのだが、毛布ってすごいな! 毛布一枚重ねるだけでこんなにもあたたかいのか! 感動した! 寝巻きのスウェットいらん! ヒートテック一枚でも十分や!
  • 今日は『Mall Tape 2』(Mall Boyz)と『t-mix』(Tohji)と『Landscapes』(Mariana in our Heads)と『Practice chanter』(Léonore Boulanger)と『21世紀の火星』(Q/N/K)と『Ut Av Det Nye』(Wako)と『Pulse』(Uztama)をききかえした。Léonore Boulangerはやっぱりすばらしいなァ。彼女を知れたのは今年の収穫だ。