20231220

 象徴的なものは、芸術に代表されるように、人の生の固有性を維持するものである。スティグレールは、象徴的なものの生産に参加できなくなると「個体化」の衰退が広まると述べる。そうなれば、象徴的なものは瓦解し、それは欲望の瓦解を引き起こす。欲望とは人に対する欲望であり、人に対する関心を意味する。それが解体すれば、人は自分のことしか考えなくなり、これによって社会的なものが崩壊すれば、戦争状態に至ると彼は指摘する。
 象徴的なものとは、人間が生きている意味を問うような実存的な領域であり、それは人が他者を欲望することとつながっている。そして、それが人と共に生きるという社会性を支えているのであり、それがなくなれば、自分と他者をつなぐものはなくなってしまう。
 社会に対する構想とは、私とあなたが同じ痛みをもち、喜びを分かち合えるという前提に立って、人に対する関心や欲望から牽引されるものである。あとで見る「恒常的なもの」とは、そういった同一視に支えられている。
 スティグレールは、人が動物的欲求の状態から他者と関わる欲望の状態へ移行することで、社会的存在となることを「個体化」と規定している。哲学者アレントは、同様の事態を「現れによる複数性の保持」という議論として示している。
 アレントの「現れ」とは、スティグレールのいう「個体化」であり、人が自らの単独性を自己表出することである。そのことで、それぞれの人々が誰一人として同じではなくなる。そして、それぞれが複数性をもつことで、社会は豊かなものとなっていく。
 この「現れ」や「個体化」では、他者と関わろうとする欲望の契機が重要である。アマゾンにおける私と他者の同一性には、主体の側からの同一化や想像力、欲望の契機が奪われており、それ自体がシステムによって代替されている。それゆえ、そこで創造力や固有性は喪失している。
樫村愛子ネオリベラリズム精神分析――なぜ伝統や文化が求められるのか』より「第二章 再帰性のもつ問題」 p.95-96)


  • 10時起床。(…)くんから長文問題の文章が届いている。これとN1の長文問題とどちらがむずかしいと思うかというので、ねぼけたあたまでざっと斜め読み。この文章のほうがむずかしいと思うと返信すると、のちほど、「これは翻訳二級試験の文章です」と届いた。もうそこまで見据えて勉強しているのか。
  • 朝昼兼用で第五食堂の炒面。今日もまたたいがい寒く、外に出たときの気温はわずか1度であったのだが、午後はひさしぶりに日差しが射しこんできたので、寝室のエアコンを消して阳台のほうにパソコンごと移動し、そこでひなたぼっこしながら作業を進めた。学期末特有の、残すところはテストと成績表の記入だけですよという、消化試合めいた時期にさしかかるたびに、読みものも書きものも忘れて阳台でひなたぼっこでもしながらドラクエとかFFとかロマサガとかそのあたりのなつかしいゲームをプレイしたいなァという気持ちになるのはどうしてだろう?
  • きのうづけの記事を投稿。ウェブ各所を巡回し、一年前と十年前の記事を読み返す。以下、2022年12月20日づけの記事より。

「まったくわからない」芸術に出くわすと、人はその制作者に向かって、よく「その意図を説明せよ」と言うけれど、それはとても無意味なことだ。日常の言葉で説明できてしまえるような芸術(小説)は、もはや芸術(小説)ではない。日常の言葉で説明できないからこそ、芸術(小説)はその形をとっているのだ。日常と芸術の関係を端的に言えば、日常が芸術(小説)を説明するのではなく、芸術(小説)が日常を照らす。
保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』)

  • 以下も2022年12月20日づけの記事より。

 浴室でシャワーを浴びる。浴びながら、『私家版 聊齋志異』(森敦)のことをちょっと考える。むかしの物語というのはやはりあの世が近いよなと思う。『私家版 聊齋志異』のなかにもいともたやすくあの世に迷い込むような話がたくさんある。近いというか、ほとんどシームレスに越境しさえするのだが(というのは語義矛盾か、越えるべき一線がそもそも引かれていないのだから!)、こういうあの世の表象をもって、近代より前は死がごくごく身近なものであったのだ! と語るのは、なんの面白みもないクリシェだろう。それとはむしろ逆、死がある意味では現代よりもはるかに遠く未知のものであったからこそ、それに対する防衛機制として、あれほど豊かなあの世の表象が生まれたのではないかと考えてみるほうが面白いかもしれない。
 死の先にはなにもない。死とは端的な終わりである。それは、括弧抜きで考えると、ほとんど耐えられないほどの不安を呼び起こす酷薄な現実である(こちらは不安障害をわずらっていた時期、その酷薄さを——あたまでの理解ではなく——身体で危険している)。その死を括弧に封じこめるさまざまな幻想をわれわれは生きているわけだが、これは逆にいえば、先に述べた「死の先にはなにもない。死とは端的な終わりである」という認識が、共通の前提、常識、ある種の権威になっているということでもある。そうした科学的視点がある種の権威とともに成立しているからこそ、バリアとしての幻想——現代におけるなかば形骸化した信仰は大部分がこのようなものだろう——もまた成立する余地がある。
 しかしそのような科学的視点が成立しておらず共有もされていない時代にあっては、ひとびとは死の先になにがあるのかという不安や恐怖につねづね晒されることになる。現代に生きるわれわれは「死の先にはなにもない。死とは端的な終わりである」という認識こそが恐怖の源であると考えるが、そうではなく、「死の先にはなにがあるのかわからない」という恐怖こそが、当時のひとびとにつきまとっていたものなのではないか。それはもしかしたら、「死の先にはなにもない」という理解が一種の救いとなりうる、そのような恐怖をひとに呼び起こすものかもしれないのだ。この世とシームレスなあの世の表象、この世の論理や言語がある程度まで通じる、ほとんど俗っぽくさえあるあの世の表象とは、こうした恐怖に対する防衛として生じたものではないか(しかし、その場合、現代を生きるわれわれの防衛とは、いったいどのようなかたちをとっているというのか? 単なる忘却? ほかでもない死のその間際まで、資本の運動と一致した欲望に駆り立てられながらの?)。

  • きのう(…)からChristmas activityのinvitationが届いたわけだが、今日、あらためて同様の通知が外教のグループチャットのほうにもあった。共産主義者を自称する(…)や非キリスト教圏の人間ふくめてMerry Christmas! とあいさつしあっていて、Happy Holidays! という文句はひとつも見当たらなかった。(…)がそのグループチャットにみじかい動画を投稿していた。クリスマスソングを歌うじぶんのバストショットを撮影したもの。それに続けて、先のじぶんの動画を素材とするかたちでこしらえたものらしいプーチンが(…)とまったく同様の表情でクリスマスソングを歌う、こういうのもdeep fakeというのかどうかわからんがそういう動画も投稿された。(…)はアカウント名に中国とロシアの国旗をならべているくらいなので、十中八九プーチン支持者なのだろうが、なんかいろいろとグロテスクだよなと思った。グループ内の人間は単なる冗談として消費するのだろうが——と、書いていてふと思ったのだが、国際交流処の中国人スタッフの大半は英語圏に留学経験があるはずで、だからなかには西側寄りの考えの持ち主もいるかもしれないのだが、そういう人物は、(…)や(…)のような西側出身者でありながら反西側陣営色の陰謀論にそまりきっていたりするのを見て、いったいどういうふうに思うのだろう? いや、うちのようなレベルの大学だったら、たとえ留学経験のある国際交流処のスタッフであっても、あたまが愛国一色にそめぬかれている可能性が高いわけだが!
  • 日差しの出ているうちに外出。后街の中通快递でコーヒー豆を回収し、お菓子屋に立ち寄って大量に菓子を購入し、最後に(…)で食パンをいつものように買う。帰宅後、明日の日語会話(二)で行うゲームの景品作り。クリスマス仕様の袋に(…)さんからもらったオレンジをひとつずつぶちこみ、チョコレートやキャンディなどのお菓子を適当に詰めていく。それが「当たり」で合計7つ準備。それとは別にひとつ「大当たり」を準備。これは「当たり」ふたつ分の景品が入っている。さらに「特別賞」を二種類用意。ひとつは去年国際交流処からもらったサンタクロースの帽子+辣条で、もうひとつはこちらが以前使っていた指示棒の先についていたピンク色のうんこ+こちらの変顔写真をA4白黒で印刷したものに「愛しているよ♡」のメッセージを付したもの(前者が当たりの特別賞で、後者がハズレの特別賞というわけ)。
  • 景品作りのすんだのち、第五食堂で打包。食後は30分の仮眠。その後、日語会話(一)の第10課+第11課を詰める。さらに三年生の(…)さんから発音のチェックをしてほしいと会話文を朗読した録音が送られてきたので、漢字の読みを間違えている箇所や長音があきらかにおかしい箇所など看過できないポイントだけまず文面で指摘したうえで、アクセントについてはこれを参考にしてくださいとこちらが朗読した音源を送る。「先生の声はとてもいいです!」という反応。知っとる。こっちに来てからなんべん言われたかわからん。
  • それでいえば、これは以前も日記に書いたことがあるかもしれないが、こちらが声をほめられるようになったのはわりと最近のことで、おぼえているかぎりでいえば、(…)時代の同僚である(…)さんや(…)さんにほめられたのが最初だ。少なくとも中学や高校時代に声がいいと言われたことはない(カラオケに行ったときにそういう言葉をもらったことはあるが、ふつうに話しているときにそう言われたことはない)。中国に渡って以降はわりとしょっちゅう学生たちから声をほめられる。彼女らにとっての外国語を話している分、まあまあ厚底の下駄をはかせてもらっているのは間違いないんだろうが、それとは別に思うのは、(…)時代の(…)さんにしても(…)日本語学科の学生たちにしてもそうであるけれど、世代的にこちらよりも声優というものにずっと近しい環境で育ったその影響で、こちらの同世代の人間にくらべてずっと「声」というものに対する感度が高いのではないか? ということだ。こちらより10歳ほど年下だったように記憶している(…)さんの世代ですでに相手に対する印象を占める「声」の割合がデカいなという感想をもったものだが(そのような話を彼女と交わしたおぼえがある)、いまこちらが相手にしているのはそんな彼女よりもさらに10歳ほど下の世代である。中国の大多数の若者は当然のことながらアニメもゲームも愛好しているし、日本語学科の学生となるとその比率もさらに高くなるし、なかには日本人の声優の名前をすらすらと羅列することのできる子もいる。そういう世代であるから、ゲームもアニメもすでにある程度盛んではあったが、いまの時代のように声優がスター扱いされることはまだまだなかった(あくまでもそれはサブカルであり日陰の文化だった)こちらの世代とは、「声」に対する感受性が根本的に違うんではないかという気がする。そもそもイケボなんて言葉も存在していなかったしな!
  • シャワーを浴びたのち、なんとなくYouTubeにアクセスしたら、「プロフェッショナル 仕事の流儀『ジブリ宮崎駿の2399日』」が投稿されていた。違法アップロードなんだろうが、まあほかに手段もないしなというわけで視聴した。宮崎駿高畑勲に対する屈折した感情もろもろについては、すでに書籍やインタビューの類で目にし耳にしてきた情報ばかりでありそれほど目新しいエピソードが語られているわけではなかったが、高畑勲の死後に語られる「残酷な勝利感」という言葉には、巨匠相手にこんなこというのもアレだが、ああすごいな、やっぱり人間の内面というものを「物語」にごまかされずきちんと通過してきているひとなんだな、と思った(そして「物語」といえば、このドキュメンタリーはちょっと方向づけの度合いがすぎている、ドキュメンタリーを名乗るにしてはモンタージュが恣意的にすぎるんではないかという疑問ももったが、その疑問については、鈴木敏夫のセリフとして語られる、宮崎駿は虚構を現実としてそして現実を虚構として生きているという言葉が先回りして牽制しているともいえる)。しかし視聴していてはっと気づいたのだが、宮崎駿の一人称は「俺」なんだな。あの年齢あの風貌で「俺」なのかと考えると、なにかが腑に落ちそうになる。
  • 年末なので学生らがこぞってモーメンツに音楽アプリのスクショを投稿している。今年いちばんよく聴いた楽曲、よく聴いたアーティスト、よく聴いたジャンルなどがランキングとして表示されるやつ。毎年学生らのこれを見ていて思うのだが、日本語能力の高い学生はだいたい海外の楽曲をよく聴いている。つまり、中国語のみならず、日本語、英語、韓国語などの楽曲をよく聴いている。換言すれば、「開放的」な趣味の持ち主はだいたいみんな日本語能力が——というよりもこの場合は「外国語能力」といったほうがいいんだろうが——高い。それに反して、ランキングがすべて中国国内の楽曲で埋まっている学生はほぼ間違いなくといっていいほど劣等生だ。