20130205

他人とのあらゆる接触は狂信に基づいている。情緒に。共感に。その人が頭がいいということは、彼がぼくに似ているということなのだが、それにしても、ぼくが頭がいいと誰が保証してくれるのか?
ル・クレジオ豊崎光一・訳『物質的恍惚』)

 自己の中にある抑えがたい力、あなたを前に押しやり、あなたを生き生きと、支配的に、飽くなく、怯懦に、あるいは飢えきったものにする、歓喜と残忍さとの力。自己から来る、ということは自分の躰の一つ一つの細片をもって感じられるのだが、そして集中して、表現しがたい束を形づくる、あの力だ。この力は何なのか? 何と呼んだらいいのだろう、この力を? 結局のところ、それに何か名前をつけることなんか必要じゃない。その力はそこにあり、はたらきかける。存在に矢印をつけ、いちどきに感情、理性、愛、本能、徳、であるのだ。それを弾劾しないこと。それが指す方向に行くこと。ぼくの生命のエンジン、無に抗するしるし、ぼくの現存の現存。対象のない愛、激怒、知性、それは他の情熱、信仰、論理などの数々を見すぼらしい衝迫にしてしまう! 種の深い力であって、ぼくの核に刻みこまれ、ぼくを膨らませ、ぼくをもち上げ、ぼくを歩かせ、ぼくの心臓を鼓動させ、ぼくの横隔膜を動かす。むき出しの力で、疑いを許容しない。それをこそぼくは完全に理解したいのだし、それをこそぼくは、たとえたった一秒のあいだであっても、しっかりと捉えたいのだ。ぼくにはこう思える。その他の苦悩の数々は、なんということなく、いっぺんに解決されるだろう、そしてついに影から解放された地上に残るものとてはただぼくだけ、まるまる、手つかずで、勝ち誇る、ぼく一人だけが、ぼくの力とともに残るのだ、と。
 だがしかも真実なのは、そのあらゆる緊張、すでに引かれていて、ぼくが辿るべきその道、愉悦に充ちたその非・自由などがありながら、この力には方向がない、ということだ。それは無償なのだ。たとえすべてがしばられ、偶然に操られ、組み立てられて、ぼくが初志を貫徹するように仕組まれていようとも甲斐はない、この道には次元がないのだ。ぼくは行く、けれどもどこにも行きはしないのだ。このことをどうやって描きだすべきか? 矢ではないような矢、何ものをも指示せず、いかなる目標をも示さないような矢の姿を描くことができればと思うのだが。未来、そう、たしかに未来だ、だが何一つとしてけっしてやって来はしない。一種無限な太陽で、四方八方に光線を張りのばしている。出発点、だがただ単にその点だけ。いかなる到着地もない。いかなる港もない。星。白紙の上に粘っこい鉛筆で描いた黒い矢印、その前進は自己充足していて、その動機、進展、終末を同時に含んでいる。あらゆる真実と同様、この真実は言葉に尽くしがたい。自分の貝がらの中におり、自己に閉じこもっている。そして世界はこの真実に充ちている。それはどこにも行かない。ぼくを投げだし、ぼくを運動に化す、しかも同時にぼくを固定させているのだ。黒い空に雷を起こす稲妻、そして奇蹟的な一瞬間のうちにその眩い、まったく不動で、何ものが生み出したのでもなく何ものも消すはずのない道を示す稲妻のように。
 時間を殺す稲妻のように。
ル・クレジオ豊崎光一・訳『物質的恍惚』)



11時半起床。床に着いたのは7時頃だったように記憶しているが、前日に死ぬほど睡眠をとっていたためにか、実にすっきりとした目覚めである。朝食をとりながら前日途中まで観ていたフリッツ・ラング『外套と短剣』の続きを観る。二度目の鑑賞であるが、やはり傑作。場面が贅沢に移り変わり、かつ、その贅沢さに頼りきっていないところが良い。ひとつひとつのシーンがそれ自体独立した強さと説得力を有している。それに、前回観たときにも書いたような気がするけれど、格闘シーンがすごく良い。クライマックスの銃撃シーンもすばらしいし、銃撃といえば、軟禁状態にあるローダー博士の奪還作戦が進行していることに勘づいたドイツ側の召使い女が口封じのために当の博士にむけて発砲するシーンと、ポルダ博士の娘を名乗る偽者にむけてリリー・パルマーが発砲するシーンの、なにひとつ余韻を残すことのないきわめてドライであっけない発砲者の共通する身振りが、それぞれ物語を二分する前半と後半の要所に配置されているという構造も面白い。
映画を見終えたのち昨日付けのブログを書き、それから徒歩で生鮮館に買い出しへ行った。途中、近所の酒屋に立ち寄って灯油用のポリタンクを預けておき、帰り道に代金を支払いなみなみと注がれたそれを受け取った。部屋に戻ったところで夕飯にはまだ早かったのでジャン・コクトー『オルフェ』をプレイヤーにセットし、半分ほど観終えたところでちゃちゃっと筋トレだけすませ、それから夕飯の支度にとりかかった。そしてできあがったものを食べながら『オルフェ』の残りを観た。逆再生の頻繁な使用(死神の手袋を装着するシーンは演出上の効果にとどまらず、ふりかえるなの神話と時間の巻き戻しという説話の中核に直接関与するものだったという点においてことさら際立っていた)、あるいは、鏡に対面して自らの鏡像にむけて接近する人物のPOVを成立させるための工夫(CGなき時代であるだけに鏡を通過するという場面をいかに処理してみせるのかという難問を前にして認められる創意の数々!)。映画を映画たらしめる制限の中で発見される技術の展覧会。
仮眠。のち入浴。21時半から(…)にて執筆。のつもりがまるで気乗りしなかったのですぐさま読書に切り替え。ショレム・アレイヘム『牛乳屋テヴィエ』を200ページほど。そろそろ帰ろうかなというところで来店した(…)さんから今週金曜日あたりに一日かぎりの引っ越しバイトをしないかと持ちかけられたのを皮切りに雑談がはじまり、結局店を出たのは2時前だった。外は雨降りで、傘を持ってきていなかったのでどうしたもんだと思っていたのだが、あまりもののビニール傘が大放出されたので命拾いした。引っ越しバイトは少し魅力的だったのだけれど、というのは金銭面というよりむしろ「偶景」に追加できるかもしれない挿話の獲得という下心においてなのだけれど、いずれにせよ土日月が三連勤であることに思い到ってさすがに四日連続で時間が潰れるとなるとまた頭がおかしくなるなと思ったので、お断りした。