20130206

世界への回帰は原始主義への回帰ではない。人間が自分のために創りだした世界もまた《自然》なのである――冷蔵庫、自動車、飛行機、橋やハイウェイ、鉄筋コンクリートのビルなどは装飾ではない、鏡ではないのだ。それらは生きており、それらに固有の生活を持っていて、受けとるのと同じだけ与えている。河川、森林、山脈などはそれら以上に価値があるわけではない。大地、実在する大地の上では、人間たちの発明の数々はもはや発明されたということを必要としない。それらは宇宙の描く模様に帰属しているのだ。諸都市や諸機械のリズムはたぶんいまだに発見を待っているものだ。それはすでに人間たちの精神から、そして機能の観念から分離している。外にあるのだ、外に。
ル・クレジオ豊崎光一・訳『物質的恍惚』)

 無償ということは、不条理という意味ではない。水は無償である。風は無償である。天地創造は無償である。大地、太陽、銀河は無償である。狆とか、たつのおとしごとか、鰐とかは、いったい何かの役に立つのか? またうまのあしがたには、菊には、何か目的があるのか? 何か或るもの、或る行為、思考あるいは自然の連鎖の何かの形で、無償でないものがあったら見せてほしい。それらは役に立っている、それはもちろんだ。それらの仕組みの内部においてそれらは有用である。参与している。諸関係を創り出している。だがそれらの本性の中には、それらがあるところのものであるという以外にはいかなる企図もありはしない。
 そしてまさしく、この無償性はすばらしいのだ。それは出発点であると同時に到達点であり、展開されかつ自己充足している上昇であって、理由があって生まれたのではなく、港に着く必要はなく、自分自身の息吹きによってのみ、もっぱらそれによって、動かされているのだ、エンジンによって昇り、エンジンであるのだ。
ル・クレジオ豊崎光一・訳『物質的恍惚』)



10時起床。朝食をとりおえたところに大家さんが焼き芋を二本たずさえてあらわれたので、これ食ったら眠たくなって作業にならないかもしれないと懸念を抱きつつもありがとうございますと受け取りかっ喰らった。焼き芋うまい。焼き芋大好きだ。こんなにもうまいものはほかにない。焼き芋さえあればたいがいの不幸はなんとかしのげる。
11時半からネコドナルドにて「邪道」作文。プラス8枚で計410枚。一年以上前のブログに書き記した(と思って調べてみたら去年の2月1日に鑑賞したとある)ジャン・ルノワール『自由への闘い』のきわめて示唆的な一場面と震災にたいするひとびとのヒステリックな反応を結びつけたくだりを終盤に持ってこようという魂胆はかなり以前からあったので、ひとまずの終わりをさっさと設けたいいま、記述の先端部をそのような方向にむけてかなり強引に、力ずくでねじ曲げつつある。途中で若干しんどくなってきたので、冒頭からの加筆修正へと作業を転じたのであったが、ベケット、ミラー、アルトール・クレジオをジャンクションしたつもりで加筆修正を重ねようと意気込んだところで、すでに書かれてあるこのテクストはもはや彼らのいずれにも似ても似つかぬ独自の呼気をそなえたものとして眼前にくりひろげられており、なぞるまなざしはなぞるそばからそのテクストに馴化しあれよあれよというまにその重力に魅入られ引き寄せられていくため、結果として偉大なる先人らの回路はすべてショートしてしまい、ほとんど使い物にならなくなってしまうということに気がついた。変形・変換は、あくまでもすでに書かれてしまったこのテクストの内部から、このテクストの呼気に委ねた身の上の言葉で、困難にもなされなければならない。難しい。ここからが本当の意味での独り歩きになる。
macのバッテリーがずいぶんとへたってきた。いちどバッテリーが完全に死んだことがあって、あれはたしか円町に住んでいたころであるから二年かそこら以前になるのか、兄からおさがりのバッテリーをもらって急場をしのいだのであったけれど(それをいえばそもそもこのmac自体おさがりであるわけだけれど)、いちどはしのいだはずのその急場が再来しつつある。そのうちアダプタなしでは作業できないということになるだろう。別にそれ自体はたいしたことないのだけれど、停電=シャットダウンとなるのがおそろしい。データが破損する恐怖だけはご勘弁願いたい。あまっているひとがいたら譲ってください。
15時にネコドナルドを後にして帰宅。パンの耳を二枚チーズをのっけてトーストしたのでエネルギー補給し、アメリ大徳寺店へ。返却&貸し出し。のち銀行で貯金おろす。とんでもなく短いスカート丈の女子高生を見かけて目がくらんだ。帰宅後ネットで調べものをしていると大家さんがやって来て、鱈子の焼いたのとぶりの煮付けと豚のひき肉を卵でとじたものをほんにおいしないけどと断りつつ差し出してみせるので、ありがたく頂戴した。ついでに家賃を支払った。それからしばらくするとまた大家さんがやってきて、今度は焼いたイワシを生姜とみりんで煮付けた店屋物とミカンとキウイを一個ずつもってきてくれた。朝の焼き芋を含め一日三度の来訪とはなかなかと思っているところに四度目の来訪があり、いつでもシャワーを浴びてくださってけっこうです、と、これは毎日のならいである。大家さんの作る料理は見栄えはけっこうアレだが、味は存外よかったりする。煮物の甘さとかけっこう好みだ。
いつもよりややしんどいペースでのジョギングをこなし、入浴。今日はそれほど温暖というわけでなかったが、ジョギング中、西の空にはっきりと夕焼けを認めることができたのでよかった。夕焼けを見るのはずいぶんとひさしぶりな気がする。なんだったら帰国後はじめてなんではないかと思わないでもない。先日の恍惚感がまたいくらかぶりかえした。風景を見てなんらかの感動をもよおすたびに、じぶんは愛にあふれた人間だと思う。ただ、それがなかなか特定の人間にむかないというだけで、絶対量としては平均値をかなり上回っているような気がする(それが量的に計算できるものであると仮定しての話だが)。風景としての人間はすごく好きだ。スーパーまでの行き帰りにすれちがうひとびと、北大路のマクドナルドの二階席から見下ろす交差点のひとびと、そういうひとびとを風景として愛でているじぶんがいる。
風呂に入りながら、理解するのでもなく共感するのでもなくただそのようなものとして目の前の他者を認めること、とちかごろ馬鹿のひとつ覚えのようにくりかえしていることをまた頭の中でくりかえしていた。それをひとまずの前提とする。それをひとまずの前提として受け入れる。その先になにがあるのか、そこからどう思考が発展するのかはまるでわからないが、まず前提とする。ベルグソンが彼のいうところの直観をまず哲学の前提とせよと訴えているのをはじめて読んだとき、いいたいことはわかるし納得もできるとはいえ、しかしその前提を起点とする思考など存在しないのではないか、その前提は前提であると同時にすでに帰結であるそんな思考なのではないかと思いもしたのだが、現実には彼のいうところの直観の種子から数々の鋭利な思考が花開くにいたった。その事実を励みにしているじぶんがいる。他者を、マイノリティを、理解も共感も納得も遠い存在を、しかしひとまず認める。決してじぶんの論理や価値観にひきつけるようなふるまいには出ず、ただそのようなものとしてまるっと認める。肯定する。
入浴後、大家さんにいただいたおかずを温めて食しながらロベール・ブレッソン『ブーローニュの森の貴婦人たち』鑑賞。これも二度目。前回観たのはいつだったか覚えていない。たぶん映画を観始めるようになってわりとまもないころだったように思うので、四年ほど前になるのかもしれない。そのときはとくに何とも思わなかったのだけれど、『バルタザールどこへ行く』『少女ムシェット』『湖のランスロ』『たぶん悪魔が』『ラルジャン』という作品を経てブレッソンの魅力に存分に浸ったいま、やがてたどることになる独自の美学、独自のストイシズムの片鱗のようなものが、よく動くカメラとよく鳴りひびくBGMとよく演技する俳優というおよそブレッソンらしからぬ要素の中にひそかに認められて、それが面白い。物を物のままにその即物性を際立たせて撮ってみせる手口はこのころから確かで、横倒しになるテーブル、そのテーブルからすべり落ちる食器の類、あるいは女の手から離れてくだけ散るワイングラス、風にあおられて舞い戻る手紙、そういったひとつひとつの「物の受難」における物たちのまるで血の通わぬありのままにあられもなく露呈された即物性がまぎれもなくそしてすさまじくブレッソンで、それはたとえば頬を打たれた踊り子が打たれた仕返しに相手の男を突き飛ばす序盤のシーンにも通低するところがあり、ブレッソンはここにおいて肉体を完全に物として扱っている。この凄みこそブレッソンだと思う。好きな映画監督をたずねられたとき、とりあえずゴダールは観る、と答えるのがなんとなくならいになっているのだけれど(それは「映画好き」を自称する初対面の人間をふるいにかけるためだったりもするのだけれど)、ゴダールと同じかあるいはそれ以上に好きな監督としてブレッソンが、そしてひょっとするとロメールがいるのかもしれないと、ふと思った。
仮眠をとったのち自室にて読書。ショレム・アレイヘム『牛乳屋テヴィエ』読み終えた。すばらしかった。これぞ小説という小説だった。このなんでもなさ、とりとめのなさ、なにひとつ重要でないこの感じ。教訓めいた意味は遠ざけられ、語られる出来事はすべて既視感に貫かれており、ただ語るために語るその口ぶりだけが水際立ってこちらにせまりくるこの感じ。なんでもかんでも聖典に結びつけて語ってしまうテヴィエの滑稽さが、その身におとずれるありとあらゆる困難辛苦を残酷かつ偉大なる神ヤハウェの御心として丸ごと耐え忍ぼうとする姿勢に悲哀と疲労を反映させている、このチェーホフ的な泣き笑いの表情。
『牛乳屋テヴィエ』のあとはニコス・カザンザキスその男ゾルバ』を読みはじめた。これまで自室のデスクではどうも読書がはかどらなかったのだが、テーブルのとなりにあるテレビの上にスタンドライトを設置して照明を落とし、ひじをつくことができるように机上にちらばり積み重なったあれこれを端に片寄せてしまいさえすれば、思っていたよりもずっと快適に集中することができることに気づいた。
(…)
わが本拠地の図。
『働かずにいる101の方法』という本のパッケージを作成し、中身を『完全自殺マニュアル』にして書店にならべるという「万置き」(山塚アイ)を思いついた。