20130207

なぜいつまでも、感情のうちに、個々別々の力、ときには矛盾し合いさえする力があるという見方にこだわるのか? いくつかの感情があるのではない。ただ一つの、生命の形があるだけ、それが多種多様な力にしたがってわれわれに顕示されるのだ。この形をこそ、われわれは再発見せねばならぬ。この形、無の反対物、眼の輝きの湾、光と火との河、それは絶え間なく、弱さなしに、こうして、人を導き、引っ張ってゆくのだ、死にいたるまで。
ル・クレジオ豊崎光一・訳『物質的恍惚』)

 精確さの壮麗な瞬間。テーブルの黒い木の板についた埃のように、赤土の中に埋まった小石のように、大地に根を埋めた木のように、水のガラス状のゼリーの中に沈められ、腐った海草の付着した岩のように。空気。ねじれるマッチの、黒くて赤い烈火の尖端で生き、それからいっぺんに消えてしまう火。まるでガラスの灰皿の中でもみ消されるたばこのように。無用な太陽の影。無味な匂いのする花、そして猫の眼、残酷にぼくのほうを向いている。まるで青いしみのついた洗面台に一滴一滴としたたり落ちる蛇口のように。まるで……。まるで……。けれどもそうしたものは目の前にあり、ちゃんと現存しているのだ。そうしたものすべては象徴ではない。還元しえないもの、還元しえないものだけが思考の出口である。
ル・クレジオ豊崎光一・訳『物質的恍惚』)



10時起床。12時前からネコドナルドにて「偶景」執筆。以前書きつけたものを1つ削除し、最初に書きつけたものを1つ大幅に削る。それから新しく9つ追加。計131枚。ブログに書いたものからの引用が目立つ。もちろんそれ相応のかたちに文章を整えはするが。それに箴言や考察の類。そんなものばかりが続くと、こんなんでいいんだろうかという違和感を覚えたりもする。これらの断章は描写にこそ特化すべきなんではないか、と。雑多性を許容しやすい断章形式に甘えるのも退屈な話なんじゃないか、と。「意味」なんてものはここにおいてはただの不純物でしかないのではないか、と。文章が書き始めたころにくらべて弛緩しはじめている気がするのも問題だ。切り詰めた緊張感がものをいうスタイルなのだから、絶対に油断してはいけない。神経をとがらせる必要がある。
作業中うんこがしたくなったのでトイレにいって個室の扉を開けたところ中に若い男が入っていて「す、すみません! 鍵をかけるのを忘れてました……!」みたいな一幕があったのだけれどこれはまったくもって偶景になりえないし驚きのせいでうんこがひっこんでしまった。「偶景」の改題案として昨夜「tenkei」というのを思いついたのだが(点景・添景・典型・天啓)、これやっぱりださいな。「カタログ」というのも思いついて、これは一晩明けたいまでもけっこうありかもしれないと思っているのだけれど、どうだか。「観察」とかだとなんか上から目線でやらしいし、それに趣味は人間観察ですとのたまう連中というのはひとりの例外もなく洞察力に欠ける空気の読めない間抜けであるという経験則もあるためにどうも気にくわない。ライフワークと化するのなら「全景」もアリだと思うのだけれど、なんかぴんとこない。タイトルをつけるの苦手だ。いちばん良いのは「無題」かもしれない。気取りが鼻につくかもしれないけれど。死後出版を前提にすればこちらでタイトルをつける手間を省けるし、つけられたタイトルもあくまでも編集者の手によって事後的に暫定的に冠せられたものであるという断りがついていちばん格好よろしいんだが、作品を出し惜しみするには経済的なゆとりが何よりもまず必要である。そしてそんなゆとりなどあろうはずもないのが現状だ。「書き終えた」ものを金に変えるための努力(金を得るために書く努力ではない)が求められている。
15時前に作業を終えて帰宅。徒歩にて生鮮館へ買い出し。近所にあるスーパー(名前は忘れた。というかよく知らない。引っ越してきたばかりのころ一度だけ中をのぞいてみたけれどクソ高かったのでそれ以来いちども足を踏み入れていない。二階建て以上のスーパーはだいたい全部クソなのはなぜか? でかいというだけで調子にのっているのでは?)の前で週に一度なのか月に一度なのかよくわからないけれどときどきちょっとした古本市みたいなのをやっていて、というか市内にあるいくつかのスーパーの店先を転々としている移動古本市みたいなアレだと思うのだけれどこれまでにも何度か立ち寄ったことがあって、中勘助とかマンスフィールドとかジョージ・マクドナルドとかスティーヴ・エリクソンとかそのあたりを購入したりしたのだけれど、それが今日もまたやっていたものだからまあざっと目を通すだけ通していくかという按配でとりあえずレイン『レインわが半生』とジャック・ケルアック『地下街の人びと』とマルクスエンゲルス共産党宣言』をそれぞれ100円で購入した。伊良子清白や藤枝静男の作品が収録されている日本文学全集があってちょっと迷ったけれども、でかいし重いし場所をとるからいいやと断念した。
帰宅後、夕食。ロバート・アルドリッチ飛べ!フェニックス』。アルドリッチの作品を観るのはこれが初めてなのだけれどなかなか良かった。砂漠に墜落した飛行機のパーツを組み合わせて新たに一台のプロペラ機をつくりだすという壮大な計画を尊大に指揮していたドイツ人の正体が、飛行機の設計士ではなくモデル機の設計士であることがいよいよ当のプロペラ機で出発するぞという直前に判明するくだりで爆笑した。飛行機の翼や胴体を手持ちの道具やガラクタや梃の原理などを利用しつつ人力で移動させる場面はベルナー・ヘルツォーク『フィッツガルド』の山越えする船の場面を想起。
続けてジャン・コクトー『双頭の鷲』。崖にたたずむ三人の後ろ姿をとらえたショットが対象をとらえる角度も距離もそれほど変わらぬまま三度にわたって分節される冒頭になんだこれはという奇妙な違和感。詩人にむけて女王が声をあらげる序盤の場面では女王のバストショットから目元のクローズアップにかけての三段階連続ショットもあった。どことなくB級くさい、たとえばニコラス・ローグとかジェス・フランコとかが好みそうなカット割り(前者ならばそれをして効果的な演出とするだろうし、後者ならば視聴者の失笑か爆笑を招くことだろう)。死んだ王がそこにいると仮定して狂気じみたふたりの夜を演じる女王がテーブルの上にならべたトランプで王の運勢を占う様子をそのテーブルのまるい曲線に沿ってゆっくりと移動するカメラがとらえ、女王の背後にまわりこんだところで画面正面の奥手に位置する窓からくだんの詩人が登場するという「出会い」のシーンが何よりもすばらしかった。詩人であり暗殺者であり死の天使の筆名を持ちひとつの思想を自称するその男がその自称に見合った自らの役割意識を放棄する(女王に惚れる)瞬間まで一言も口をきかないという演出も良かったと思う。脚本がやたらと戯曲的というかさまざまな立場の思惑が行き交う政争劇みたいなのを目にすると自動的にシェイクスピアの名前の浮かびあがる回路ができてしまっているのでこれ戯曲的すなわちシェイクスピア的だなーと思っていたのだけれど、元々コクトーが戯曲として書きおろしていた作品を映画化したのが本作らしい。なるほど。豪華絢爛な衣装ときわめて悪趣味な城内の様子はなかなかの見物だと思う。
続けてもう一本、といくまえに先に感想をざっとメモしておこうと思いパソコンを立ち上げたところ、ひっさびさに実にどうでもよい、調べものですらないインターネットによって二時間ほどもっていかれた。最悪。大いなる自己嫌悪に駆られながら布団にくるまって『その男ゾルバ』をつまみ読み。ところで、これ(http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130201-00000307-jisin-ent)すごい似てる。