20130208

 ぼくには、それを言うことはできないが、それでも、できることなら……というのも、ぼくにはそれがすぐそこに、ぼくのまわりにあると感じられるのだ、そのことは、たぶん他の人たちがいつの日か知ることになろう。ぼくはためらう、なぜならたぶんもうすでにぼくはためらっていないからだ。たぶん、そう、たぶんぼくはすでに選んでしまったのだ。なにも永遠への憧れとか上昇をではない。そうではなくて、死を。黒い死。拷問や陋劣さや安全欠如の領域。ときおりぼくに与えられることがある、あの偉大な瞬間の数々、ぼくにはそれを知ることができない。ただ、ぼくの支えになるのは、不可解な陶酔だけだ。そこに在る、現存する、ということの甘美な陶酔。ぼくの生命と時を同じくして在(い)ることの陶酔だ。
ル・クレジオ豊崎光一・訳『物質的恍惚』)

苦しむのを拒否することは一つの偽善である。一つの過ちでもある。それは、神から脱却したときの人間が感ずる最初の誘惑である。奇妙なことに、最重要の問題はまだ解決されていない――神がないとしたら、自分の魂をどう扱えばよいのか? 現代の芸術表現や哲学観念の大部分は、倦(あ)くことなくこの質問を再提出しているにすぎない。現代人の敗北は、たぶん、彼の持っている絶対的なるもの、神的なるものを使用できないことである。自分の感受性を、彼がわざわざ目的を廃棄してしまった探求に適用しようとし続けることである。この矛盾が、彼の絶望の、無力感の起源となっている。それにしてもこの矛盾は宿命的なものだ――自己よりも偉大なものに溯ろうとする習慣は、それほどまでに思考の根の中に根づいているのだ、人間よりも人間であるもの、現実よりも現実であるもの、生命よりも生命であるものを求めようとするこの慣わしは、それほどまでに強いものなのだ。
ル・クレジオ豊崎光一・訳『物質的恍惚』)



11時起床。極寒。意を決して外出。薬物市場にて13時から17時まで「邪道」執筆。プラス5枚で計415枚。二度目となる冒頭からの加筆修正を進めているのだが、ちょっとやばい。ドストエフスキーの饒舌を暴力的に色づけしたような語りがひょんなことからねりあげられてしまい、しかもこちらのトーンにしたがってあらためていったほうが従来のものよりもはるかに面白く手応えがあるという……これはほぼ全篇書き直しに近いことになるかもしれない。まずい。半年じゃ終わらないような気がしてきた。ここにきてようやくそれらしい手応えを得ることができたのだから、選択の余地などないといえばまったくないのだけれど。それにしても今日はとんでもない集中力を発揮した。ひさびさに尿意を忘れるほど没頭した。完全没頭すると尿意がうせる。力みすぎて姿勢が硬直してしまうからなのかなんなのか、なにかの拍子にふと肩の力を抜いたりするとその途端に腎臓だが小腸だか知らんけどその手の臓器の位置が動き、動くと同時に渋滞していた小便が急激に出口を求めて騒ぎ出すので、その結果、うわ!小便したっ!となるんだと思う。
あまりの寒さゆえに徒歩で買い物に出かけるのはやめにして薬物市場からの帰路に直接生鮮館に立ち寄り買い物。ジョギングも中止にしようかと思ったが、どうせ走り出せば身体なんてすぐに温まるのだしと思い、炊飯器のスイッチだけ入れて走りに出かけた。したらやたらと疲れた。途中で歩いた。帰宅してから風呂に入った。風呂からあがると雪が降りはじめていた。雪降りの夜に屋外にある湯の出ない水場で野菜を洗ったり切ったりしているじぶんはサイコーにillだと思う。(…)さんがカップ麺に注ぐ湯を求めて水場にやってきたので寒いですねーと挨拶した。明後日が旧正月にあたるらしくそれに備えて明日は大阪にいる親戚のところに行くつもりだと(…)さんは言った。いってみれば中国版の大晦日ということらしい。最近水場でちらほら見かけるあの女性はやはり(…)さんの母君であったらしく、父親もそろって来日しているようなのだが、そちらとはまだいちども遭遇したことがない。あしたはおいしいものたくさん食べれますね、というと、はい楽しみです、と(…)さんは満面の笑みを浮かべ、それから熱湯をそそいだどんべえを片手に部屋に去っていった。
夕食をとりながらルイス・ブニュエル『熱狂はエル・パオに達す』。マルカム・ラウリーそしてヘミングウェイに連なる闘牛のシーン。牢獄の中でとびかう小鳥のシルエット。『ソナチネ』を思い起こさせる炎上する車と破壊された窓からもくもくとたちのぼる黒煙の量感。国務長官から書類の署名を頼まれたショットに次いで「四日も黙っていたの?」と女が問いかけるショットが接続されることでやすやすと省略が達成されるその四日間。
夜遅くまで『その男ゾルバ』を読み進めて就寝。明日から地獄の三連勤。