20130209

 芸術は超越的思考の惰性の中にとどまっている。他処なるものが何であるかはどうでもよい、人間にとってはその《他処》なるものが要るのだ。(…)それはつまり、彼らが、生命と思考のあいだ、物質と精神のあいだ、現実とフィクションのあいだにある、あの昔ながらの矛盾を解決していないということである。この矛盾が見かけだけのものにすぎないこと、そして現実から空想的なものへの移行が、ただ単に一つの現実的なものからべつの現実的なものへの移動牧畜であるということを、彼らは認めようとしないのだ。
ル・クレジオ豊崎光一・訳『物質的恍惚』)

数々の物体は鏡である。本は鏡である。他人たちの躰、他人たちの眼は鏡である。ぼく自身の手は鏡である。ぼくの眼差が注がれるいたるところ、ぼくのうちにこの分身の強迫観念がやって来るとき、ぼくが見るものは、ぼくを見ているぼくだけだ。ぼくの寝返った意識の魔物たちが、世界中に住みついている。奴らの領土は、見えるもの、感じられるもの、聴こえるもの。世界の一片一片がそのときぼくに面と向かって、冷笑する。そしてぼくは愚弄から逃れることができない。
ル・クレジオ豊崎光一・訳『物質的恍惚』)



6時20分起床。8時から12時間にわたる奴隷労働。地獄の三連勤の初日である。きのうに引き続き極寒。午前中には全室空室という滅多に見られない状態が達成され、午後には満室というこれまた滅多に見られない状態が達成されるという、実に両極端な一日となった。昼下がりのゆったりとした談笑のひととき、酩酊時のじぶんのふるまいがひどすぎるという話題になり、これはみなさんぜひいちど直接目撃していただきたいという(…)さんのその一言がきっかけとなって、来週だか再来週だかに職場のみんなで飲みに行くことになった。(…)くんは酩酊するとおしゃべりになる、おしゃべりになるまではいいのだけれどそれがあまりに内省的すぎるおしゃべりなものだから会話のキャッチボールにならない、率直にいって泥酔した(…)さんより扱いにくいと、夜の祇園で働くその道のプロである(…)さんに言われてしまった。当日はしっかりしゃっきり背筋をのばして事に望みたい。あと、わたし今まで出会ったB型のひとってみんな苦手と(…)さんがいうので、ぼくがB型ってことはご存知ですよねと問うと、だからまあB型らしくない一面があることをB型のひとが見せてくれたらなって期待はあるよ、といわれ、ぼくは現状すでにじぶんのそういう側面を全面的に開放させてるつもりなんですけどね、と応じたところ、空前絶後の苦笑を浴びせられることになった。南無。