20130213

 二十九個の雲。二十九歳になると、人生、三十年目に入ったということだ。そして、自分はその二十九歳。そして、午前中ずっと自分のなかで強まっていたらしい感覚がついにはっきりと意識に上った。それは、二十二歳のときに気づくはずでなぜか気づかなかった感覚、これまで死の淵にある人々やA・E・ハウスマンとしか関係がないと思っていた感覚、すなわち、人はいつまでも若くはいられない――それどころか、人はまたたく間に年を取っていく――という感覚で、彼はそれを悟るや堪えがたいほどの衝撃を感じた。今日の煙草が昨日の煙草のように感じられるほど時があっという間に過ぎゆくなか、あと四年も経たぬうちに三十三歳になり、さらに七年経てば四十歳、四十七年経てば八十歳。六十七年後ならだいぶ先の話に思えるが、そうなるともう百歳だ。もはや神童ではありえない。こんなちゃらんぽらんな生き方をしていることの言い訳もできない。結局、僕は大してかっこいい男ではないのだ。もはや若くはない。とはいえ、僕は天才だ。まだ若い。かっこいい。そうじゃないか?
マルカム・ラウリー斎藤兆史・監訳/渡辺暁・山崎暁子・共訳『火山の下』)

 ラリュエルと領事は、崖の細い道を行くのをやめた。宮殿の基底沿いをぶらぶら歩いてから、農地信用銀行の向かいを左に曲がり、広場へと続く狭い急な坂道を上った。二人は息を切らしつつ、馬に乗った男を通すために宮殿の壁に張りつくようにして進んだ。男は顔立ちの整った貧しい階級のインディオで、汚れの目立つゆったりとした白い服を着ていた。陽気に歌っていたが、二人にお礼を言うかのように礼儀正しく会釈した。男は丘を登りながら、二人の脇で小さな馬の手綱を引いて速度を緩め、話しかけてくるかに思われた。馬の両側に二つずつぶら下がっている鞍袋がチリンチリンと音を立て、馬の臀部には7という数字が焼印で押されていた。チリンチリン、小さな腹帯。だが、二人より少し先を進んでいた男は話しかけてこず、てっぺんまで来ると不意に手を振り、歌いながら走り去った。
 領事は胸を突かれた。自分の馬にまたがり、歌いながら、おそらくは愛する者のもとへ、世界中の素朴さと平和のまっただなかへ駆け去ることができたなら。人生が人間に与えているのはまさんそういうものなのではないか? もちろん違う。それでも、一瞬の間だけ、そんなふうに思えた。
マルカム・ラウリー斎藤兆史・監訳/渡辺暁・山崎暁子・共訳『火山の下』)



10時起床。寒くて出かける気にもなれない。ニコス・カザンザキスその男ゾルバ』の残りを片付ける。なかなか面白かった。ゾルバのキャラが立ちまくっていて良い。強烈に独創的なひとりの人物の構想する一大事業に語り手が巻き込まれてしまう(そしてその事業はごくごく一般的な意味においては失敗に終わる)という流れがどことなく大江健三郎を思わせる。ところでこの翻訳の中でゾルバはいかにも粗野で田舎者めいた訛りのある口調で話すのだけれど、この手の架空の方言というのはいったいどこから生まれたものなんだろうか。ずっと以前に読んだものだからはっきりしないけれど、スタインベック怒りの葡萄』の会話文なんかもどこのものともいえない、ただその話者が田舎の無教養なひとびとであることだけを証す架空の方言を話していた記憶があるし、たとえばドラクエなんかでも小さな村におとずれるとそこの村人たちは「おらは〜〜だべ」みたいな、実際に存在するあちらこちらの方言を部分的に用いてコラージュした「田舎者弁」みたいなものを話す。こうした架空の方言(「田舎弁」)というのはひょっとすると翻訳文化の副産物だったりするんだろうか。たとえばアメリカ南部の訛りを翻訳するに際してひとりの翻訳家の手によって生み出された、みたいな起源があるとか? ちょっと気になる。
読書のあとはフリッツ・ラング死刑執行人もまた死す』。大傑作。これまでに観たことのあるラング作品の中ではいちばん好きかもしれない。サディスティックな表情がものすごく良い味を出していたのに序盤ではやばやと出番を失う総督。尋問される八百屋の老婆のけわしくきびしく力強い頑な表情のクローズアップ。指の骨をひとつずつぽきぽきと鳴らすゲシュタポの尋問官のやはりサディスティックな喜悦。そして両腕を頭上にあげて大きく伸びしたさいに漏れた溜息のそのついでのように口にされる「ハイルヒットラー」の一言。暗殺者を匿った容疑で一家総出でしかし別々に尋問されるくだりの矢継ぎ早なカット割りのすばらしいテンポ。牢獄・尋問・処刑シーンなどにおける影のきわめて印象的な扱い方。銃殺されるチャカの最期。not the end と結ばれるラストカット。
炊飯器のスイッチだけ入れておいてからアメリカへ。DVD返却。貸し出しはパス。読書に時間をあてたい。帰り道にそのまま生鮮館に立ち寄り買い物。帰宅後ジョギング。とちゅう以前見かけた覚えのある公園に立ち寄る。懸垂。利用者がいないのはいいのだけれど鉄棒が低すぎて懸垂にむかない。しかたがないのでジャングルジムで代用したもののなんちゅーかいまひとつしっくりこない。もういっそのことぶらさがり健康機的なアレを買ってしまおうかななどと考える。やっぱりおもてでヒーヒーやるってのはちょっと恥ずかしいというのも実際あるのだ。最低の職場に最低の住居に最低の暮らし向きの三拍子をかねそなえた日々にどっぷり開き直って浸っているくせに妙なところで羞恥心を覚えてしまうのが滑稽といえば滑稽だ。
帰宅後シャワー。大家さんからまた筑前煮をいただく。夕食後、30分仮眠。20時に起床し、第二部開始。「邪道」執筆。一時間経ったところで麻痺。こういうときはすっぱり諦めるにかぎる。ということで執筆は打ち切りにし(いつもこうすっぱり諦めることができればいいのだけれど)、たまりにたまりまくっていた抜き書きをメシアンベートーヴェン、ペルトらをお供にして延々とこなす。クソまずいインスタントコーヒーをがぶ飲みしすぎて牛乳がなくなってしまったので(胃をいたわるためにインスタントコーヒーを飲むさいはミルクをちょっとだけ加えるようにしている)、0時過ぎだったかにいちど近所のデイリーヤマザキにお出かけ。作業途中の深夜スウェットのまま部屋を抜け出して近所のコンビニに出かけるときほど一人暮らしのすばらしさを感じることはない。熱をもった頭が外気で洗われていくのを感じながら交通量の少ない道路の奥また奥へと連続する信号の色をまっすぐに見通す一瞬の恍惚。この充実した孤独、この完璧なひとりきりを十全に味わうためにこそ、毎月18000円支払っているといっても過言ではない。