20130214

何を象徴しているのかは思いつかないが、象徴的だということはたしかだ。
マルカム・ラウリー斎藤兆史・監訳/渡辺暁・山崎暁子・共訳『火山の下』)

狂人が救命帯のように古い自転車のタイヤをつけて通った。落ち着かない様子で首の周りのぼろぼろのタイヤ面を始終動かしている。領事に向かって何かつぶやいたが、返事も見返りも待たずにタイヤを外し、はるか前方の屋台に向かって放ち、それから、ブリキの釣りの餌入れから何かを取り出して口に詰めこみつつ、タイヤのあとをふらふらと追いかけた。タイヤを取り上げるとまた前方へ投げ、これを繰り返しながら去っていった。彼は、この極限まで単純化された法則に永遠に身を捧げているように見えた。
マルカム・ラウリー斎藤兆史・監訳/渡辺暁・山崎暁子・共訳『火山の下』)



10時半起床。昨夜は抜き書きばかりで物足りない気持ちだったので床に着いてからなんとなく豊田徹也『アンダーカレント』を読み直したりした。結局眠りに落ちたのは5時ごろだったか。起き抜けにややぐだぐだとインターネッティングしたのち北大路のネコドナルドへ。12時半から15時まで「邪道」執筆。プラス3枚で計420枚。苦戦。困難。こいつぁなかなか終わりそうにない。気分転換も兼ねてもう一作くらい並行して書き出してしまってもいいかもしれない。となりの席に座った子連れの若い母親が交差点を走る救急車のほうを指差してほらほら救急車だよと無邪気に子供に語りかけている一幕を目撃。これは「偶景」になる。作業中に(…)くんからひさびさに連絡があった。話したいことがあるからスカイプしてくれとの由。それじゃあ今晩ねと約束。
帰宅後、徒歩で北区図書館へ。岡村靖幸高橋アキウォルト・ホイットマンなど借りる。図書館まで歩いて行って帰ってくるとだいたい一時間かかる。三十分だったら素敵な散歩だったと完璧に満足できるが、一時間となるとちょっとばかしもったいないと感じてしまう時間お化けのじぶんがいる。もっとも、この散歩にしたところでその過程で「偶景」の材料となる出来事に出くわすかもしれないという下心ありきのものではあるのだけれど。これは「偶景」にかぎったものではなくたとえばこのブログなんかでもたぶんそういう作用をもちあわせているのだけれど、じぶんの私生活を文字に起こすというこの営みによって当の私生活が影響を及ぼされるみたいなところはおおいにある。無頼派私小説家がじぶんの小説のためにわざとやんちゃしてみせるといえばおおげさかもしれないけれど、外から目線でじぶんの生活を弄ぼうとする自身にたいする意地悪さみたいなのはやっぱり少なからず芽生える(これは自己の相対化ではない。相対化とはあくまでもじぶんの内側、というかじぶんという内側からおこなわれるものだから)。生涯を作品として仕立て上げようとするこの外からのメタメタした目線が、あるいは「常識よりも条件を要請する」(友人(…))主体の形成に一役買うということはあるのかもしれない。ブログといえばこれはもう過去にも何度か書いているような気がするけれど、こうやって毎日のように出来事やら思ったことやらを書きつづけているとじぶんの思考がこのブログの文体に規定されてしまうようなところがあって、たとえば今日でも散歩しながらいろいろな物思いに耽ったりしたのだけれどそれらの物思いはすべてこのブログのこの文体ではっきり文章化された体裁をとっており、じぶんが考えているというよりもこの文(体)が思考しているという実感をつくづく得る。文未然のあの物思いらしい物思いにふけるひとときというのはもうじぶんにはほとんど許されていないのかもしれない。無意識の死? それはいくらなんでも飛ばしすぎだろう。ただし、文=論理性・因果律のこの圧倒的な前面化によってひらめきが失われたのではないかという懸念は少しある。ただこれも考えようによってはあたまの中のキーボード相手にインプロヴィゼーションで打鍵しつづけているのが常態化しているともいえるわけで、インプロヴィゼーションはしばしばひらめきを呼び寄せるきっかけになることを考慮すると、じぶんは呼吸をするようにひらめきを呼び寄せているのだと、そういうふうに解釈してみることもできる。これらすべて今日の散歩中これらの文章のままに考えたことである。
図書館からの帰りに薬物市場に立ち寄ってシャンプーを買ったのだけれど、なんとなくタイを惜しむ気持ちから旅先で購入したものと同じ商品を買ってしまった。店の入り口でいかにも野球部みたいな高校生男子が四人出てくるのとすれちがったのだけれど四人が四人全員買ったばかりの板チョコを手にしていた。家を出てすぐの路上で制服の中学生男子がその先をゆく(おそらくは同級生と思われる)私服の中学生男子にむけて「おまえ◯◯にチョコもろたんけー?」とからかうように声をかけていた光景を目にして今日がバレンタインだということに気づいていたから(毎年15日と勘違いしてしまう)、うわーいかにも高校生男子の馬鹿なノリだなーと微笑ましかった。それとはべつにまた帰路の途中、小学生男女が四五人集まっている現場に出くわしたのだけれど、中にいたひとりの女の子がリボンと包装紙で飾り付けられたプレゼントを手にしてそわそわしているそのとなりで携帯電話を手にした別の女の子がいままさにそのプレゼントを手渡すべき相手の男の子を呼び出しているところのようで、はやしたてる敗北者の男の子たちとちょっと男子ーな女の子たちの喧噪をよそにしてひとり緊張した笑みを浮かべながらもしかしその顔つきを見るかぎりではどうも勝ち目のある勝負に望むところであるらしいあの女の子が幸せな結末をむかえればいい。
帰宅後、夕食。きのうちょっと懸垂しただけなのに背面がバッキバキの筋肉痛になっている。腕立て伏せと腹筋は定期的にしているのになぜかその腹筋まで筋肉痛になっており、どうもじぶんの腹筋というのは腹の下のほうの筋肉ばかり使うものになっているらしくふだん使われていない上のほうの腹筋が懸垂によって鍛えられることがこれにより判明したのでやはり懸垂は最高だ。これこそ習慣にすべきだ。
仮眠。入浴。のちウォルト・ホイットマン『草の葉』を背中の痛みに耐えながら三時間ほど読む。むろん途中でデイリーヤマザキに出かけた。そしてゴージャス仕様のチョコクロワッサンを買った。今日は薬物市場でもチーズなんとかパンを買った。パンばかり買っている。さいきんはめっきりパンキチガイだ。あとチーズキチガイでもある。食欲が止まらない。冬が去りつつあるからなのか、それとも暖房器具を導入したおかげで自律神経がさほど参らずにすんだからなのか、あるいは職場の残飯で腹がたっぷり満たされるようになったからなのか、ここ一ヶ月ほどは食欲と性欲が学生時代なみに回復しつつあって元気だ。健康だ。すべて順調だ。今年の春はかわいい女の子と一緒にロメールを観たり、花粉の飛ばない夜道を足が動かなくなるくらい長々と散歩したり、いっしょに酩酊して小さな死を幾度か重ねて次の朝からまた他人にもどったりしたい。口先魔人? このあいだの出勤日(…)さんから発売されたばかりのリメイク版ドラクエ7のプレイ画面を少し見せてもらってうわーいいなー欲しいなーやりたいなークリアしたら貸してくださいよーいま書いてる小説に目処がついたらプレイしますからーとお願いしたのだけれど、これだってどうせいざそのときがきたらプレイしないのはわかりきっていることなのだ。事実、(…)相手にまったく同じことをこれまで何度も繰り返しているのだから(ゼータガンダムドラクエ5、FF4、タクティクス・オウガ……)。習慣の奴隷と化しているじぶんの場合、いつかやるはイコールやらないだ。なにか新たに事をはじめるには思いついたその場の突発性・衝動性・不意打ちの勢いを借りる必要があるのだ。そうでないかぎりは何事もあらたにはじまらない、はじめられない体質のじぶんなのだ。タイだってそうだった。職場に出入りしていた佐川急便のおっちゃんのなんてことはない一言をきっかけにそっこうで航空チケットを予約したのだ。だからかわいい女の子と一緒にロメールを観たいなどと書いているうちはそれは現実化しない。ロメールはきっとじぶんひとりで観ることになる。そうではなく、かわいい女の子と一緒にロメールを観たいからさっき出会い系に登録しましたと書いてからが本番なのだ。こうなるともうとめられない。日常に破れ目が生じ、習慣が一時的に瓦礫と化す。そういうことは滅多にない。じぶんの習慣は惰性ではなく欲望によって成り立っているから。どうしてあのとき一ヶ月も海外ですごそうと思えたのか、じぶんでもさっぱりわからない。
日付をまわってから(…)くんと実にひさびさとなるスカイプ。年始の挨拶をするのを忘れたけれど二時間半ぶっとおしで色々しゃべった。また新たに一作完成したらしい。こっちが一作書きあぐねているあいだに三作も書いてよこすのだからずいぶんなペースである。冒頭の一段落をざっと読むかぎり良い感じ。文章がスマートだし、リズムもある。前作の失敗(失礼かもしれないけれどそういわせてもらう)を契機としてがっつり一皮むけたようにみえる。「邪道」がずいぶん苦戦しているし少なく見積もってもあと半年くらいはかかりそうだから100枚から150枚程度を目処にしてチェーホフ-マンスフィールドの系譜にある別の作品を書き出そうかと考えているというと、以前じぶんが(…)くんの母君にあてて送った本の山の中にチェーホフの文庫本が一冊(なんかいろいろ書き込んであったらしい。はずかC!)あってそれを先日帰省したさいに持ってきて読んだとかいうことで、そこでチェーホフマンスフィールドに特有の「よわい論理」の面白さに気づいたとかなんとかそういう話になったのだけれどそこで(…)くんが口にした「よわい論理」とはじぶんがカフカアフォリズムに見出した「よわい論理」とはむろんまったくの別物で、なんだったら曲解ですらなく、ただ良いネーミングだと思ったからこちらでも勝手に使わせてもらいましたということらしいのだけれど肝心のその意味はといえば、はたからみればぜんぜん絶対じゃないことを絶対として見なす人物らの傾向みたいなもののことを指す語として(…)くんは使用しているみたいで、これにはおーなるほどと思った。よわい論理=つっこみどころ満載の論理、というわけだ。チェーホフマンスフィールドも要するに馬鹿を書くということなのだ。彼らの主題は馬鹿なのだ。つっこみどころ満載の論理を妄信している大馬鹿者たちの悲哀。無名の、やたらとあわれっぽい、しみじみとして恥ずかしくなるような、見ていていたたまれなくなるような、十全に愛することも完璧に憎むこともできないひとびと。この乱暴な見取り図は来るべき次回作の構想において役立つかもしれない。
あとはなんだったっけ、映画とか音楽とか(…)くんの話とか(…)の話とかもちょっとずつしたような気がする。英語の勉強はまだやってるんですか、といわれて、うぐぐ、となった。(…)くんはどうも今年中を目処にして彼女のいる岡山か、あるいは岡山からそこそこ近くしかもビッグシティであるところの神戸に引っ越すことを考えているらしい。そこでフリーターとしてのんべんだらりと過ごすのかそれとも正社員としてどこかに勤めることになるのかはまだはっきりと決まっていないようだったけれども、いずれにせよ東京を出るのは確からしく、これには諸手をあげて賛同した。(…)くんの話を聞いているかぎり東京生活にはそれほどメリットがない。そりゃまあ美術関係の展覧会とか頭にくるくらい東京が優遇されているけれども、とここまで書いて思い出した、今年の冬は東京でターナーの展覧会があるらしいのでこれには出不精の呪縛をうちやぶって必ず駆けつけることにしたい。ポロックでも動かざること弟(ニート歴6年)のごとしを崩さなかったじぶんであるが、ターナーとなれば話は別だ。夜行バスに乗り込む準備はできている。夏だかにはたしかベーコンの展覧会もあったように思うのだけれど、こちらはたしか名古屋かどっかにもまわってくるはずなのでわざわざ上京するまでもないようなそうでないようなよくわからんけどまあその日その時の気分次第だ。じぶんの気分だけが確かなのだ。それ以外の声に従う必要などいっさいない。