20130215

 歓喜と同じように沈黙もうつるものだとイヴォンヌは思った。ある集団が気まずく黙り込むと、別の集団もぎこちなく黙り込み、さらにそれが別の集団にもっと漠然とした、無意味な沈黙を引き起こし、全体が静まり返る。この説明のつかない突然の沈黙ほど、この世で強力なものはない――
マルカム・ラウリー斎藤兆史・監訳/渡辺暁・山崎暁子・共訳『火山の下』)

人生には無駄にする時間などない。それなのにどうして、時間以外のすべてのものはあんなに無駄にしなければならないのだろう?
マルカム・ラウリー斎藤兆史・監訳/渡辺暁・山崎暁子・共訳『火山の下』)



12時前起床。腐れ大寝坊。起き抜けにちょろっとduo。一日に二度ずつある起き抜けか就寝前のどこかでduoのテキストをぱらぱらっとめくる習慣を新たに取り入れたい。仮眠前がベストかな。仕事のある日は職場の空き時間ですますようにすればいちおう毎日の営みということでケリがつく。
寒くて出かける気になれなかったので日中は自室で読書。ホイットマン『草の葉』読み進める。《ぼくのなかにはいのちの愛撫に目のないやつが住んでいて、どこへでも動き、前方ばかりか後もどりもする、/人目につかぬささやかな片隅へも足を向け、人でも物でも一つとして見落とさず、/すべてをぼく自身にこの歌のために吸収してしまう。》とか《いっそぼくは何もしないで聞くだけにしよう、/聞こえる音をこの歌に折折に歌いこむため、あまたの響きを歌の織糸として織りこむために。》あたりは「偶景」のエピグラフにしてもいいかもしれない。犬式が「草の葉」第32節として楽曲化しているパートがかなり好きなのだけれど、楽曲の中で朗読されているのは旧約なのか何なのか一人称が「わたし」で文章もわりと格調高い感じになっているのに反していま手元にある版(岩波/酒本雅之・訳/1998年版)では一人称が「ぼく」で文章もけっこう軽い感じだったりして、これなんとなく原文の雰囲気だと「わたし」でも「ぼく」でもなくむしろ「おれ」と名乗る語り手によるもっとごつごつとして力強くマッチョな語り口になっているんでないかと思われないこともないのだけれどそれはともかくとして、じぶんとしては「わたし」による格調高い『草の葉』が読みたかった。たとえばブコウスキーの小説なんかでも一人称が「おれ」で荒っぽい言葉遣いで訳されているものよりも一人称「わたし」による一見すると落ち着いて知的に見える語り口のほうがずっと面白くブコウスキーの破天荒っぷりをいきいきと表出しているようにみえるし、暴力的でサディスティックなにおいが常にまとわりつく(…)さんの小説の語り手がつねに「わたし」であることの強い印象の秘密もここにあるように思われる。
夕方生鮮館に徒歩にて買い出し。野菜がやたらと安かったのでたくさん買った。水菜、畑菜、春菊、ほうれん草、九条ねぎ、えのき。いちど帰宅してから近所のダイソーに再度出かけて日曜日の悪企みに備えて入り用のブツを購入。のち小雨の降る中ジョギング。かなりしんどいペースで走った。走り終わるころには両肩でぜえぜえ息をつくくらい、なんだったら油断すると吐きそうになるほど疲れきったが、しかしこれくらいのペースで走るほうが汗もたっぷり掻くし手応えのようなものも感じられてよろしい。いつもと同じルートを逆回りで走ったのも良かったかもしれない。とはいえこれはきのう(…)くんとスカイプしているときに話したことでもあるのだが、疲れれば疲れるほどよろしいという発想は苦労は買ってでもしろという発想に結びつきやすところがあり、そして苦労は買ってでもしろという発想はまったくもって忌むべきものにほかならず、というのは「どうしてこれだけ苦労(努力)しているのにじぶんは報われないのだ!」という醜悪なルサンチマンにたやすく接続されるものであるからで、ゆえにニーチェも語っていたとおり苦労を誇るなどというはしたない真似などしてはいけない。そんなものは醜悪だ。苦労を誇るひまがあるならできるだけじぶんが楽に過ごせるポジションを探すべきだ。これは日本人に特有なアレであるのかどうかはわからんが、なるべく楽なポジションを探そうとする努力をハナから放棄して苦労に耐える努力のほうこそを「これこそ美徳である!」という封建時代の産物というほかない慰めの論理としてもあまりに稚拙な意気とともに選択するというのはいったいどういうことか。そしてその手の連中にかぎって楽なポジションを手探りしつづける創造的な人間を指差して「ずるい!ずるい!おまえはずるい!」と馬鹿の一つ覚えのように叫ぶ。醜悪だ。滑稽だ。愚昧にもほどがある。ブラック企業がうんぬんかんぬんとかいまさら何を言ってるんだという話だ。出る杭を打ち、長いものに巻かれ、苦労とは美徳なりという征服者のプロパガンダにまんまと染め抜かれ、本来なら連帯すべき水平関係にあるもの同士で足の引っ張り合いをしつづけた結果がこれだ。すべて奴隷根性が呼びよせたもの。Q.E.D. 虫酸が走るわ。ぺっ。っていうこのスタンス。さびしさはまだ鳴ってるの?
入浴・洗濯・夕食・仮眠。23時より1時まで「偶景」執筆。4つ追加で計141枚。それから2時過ぎまで「邪道」執筆。こちらはプラス2枚で計422枚。難所をひとつ乗り越えたので気分が良い。400枚を越えてしまうと応募を受け付けてくれる純文学系の新人賞というのはなくなってしまうという話はきのう(…)くんともしたのだが、そしてその際どうにかして400枚以内におさえてみようみたいな色気はないんですかと問われもしたのだが、結局のところこれもなにを優先事項にするかという話で、じぶんの最大の欲望は何かということを考えてみるに、やっぱりじぶんの納得のいくものを書きあげたいというのがいちばんで、それでその自分本位に書きあげたものが(あくまでも)結果的になんらかの賞を受賞するにいたればいい、読者を獲得するにいたればいい、金に変わることがあればいいという願望が続くというのが正直なところだから、そりゃあ色気もゼロとはいわないが、しかし何度も繰りかえしているとおりこの「邪道」という作品はおそらく分量があってはじめてその作品としての力を発揮できるタイプのアレだと思うので、新人賞ってやつにはひとまず目をつむってこれから半年か一年か二年かわからないが、腰を据えてやっていこうと、そんなふうにすでに踏ん切りがついている(ただ、枚数制限なんか無視して編集部に送りつけてやるのもアリかなぁとは思うけれど)。こうした結論をしてただのカッコつけにすぎない、そんなものはプロではないと断じられたことも過去にあったが、プロ(の定義についてはいったんここでは措くとして)として活動できればもちろんそれに越したことはないものの(書いたものがまがりなりにも金になるということはすなわちそれだけ労働時間を減らすことができる、つまり、読み書きの時間の確保することができるということである)、しかしそれは自分の納得いくものを書きあげる(傑作にたいする強烈な執着!)という最大にして最少の欲望にくらべたらやはりいくらかなりと見劣りする願望にすぎない。職業作家になってじぶんの書いたものだけで身を立てることができれば万々歳だが、これだってとどのつまりは、結果的に、事後的に、ある種の副産物としてそんなふうな道が切り開かれてくれればいいというような二次的な展望にすぎない。こういう話をするとなぜか途端に気色ばむひとがいるが、そういうひとにはいちど胸に手をあててなぜじぶんがいま苛立っているのかと自問してもらいたいといつも思う。ずるい!ずるい!と叫びどおしのヒステリックな声が聞こえやしまいか。