20130220

概念が差異を統御しうるには、多様性と呼ばれるものの核心にあって知覚が概括的類似を把握することが必要である(そして包括的類似性は、そののち局部的な差異と同一性とに分割されよう)。新たにかたちづくられる表象関係は、その一つひとつが、ことごとく類似性を顕示する表象作用を伴っている必要がある。そしてこの表象的空間(感覚=映像=想起)にあって、類似性を示すものは、量的等価性の試練と段階的な量の増減性の試練とにかけられるだろう。測定可能な差異の一大図表がかたちづくられることになるのだ。そしてその図表の一劃の量的な距たりが質的な変異性とかさなりあって零となる横座標上に、完璧な類似が、正確なる反復が得られるという次第である。概念にあっての反復とは、同一なるものの関与性なき振幅にほかならなかったわけだが、それが表象作用にあっては相似の統合的原理となる。とはいえ、相似、つまり完璧な相似と相似性の最も劣ったもの、――最大と最少、最大限の明るさと暗さ――とを認識するのは何者なのか。良識である。認識し、同価性を確立し、偏差を標定し、距離を測定し、同類化し、分割するのは良識なのである。それこそ世の中でもっとも見事に分配されているものだ。表象作用の哲学を支配しているのは良識なのである。その良識というものを堕落させ、思考を類似性の調和ある一大図表の外部で戯れさせてみよう。そのとき思考は強度の作用する鉛直性として姿をみせる。強度とは、表象作用によって段階づけられるより遥か以前に、それ自体として一つの純粋な差異となっているからだ。それは転移し反復される差異であり、収縮し膨張しもする差異であって、その鋭い事件性において緊張し弛緩する固有の点であり、無限の反復なのである。思考というものは、強度を伴う不整合性として思考さるべきものなのだ。自我の解体である。
蓮實重彦・訳『フーコーそして/あるいはドゥルーズ』よりミシェル・フーコー「劇場としての哲学」)



10時起床。中国から帰国したらしい(…)さんと水場にて軽く挨拶。朝食をとったのち地下鉄で宝ケ池にある自転車保管所へ出向く。電車に乗るといつも特別なことをしている気分になる。電車を頻繁に利用する生活というものをいちども送ったことがないので、いまだに車内ではそわそわするしわくわくする。駅の外に出てからの道のりについては事前にネットでみっちりチェックしておいたのだが、そこはまあ例のごとくアレなじぶんであるので、しばらくうろうろと近場をさまよったあげく、コンビニのレジに入っていたパートのおばちゃんに道をたずねて教えてもらった。歩いていると教会がやたらと目につく。学生時代の恋人とまだ付き合いだして日も浅いころだったかにいちど北山通にある教会をおとずれた記憶があるのだけれど、ひょっとしたらこのあたりだったかもしれない。保管所にたどりついたところで、マクドの駐輪スペースに停めておいたものを撤去するというのはいかがなものかと係員相手に問いかけると、そういう諸々はこちらのほうが対応しますのでと市役所の自転車政策課とかいう部署の名前がしるされた電話番号を提示されたので、いわれたとおりに電話した。市民の窓口とかいいながら肝心なことになるとわたしらはマニュアル通りに従ってやっているだけですのでというそれ自体がマニュアルにあるらしい口上の一点張りで、こりゃ窓口じゃねえ鉄の扉じゃないかとたいそう腹が立った。市内の自転車利用者数と駐輪場の台数がまったく見合っていないという事実はもうずっと以前から指摘されているだろうにそこんところを改善せず後手後手にして、なんらの構造的解決をもたらすことのないその場しのぎの撤去策に打って出たというところまではまだわかるにしても、駐輪スペースに停めておいたケッタが第三者の手により公道に動かされてしまったのをそのまんま撤去しておきながら、それにたいする謝罪の言葉はひとつもない。これもまだわかる。ぎりぎりわかるが、しかしこういう「事故」がやすやすと生じてしまうそちらのいう「マニュアル」や「手続き」、果ては政策の不備にかんする弁明はひとつもないのかというこちらの言葉にたいしてそんなものはすべてあなたの自衛の問題だと言い放った役所側の言葉にはさすがに我慢がならず、思いきり声を荒げた。たいそう頭にきていたのでそこから相手側の言い分のおかしなところをくまなくつつきまくった。マニュアルに従って対応していた相手がやがて言葉につまりはじめ、最終的には黙りこんだ。アホらしくなったので電話を切った。もうええわ、という最後のひとことがいかにもクレーマーらしく響いたが、モンスターペアレンツとかそれに類する言葉やらがやたらな歓迎ムードのなかで流通し支持されるいっぽうで言いたいことも言えないポイズンな世の中になっちまうくらいならおれは最凶最悪なモンスターでありたい。将来の夢は魔王ですと言いきってやりたい。
帰り道にそのままネコドナルドに立ち寄り「邪道」作文。12時半から15時半まで。プラス2枚で計429枚。満員御礼の店内。いつもの二階席が空いていなかったので一階席の道路に面したカウンター席に腰をおろしたのだが、これはこれで悪くない。前の歩道をゆくひとびとの姿をぼんやりとながめるのは良いものだ。
一時帰宅したのち図書館へ。返すべきものを返し借りるべきものを借りる。ついでに生鮮館に立ち寄って食材購入。帰宅。炊飯。ストレッチ。ジョギング。序盤からとばしすぎたせいでバテた。途中で何度か歩いた。極寒のためもあって汗はほとんど掻かなかった。走るまえに水分補給してある日とそうでない日とではぜんぜん疲れやすさが変わってくるらしいということに気がついた。シャワーを浴びに大家さんのところへいくと、ちょうど風呂の掃除を終えたばかりだという大家さんがあられもない裸体とともに出迎えてくれた。互いにいっさいの動揺なし。食事を終えたところで第一部終了。
30分の仮眠をはさんで21時起床。第二部開始。21時半からサイゼリヤで読書。性懲りもなくホイットマン『草の葉』を読みすすめる。ドリンクバーのみで1時過ぎまで長期滞在。なぜかものすごく居心地が良い。とにかく読書がはかどる。匿名性に安住することができるからなのかもしれない。これで電源があれば最高なのだけれど。『草の葉』は上巻の時点ですでにかなり同性愛色が強かったけれど、うたわれる詩の素材が南北戦争時代のできごととなる中巻においてその傾向がますます強くなるというか、ほとんどスパルタ軍的な愛と絆といっていいものが大いに称揚されている。奴隷制の廃止をうたっていたり、「自由」をなにものにも代え難い特権的な対象としてまつりあげていたりするのだけれど、こうした思想を直接的にかたちづくっている動機もおそらくはカトリック的な倫理にたいする同性愛者からの反旗なんではないか。あと、リンカーンの死を嘆く一連の詩の中に《もはや彼には現世の抗争の嵐は吹かず、/勝利もなければ敗北もなく――もはや時間の国の暗い事件が、/空をよぎってとめどなく湧く雲のように襲いかかってくることもない。》というくだりがあって、この「時間の国」という表現はちょっとすごい。
帰宅したところで(…)さんからメール。本の整理が終了したとの由。ダンボール三箱分はあるらしい。ひとまず明日の深夜に喫茶店で落ち合いましょうと約束。思いがけぬ書物との遭遇を期待している。