20130221

 差異を解放するには、矛盾なき思考、弁証法なき思考、否定なき思考がわれわれに必要である。多様性に向って肯定の言葉を口にする思考が必要である。分離という手段をそなえた思考が必要である。倍数的な思考――同一なるもののいかなる拘束もその限界を設定することもなく集団化させることもない、拡散し放浪する多様性からなる思考が必要である。学校教育的な規範(できあいの解答が仕掛けをつける)に従属することはなく、解決不能の問題へとおのれをさしむける思考が必要である。つまるところ、その成立条件を識別するにつれて転移し、反復の戯れのうちに強固におのれを顕示し、また存続する着目すべき点からなる多様性へとおのれをさしむけるような思考が必要なのである。高みにあってたえず解答を隠匿しているだろう「観念」のさらに不完全にして混乱した映像であるどころか、問題とは、観念そのものなのだ。というか、むしろ「観念」は問題体系としてよりほかの存在様態を持ちえないのである。それはすなわち、曖昧さがなおも翳りを持ちつづけ、そこにあっての設問がたえず運動をやめないような明晰な複数性である。設問に対する解答とは何か? 問題というものがそれである。いかにして問題を解くのか。設問を転換することによってである。問題は、排中律の論理をまぬがれるものなのだ。それは、問題が拡散する多様性にほかならぬからである。問題は、デカルト的観念の弁別的明晰さによって解かれはしまい。問題が弁別的=曖昧な観念だからである。それは多様なる肯定であるが故に、ヘーゲル的否定性の生真面目さには逆らう。存在=非在という矛盾に従いもしない。問題とは、存在することなのだ。弁証法的に問いただし答えを引きだすことよりも、むしろ、問題体系の一環として思考すべきなのだ。
蓮實重彦・訳『フーコーそして/あるいはドゥルーズ』よりミシェル・フーコー「劇場としての哲学」)



11時起床。極寒。今週に入ってからずっと寒い。粉雪のちらつかない日がない。それでも今日は外に出ると日射しがぬくたかった。ひさびさの快晴である。ゆえに気分は悪くない。早く暖かくなってほしい。暖かくなれば花粉が飛散しはじめる。外に出なくなる。日射しも浴びる機会もとんと絶える。ようやくにしておもてを出歩きはじめるころには梅雨を間近に控えている。このろくでもないロングシーズン。
13時から16時半までネコドナルドにて「邪道」作文。プラス3枚で計432枚。いっこうに先に進まない。ひたすら序盤に踏みとどまり加筆し続けている。きりがない。というより、きりがありえない。きりもありえなければ目処もありえない、そんな作品を目指して書きはじめたのだから、当然といえば当然の帰結だ。しかし先が思いやられる。今年いっぱいくらい持っていかれるんだろうか。寿命がぜんぜん足りない。千年とはいわずともせめて三百年くらいは生きたい。
生鮮館にて買い物。筋トレ。夕食。仮眠。入浴。21時過ぎより逃現郷にて読書。ウォルト・ホイットマン『草の葉』中巻読了。のちドゥルーズフーコー』抜き書き。ぜんぜん進まん。(…)さんから書物20冊程度いただく。ざっとチェックしたかぎりでは柄谷行人『探究』、細身和之『アイデンティティ/他者性』、守中高明脱構築』あたりが面白そうか。時間はどれだけあっても足りん。もっと書いて、もっと読んで、もっと観て聴いて遊んでしたい。
深夜、自室にて強烈なディプレッション。こんな気分のときにだけ書きつないでいく小説があってもいいかもしれない。そういうものを設けておきさえすれば、このつらさを肯定することもできるような気がする。ベニヤ板いちまいで隔てられた隣室からフィッシュマンズの、たぶんウォーキンインザリズムだと思うけれど、ベースラインがたどたどしく何度も繰りかえし聞こえてくる。気のせいかもしれないが。二日ほど前からピアスが見当たらなくなってしまったので、バンコクで購入したウッドの00Gを代わりに装着している。ピアスはだいたい年に三度くらいなくす。最近は床にもぐりこんでからipodで音楽を流しつつ入眠するのがならいとなっている。今日は高橋アキの演奏する武満徹を聴いた。きのうはたぶんピンク・フロイドのファースト、おとついはハーパース・ビザール、その前はAcid Mothers Templeだった。