20130219

事件とは、命題にとっての指向対象として役立つ事物の状態ではない(死んでいるという事実は、それに照らしあわせて立語が真理とも誤謬ともなりうる一つの状態である。死ぬということは、断じて何を立証することもありえぬ一つの純粋な事件である)。指向対象を中心に据えるのが伝統の三段論法にかわって、四元的な一つの戯れを導かねばならない。「マーク・アントニーは死んだ」は、ある事態を指示し、発話者の意味なり確信なりを表現し、一つの断定の記号であり、その上、「死ぬこと」という一つの意味をになっている。それは触知不能の意味であり、その意味の一方の面は「死ぬ」ことが事件としてマーク・アントニーに起るものである以上はものに向っており、またいま一方の面は、死ぬことがエノンセとしてアントニーについていわれているものである以上は命題の方に向いている。死ぬこと。それは命題の領域であり、剣が生ぜしめる非肉体的な効果であり、意味と事件であり、厚みも物資もともわない点である。すなわちそれをめぐって言葉が語られ、また、事物の表層を滑走する点なのである。認識可能な対象の中心のごときものをかたちづくるノエマ的な核の中で意味を圧縮するよりも、むしろ、ものについて語られるものとして(ものの属性ではなく、ものそれ自体としてでもなく)、また生起するものとして(過程としてではなく、状態としてでもなく)ものと言葉との境界地帯に意味を漂わせておこう。典型的なかたちで、死とは事件中の事件というべきものなのであり、純粋状態の意味ということなのだ。というのも、死はディスクールの匿名の泡立ちの中に住まうべき場を持つからである。死とは、語られる対象であり、きまって到着済みであると同時にどこまでも未来のものとしてあるからで、それでいながら、死は個体性の限界点に起りもする。意味の事件は死のごとく中性的なものなのだ。「終局ではなく終りがないものであり、何ものかの死ではなく何ものでもよい死であり、正真正銘の死ではなく、カフカの言葉のごとく、死が犯した最大の錯誤への嘲笑なのである」。
蓮實重彦・訳『フーコーそして/あるいはドゥルーズ』よりミシェル・フーコー「劇場としての哲学」)

死ぬことは、いかなる瞬間の厚みの中にも位置を占めることはなく、その移行する尖端がこの上なく短い一瞬を無限に分割するのだ。死ぬことは、死ぬと思う瞬間よりもさらに小さいのである。そしてこの厚みのない裂け目の両端で、死がどこまでも反復されるのだ。では永遠の現在だというのか。現在を充足なきもの、永遠を統一なきものと思うという条件でならそうである。現在(位置のずれる)の永遠性(多様な)というわけだ。
蓮實重彦・訳『フーコーそして/あるいはドゥルーズ』よりミシェル・フーコー「劇場としての哲学」)



9時半起床。二度寝。11時半起床。腐れ大寝坊。実家の台所にて職場の面々とともにそろって違法行為に耽る夢。朝食にはひさびさとなるフルーツグラノーラ。いぜん住んでいた収納なし四畳半アパートの息苦しさが鮮烈によみがえる。
寒さに負けじと一念発起してネコドナルドへ。ここ数日の寒さはやばい。狂ってやがる。13時から16時までちらつく雪を窓越しにながめながら「邪道」作文。プラス5枚で計427枚。はかどった。くだらない下ネタをふたつ挿入した。後半に進むにつれて自説の開陳みたいな退屈さに傾きかけていくところがあるように思うので、なるべく馬鹿っぽいテンションを持続したまま最後までたどりつきたい。いちおうは推敲のていで冒頭から読み直しているものの、このペースで削除よりも加筆が上回り続けるとすると、500枚ではまったくもってきかないというか600枚でもかなりあやしい。700枚を目処にしておいたほうがいいかもしれない。700枚! 大長編だ! これまでに書いたなかでいちばん長いものでもたしか400枚ちょっとだったから(書きおえた数日後にデータごと削除してしまったから正確な枚数はわからないけれど)すでにして最長記録更新中だ。今日書いた記述はかなりよい出来映えだった。毎日こんなふうに書ければいうことないのだけれど。30歳になるまでにどれだけ散漫で雑な書き方をしてもこの水準の記述を編み出せるくらいの地力をつけたい。
作業中、放置自転車を荷台にのせたトラックが店の前の通りに停止しているのには気づいていた。気づいていたが、あふれかえった店の駐輪スペースのそばに停めてあるのだから事情はわかるだろうと、あるいはそうでなくとも最初は警告シールの貼付けみたいなものだけで済むんじゃないだろうかと、その後ふたたび巡回に来たときにシールの貼付けられたままのものがあればそこではじめて撤去するという仕組みになっているんだろうと、なんとなくそんなふうに思っていたのだけれど、いざ作業を終えて店の外に出てみれば余裕で撤去されていた。とりあえず近くにあるコンビニでネット料金を支払い、銀行で金をおろし、ビブレの中に入っている家電屋でプリンターのインクを購入した。そうこうするうちにだんだんと頭にきて、市役所に火をつけてやりたいと(…)にメールを送った。(…)は新しい自転車を買うかもしれないとわりと最近言っていたので、これを機にじぶんもその流れにのっかって五万円くらいするカッコイイやつを買ってやろうかとも思ったが、パンクを修理したばかりのこのタイミングで手放すのもアレだなーと思ったし、それにあのケッタは(…)さんから譲っていただいたブツでもあるわけだから手放すにしてもなんかこういういい加減なやりかたでするのはどことなく気がひけるなーというのもあったので、明日か明後日にでも取り返しに出向くことにした。
とぼとぼと徒歩で帰宅。愛すべきストア(古井由吉風)生鮮館に買い物に行こうかと思ったけれど冷蔵庫の中はそこそこ充実していたし何よりイカれた寒気にこれ以上身をさらすのは堪え難く思われたため、ひとまずありあわせのもので夕食をつくることにした。と、その前に筋トレをしたのだったけれど、部屋についている押し入れの扉を利用すれば以前住んでいた円町のあばら屋で鴨居を利用してできたようにこの部屋でもやはりまた懸垂ができるということが先日発覚していたため、晴れて今日それに挑戦したのだったけれど、上げ下げをなるべく時間をかけてやるという縛りがあるとはいえ連続で五回しかできなくなっていたのでこりゃアカンと思った。3セットをこなすころには腕の筋肉が断裂してしまったのではないかと思うほどぷるっぷるのぼろっぼろで、水場までまな板やら鍋やら食器やらを運ぶのさえあやしかった。
夕食と仮眠のゴールデンコンビによって例のごとく2013年2月19日の前半部を終え、30分後の起床とともに同年同日後半部を開始することにして、さしあたっては入浴なり、とその前にまず洗濯機をまわしたのだったか。あるいは洗濯機をまわしたのは夕食の準備中だったかもしれない。そんな細部はどうでもいい。馬鹿をいうな。小説の小説性は細部にしか宿らないのだ。入浴するまえに大家さんのところに出向きヒーターの灯油をいれることにしたのだが、懸垂により腕の筋力が疲弊しきっているのは抜きにしてもこの灯油をいれる容器の口がきつくしまりすぎているのかなんなのか、いつも開けるのに一苦労する。奥歯を思い切り噛み締めてぐぐぐぐっと手に力をこめてもいっこうに緩まない。手のひらの皮が剥けるくらい悪戦苦闘してようやく開くというのがいつもだ。これはなんとかしていただきたい。DAINICHIのヒーターは地球環境にやさしいつくりになっているのかもしれないが、人体にはまるでやさしくない。そして人体とはいうまでもなく地球環境の一部だ。さて、どう責任をとってくれる?
寒い日は風呂にゆっくりと浸かるにかぎる。日曜日と水曜日が寒い日だと悲惨である。なぜなら、日曜日と水曜日は湯を新たにはりなおす翌日にそなえて大家さんの手によりすでに古い湯が抜かれてしまっているから。そうするとあの水量温度とともにまるで安定してくれないカンボジアのゲストハウスと肩を並べるレベルのシャワーだけで極寒のなか身体を洗うことになる。それはけっこうキツい。だが今日は火曜日だ。風呂の湯は二日目で、まだまだきれいだ。ゆっくり浸かった。ゆっくり浸かってから外に出て着替えていると――脱衣場などという洒落たものはここにはない、入浴の帰結として全裸で外気と対峙することが要請されるのだ、むろん何もかもが丸見えだ、だれも見たがらないだろうが――大家さんがやってきて、東京のほうにあるそばやが火事で、と切り出す。息子に灯油を使うなと叱られましてな、こんなおぼつかない身体でそんなものを取り扱ってはいけないと言われたばかりのところで、と、これはいつもの癖なのだがすがるようにしてこちらの手をさすりながら続けるので、これはひょっとすると生粋の京都人らしく暗にこちらに灯油を使うなと戒めているのだろうかと思い、とりあえず、僕も取り扱いには気をつけますんで、と応じると、いやいやあんたは大丈夫、あんたは本当にしっかりしとる、洗濯物なんてほれ、ぜんぶぴしっとなってはって、人柄ですな、人柄が出てますやろ、あのーほれ、このお風呂なんかもですな、あんたがつこうたあとはいつもきれいでっしゃろ、やけどこういうこと言うんもアレやけどな、他の方はときどき使いおわったあとも水滴が垂れていたりするんですわ、あとひとひねりしてくれたらええだけの話なんですけれどなぁ、これがなかなか、まあー(…)さんはいつもきれいに使ってくれて、どうもおおきに、あんたのあの洗濯物なんてほんとぜんぶがぴりっとしてな、料理もいつも器用に作ってはるし、さぞお母様の仕込みが良かったんやろなぁといつも思うんですわ、ええ、そうでっしゃろ、あんたのお母様どんなひとかいっぺん見てみたいわ、よくよく仕込まれて、ええ? と、そんなふうに立て板に水な時間が続く間中ずっと大家さんはあいかわらずこちらの右手を両手でとって何かにすがるようにさすりつづけていて、中学に入ってまもなく母親が体を悪くして入院することになった、その時期以降かんたんな家事はすべてじぶんが担当することになったのが大きいのだと思う、とこちらが応じる間もさする手の動きは変わらず、こんなことされているとしだいにじぶんがありがたい仏像か何かになったような気分になってくる。
夜は自宅待機。サイゼリヤにでも出向いて読書するつもりだったが、ケッタはないし外はイカれた寒さであるし、おとなしく自室にとどまりコーヒーをがぶ飲みしながら『草の葉』の続きを読み進めた。