20130222

差異を解放するには、非=カテゴリー的な思考の創出が必要なのだ。創出とは、しかし単なる口さきの言葉ではない。哲学の歴史の上ですくなくとも二度、存在の一義性の根源的な編成がなされているからである。すなわち、ドゥンス・スコトゥススピノザによってである。だが、ドゥンス・スコトゥスの考えでは、存在は中性的なものだったし、スピノザの考えでは実体であった。この二人のどちらにとっても、カテゴリーの放逐、つまりあらゆるものをめぐって存在が同じ仕方で言及されるという断定は、ことの判別にあたって水準をどこまで高めてみたところで、たぶん存在の統一性を堅持せんとする以外の目的を持つことはなかった。だが逆に、あらゆる差異をめぐって存在が同じ仕方で言及として、その言及が差異のみに限られているといった存在論を想像してみよう。すると、事物はドゥンス・スコトゥスにおけるがごとく存在の大がかりな単彩象徴画ですっかり蔽われはしまいし、スピノザ的様態も、実体的統一性の周辺を旋回することもあるまい。存在はあらゆるものをめぐって唯一のあり方で言及され、その先導者となり配分者ともなる統一性ではいささかもなく、差異としてのその反復になっているのだから、差異はみずからの力で旋回することになるだろう。ドゥルーズにあっては、カテゴリー的ならざる存在の一義性は、多様的なるものを無媒介的に統一性と結びつけはしない。(存在の普遍的な中性性または実体の表現力)。差異をめぐって反復的に言及されるものとして存在を戯れしむるのだ。存在とは、差異の回帰であり、存在をめぐってなされる言及のうちに差異は存在しないのである。
蓮實重彦・訳『フーコーそして/あるいはドゥルーズ』よりミシェル・フーコー「劇場としての哲学」)



11時半起床。8時ごろにいちど大家さんが戸をがんがん叩きまくりながら「(…)さん!(…)さん!」と叫ぶのが聞こえたので何事かと思って出ると、焼き芋を焼いたから食えというアレだった。後で温めなおして食べればいいのに、焼きたてで食べたほうがうまいに決まっているという思いに駆られて、ねぼけた頭で食った。そして食い終わって10秒も経たないうちに二度寝した。二度寝から覚めて歯磨きをするためにおもてに出るととても良い天気で、空気の中に花粉のにおいがはっきりと嗅ぎ分けられたので、そうだ耳鼻科に行こうと思った。京都に来てからずっと通いつづけている耳鼻科があるのだけれど、いま潜伏している掘建て小屋からドアtoドア(という表現はずっと以前(…)くんに教えてもらった)で徒歩1分未満のところにこぎれいな外観の耳鼻科があるので、七年だか八年だかにわたって世話になりどおしだった(…)先生には悪いけれども今年の春からはこちらの病院で世話になることに決めた。で、たぶんそうだろうなと思いつつくだんの耳鼻科に出向いたところ案の定ちょうど午前の診療が終わったばかりで午後の部は16時スタートとあったので、ドアtoドアで徒歩一分の掘建て小屋にもどってマックをバッグにパックし、ケッタに乗って薬物市場にむかったのが13時半、17時前までひたすら「邪道」の作文に没頭した。プラス3枚で計435枚。加筆! 外挿! 加筆! 外挿! ばかりでぜんぜん前に進まない。
作文を終えてから図書館に行き高橋アキNasを返却して高橋アキエリック・ロメールと『ブッダのことば』を借りる。買い物はせずにそのまま帰宅し、荷物だけ置いてからドアtoドアで徒歩一分の耳鼻科へ。幼子ばかりの待合室。アンパンマンの絵本をちいさな息子にむけて小声で、しかし抑揚ゆたかに読みあげる母親の情景がよかった。バイキンマンがフェードアウトする際に発するあの「は〜ひふ〜へほ〜!」をあの「は〜ひふ〜へほ〜!」のままにきちんと発音するのだけれどそこにいっぺんのためらいもなければ羞恥心もないのがすごい。人前だろうがなんだろうが慣れっこなのだ。それが日常なのだ。ふつうの営みなのだ。診察室の設備をみるかぎりではこれまでお世話になっていた耳鼻科よりもずっとしっかりしているっぽかったのでさようなら(…)先生と思った。あの病院は天才肌なのかそれともただいい加減なだけなのかがよくわからない(…)先生と病院の規模のわりにはやたらと多い受付嬢(みんな若くてみんな似たようなきれいどころ!)がたぶん売りだったんだろうが、今日から世話になることに決めたこの病院でのように鼻の穴につっこんだカメラでもって鼻孔の炎症具合をモニターに映し出してくれるなんてことはいちどもなかった。まあ別にそんなんことさら見たいとも思わんわけだけれど。まだ症状はそれほど出ていないし眠気の副作用が邪魔くさいのでピーク時以外はなるべく薬は抑えめでいきたいというこちらのリクエストもしっかり通り、とりあえずは二週間分、夜寝るまえに服用する抗アレルギー剤だけでやっていこうという流れになった。花粉の飛散は来週あたりから一気にひどくなるだろうと先生はいっていた。じぶんの鼻もすでにそのきざしを感知している。
帰宅後ジョギングに出かけようと思ったが、夕暮れ時というのはたしか日中空高くを舞っていた花粉が地上付近にだんだんと降下してくるという時間帯で実をいうと日中と同等かそれ以上にやばいという話を高校生くらいのとき特命リサーチか何かで目にした覚えがあるのでまずは夕食をすませることにした。夕食のおともはエリック・ロメール『友だちの恋人』。ロメールの多幸感! 見るものにこれほど幸福な笑いをうながすものはほかにジャック・ロジェくらいしかいないような気がする。不在のアレクサンドルについてうわさ話するレアとファビアンの会話の内容に思わずこみあげる微笑をどうにか抑制しながらしかし興味津々に耳をかたむけるブランシュの恥ずかしげで落ち着きなくそわそわした仕草だけを対話するふたりをそっちのけにしてじっくりととらえるカメラ。小気味よい会話をかわすアレクサンドルとレアの傍らでいまひとつその中に入りこむことのできないブランシュの二度にわたる戸惑い。アレクサンドルではなくファビアンを猛プッシュするアドリエンヌの執拗かつ挫けぬ推薦を何度となくふっきろうとしながらもしかしなんだかんだと引き止められてしまうブランシュの滑稽な愛しさ。そしてデートというのはやはり歩いて走って動き回るのに越したことはないのだという青春の確信! その他、緩衝剤としてのカットぬきでザクザク場面(時-空間)を前進させていく淡白であらっぽい手つき・赤青黄緑と多岐にわたる登場人物らの身につける原色の衣装のすばらしさ・森の中で少女と出会うという幼いころからの夢想についてファビアンが語るさいにゆっくりとなめるようなカメラによって映し出される美しい林の風景(この唐突な美しさは『フォーエバー・モーツァルト』における雪の降り積もった海岸のショットと質的に通ずるところがある)・ブランシュが最後の瞬間に発する元気一杯な「ウーウ!」の呼びかけ・あるいはレアからかかってきた電話に事務所で出るときに発する甘い疲労をただよわせた「アロー?」の応対なども印象に残ったが、そのあたりのことについてはすでに前回鑑賞時にあますところなくきっちりと書いていたようなのでいまさら長々と繰りかえす必要もあるまい(…)。映画を観ながらとった携帯のメモに前回書き記したのとまったく同じ「緩衝剤」という語がまったく同じ意図で記されることになったのにはちょっと驚いたし、同様に、レア役の女優が往く行方知れずとなっている叔母にちょっと似ているという今回もやはり抱くことになったその感想が律儀に書きとめられていたのにも笑った。
映画鑑賞後、水場にて食器を洗っていたところ、部屋にある唯一のコップを割ってしまった。もともと縁のところがひび割れていたり欠けていたりしていい加減そろそろなんとかしないとと思っていたというか(…)さんにわりとしょっちゅう職場で(…)くんの部屋には客人に出すためのコップがひとつもないんですよ! お茶漬け出されるよりもたちが悪いってもんですよ! などと言いふらされていたりするので、ふたつみっつまとめてどっかで買ってこなければなるまい。食器を洗いおえてたしか22時前、極寒だったがここでサボれば今後も理由をつけてサボりつづけるだろうという怠惰のドミノ倒しを警戒する気持ちをふるいたたせてジョギングに出かけた。なかなかよいペースで走ることができた。
帰宅後入浴。のち布団にもぐりこんでから丑三つ時まで(…)くんの小説をぽつりぽつりと読む。ところで、一年前の今日の日記(…)がクソおもしろい。