20130223

回帰することのなもの、それは類似せるもの、相似せるもの、同一的なるものである。差異は回帰する。そして存在は、同じ仕方で差異として言及されるものだが、だからといって「生成」の普遍的な流れなのではない。また、「同一的なるもの」の中心の確かな円環でもない。存在とは、円環の曲線性から解放された「回帰」なのだ。
蓮實重彦・訳『フーコーそして/あるいはドゥルーズ』よりミシェル・フーコー「劇場としての哲学」)



6時20分起床。パンの耳トースト2枚とココアとヨーグルトとフルーツグラノーラというたっぷりの朝食。8時より12時間にわたる奴隷労働。昼食はカレー二皿。夜食べるのを控える分、朝と昼間はなるべくしっかり食べようという魂胆だったのだけれど、蓋を開けてみれば夜は夜でいつもと変わらぬ程度というかむしろいつもより若干多く食してしまったのは仕事帰りに立ち寄ったフレスコで牛乳を買い忘れてしまったことに帰宅後すぐに気づきあわてて閉店間際の生鮮館に出直したところ半額品の海鮮巻きを発見してしまったからであって、寿司は美味い。原発事故以降、海の幸を食す機会のほとんどない生活が続いているので、たまに食べると余計に美味く感じる。職場ではまた(…)さんから酩酊時の駄目出しを食らった。会話のキャッチボールがとにかくできない、日頃どれだけ他人と没交渉な生活を送っているのかよくわかる、ひとと話し慣れていない人間の酔い方だ、とさんざんいわれた。おしゃべりだといわれることもあればおとなしいといわれることもあるし、弁が立つといわれることもあればまともに会話ができないといわれることもあって、じぶんという人間がどんどんわからない。ひとの性格に正面はなくただ無数の側面だけがあるばかりというのが要するに妥当な着地点といったところなのだろう。ただ、話題が小説になるとそのときだけひとが変わったようにやたらとはっきりとした口調で何やらしっかりと意味の通った主張をしていた、そこだけはすごかった、無意識が小説に占拠されていると(…)も驚いていたと、その点だけ褒めていただけた(?)のはありがたいといえばありがたいのだけれど、しかしそれに続く締めの言葉が、さすがB型だと思った、というのはいかがなものだろうか。今日は「B型のひととだけは本当にウマが合わない」と常日頃から公言する(…)さんのみならず、(…)さんまでもが「ワシ、いままで出会った女の中でB型の女、B型の女だけはどうしても許せへんのばっかや!」と吠えていた。面とむかっておまえのことが嫌いだといわれているようなものだ。
高橋アキビートルズカバーアルバムに収録されているジョン・ケージ編曲の“The Beatles1962-1970”という楽曲がやばい。最近ちょっとばかし音楽から離れ気味だったような気がするのだけれど、こういうものに出会ってしまうとやっぱり急激にぶりかえすというか燃えあがるものがある。なんだかんだいって現代音楽とかノイズとかフリージャズとかインプロヴィゼーションとかそっち方面の楽曲を探検しているときがいちばん音楽を楽しんでいるのかもしれないと、(…)さんに勧められるがままにロックのクラシック的名盤みたいなものを適当に借りては適当に聞き流していた近頃のテンションとの比較で思う。
離れ気味といえば、というか別段まったくもって離れていないしむしろ以前よりもさらにのめりこんでいるというのが実状だけれど、それでもいつか、じぶんがある日を境にふと、よしそれじゃあ小説を書くのをやめるか! と晴れ晴れとした気持ちで決断する日が来てもおかしくはないというか、きっぱりと手を切ってきっぱりと次の何かに取りかかろうとするじぶんの姿がわりとすんなりと想像できる。どういえばいいのか、小説を書くことをやめるという展開を具体的に想像することはまったくできないけれど、もし仮にやめることがあるとするならば、そのときは本当にあっさりと、そしてどうしようもないほどきっぱりと、未練ひとつなく簡単にやめてしまえるんだろうなと、そういうやめっぷりの潔さだけは想像できるというべきか。似たような話を先日(…)くんとスカイプしているときに話したら(「じぶんが仮眠をはさんで一日を二部構成に分割しているように、小説家としてのじぶんのキャリアを第一部とした上で、別の何事かへの新たな取り組みをもって第二部とする姿はわりとたやすく想像できる。ランボーウィトゲンシュタインにたいして憧れているわけではないけれど」みたいな言い方をしたはずだ)、ああーでもそういわれてみるとなんか本当に簡単にやめちゃいそうですねという相づちがあって、じぶんでも本当にそうだと思う。そして心のどこかでは、二十代の大半をこうして取り憑かれたように捧げている一種の偶像であるところの小説にたいして仮に今後まったく興味を持てなくなることがあったならば(あるいはそれよりもさらに魅力的な偶像に出会いそちらに宗旨替えすることになったならば)、それはそれでたいそう恍惚とすることだろうなあと思う。思いがけない現状に身を置くじぶんをふとした瞬間に自覚するたびに(自覚するその主体の正体は現在に回帰した過去のじぶんである。思いがけなさとは、置き去りにされた過去の復讐=復習である)、世界というものの豊かさに、あるいは、豊かさとしての世界に打ちのめされ圧倒される歓びのようなものを覚える。これは仕組みの話であって、欲望の話ではない。