20130225

 言語とは解読されるものではないという結論は、言語からあらゆる超越的装置をとりのぞくフーコーの議論の前提から考えても当然の帰結であるかもしれない。しかしこれを言語の議論のただなかで展開することはかなり挑発的でもあるだろう。それは言語の存立にとって、言語を読む者の存在も、言語を読み解くという行為も、そこに読み解かれるべき何かがこめられているという発想も、そのすべてを拒絶することになるからだ。フーコーにおいて、言語は主体に生き生きとした行為を促し、その行為性のなかで多義的な現れを示すような謎多き存在ではない。言語は、主体が解釈をなすという媒介を通じてその姿を現すものではないのである。そのような事情を想定しない場面ではじめからむきだしに機能してしまう〈言語の存在〉を考えることがエノンセの議論の提示するところである。そこで言語は読む側が不在である場合にも、むしろ読み手を指定してくるような力として描かれるべきだろう。言語に何かを読み解くという行為は、言語があるという事態に対して二次的なものでしかない。読み解かれる以前に、読み手なく機能しているあられもない水準がエノンセである。そこに読み手の関与がありうるとすれば、それは生き生きとした読解ではなく、事象の測定に近い手続きであるだろう。読み手はこの測定に挟み込まれるようにしてしか存在しえない。それは、読むことの豊かさを拒絶する硬質の無機的で唯物的な編成をおもわせる。砂であり地層であるような、エノンセとアルシーヴの描くかたちとしての編成として。
檜垣立哉フーコーのエノンセについて――砂漠の言語論にむけて――」)



11時起床。若干の眠気と存外尽きぬ食欲。13時過ぎからネコドナルドにて「偶景」作文。4つ追加して計148枚。「邪道」も書こうかと思ったが、いまひとつ乗り気になれなかったので早々と退散。16時過ぎに帰宅したのち徒歩で生鮮館へ買い出し。部屋に戻ってから昨日の分の筋トレをこなしたのちジョギングへ。いつもの1.5倍走った。気持ちよかった。途中で散歩中のボーダーコリーを見かけた。ひとつわかったのは最初はかなりゆっくりめのペースで走り出して、規定コースの半ばにさしかかったあたりからギアを一段あげるようにしたほうがずっと快適に、長い時間をかけて長い距離を走ることができるということ。ただでさえウォーミングアップを怠りがちなのだから最初からフルスロットルでいけばそりゃあろくなことにはならない。ゆっくりめに走ったほうが汗もたくさん掻くことができる。
入浴のち夕食。今日はいつも買う一尾100円のアメリカ産冷凍銀鮭ではなく一尾150円のチリ産トラウトサーモンを使って大量の野菜とともにタジン鍋を用いて味噌で蒸して食べたのだけれど、当然といえば当然のことながらやっぱり後者のほうが断然美味い。いつも安売りしていたらいいんだけれど。鼻をかんだらだいぶ血が混じっていた。調子にのって日中ジョギングに出てしまったが、やはり夜中に変更したほうがよい。洗濯物もこれからは室内干しにすべきだ。マスクもそろそろ装着したほうがいいかもしれない。
仮眠をとってから極寒のなか今出川サイゼリヤへ。『草の葉』を読み進め、(…)くんの新作小説を読み終える。9時半から3時間ほど滞在したところで帰宅。小説の感想を書いて(…)くんに送信。
じぶんの送っている生活をひとに説明するにあたって、たとえば、夢や目標にむけて前進しています、毎日とても努力してます、お金がなくて苦労しているけどがんばっています、といったいまどき広告の文句としても三流だろうみたいな切り口を採用しさえすれば、おそらく大半のひとは、きみは努力家だなー、ストイックだなー、がんばれよー、といった具合の肯定的な反応を示すだろう。それをたとえば、なるべくやりたいことだけやって生きることにしているだけです、あるいは、やりたくないことは極力やらないことにしただけです、だとか、じぶんの気分にのみ従って生きることに決めたんです、というような別の言い方をするだけで、信じられないくらい強烈な悪意にさらされることになる。日本で最大のタブーは何かといえば、それはほかでもない、思いどおりに生きています、人生楽しいです、毎日夢中になって満ち足りています、だろう。そんなことを迂闊に口にしてはいけない。苦労の気配が見当たらない言説をひとびとは好まないのだから。だから何もいわずに黙っているか、相手のよろこびそうな苦労話を適当に提示してみせるのがいちばんよい(幸いといっていいのかわからないが、その手のひとびとを納得させるに足るだけの挿話はそれ相応に持ち合わせている。家庭環境にまつわる暗い挿話は彼らのどん欲な胃を満たす最高の屍肉である)。それはわかっている。それはわかっているのだが、しかしなぜこの手のハイエナどもにこちらが気を遣う必要があるのだという跳ねっかえりなじぶんの性格というものがある。なぜ連中の足の引っ張り合いに参加などしなければならないのだという憤りが、苦労を成果に短絡して思考するその奴隷根性をたとえ装いの上でだけとはいえ支持しなければならないのかという苛立ちが、そうしたもろもろの反抗心が、結果として、ほとんど露悪的といってよいほど「自己中」を装うじぶんの身振りとして結実しているのかもしれない。
ふと地元を舞台にした(あるいは地元それ自体を主役に据えた)小説を書いてやろうかと思った。田舎の閉塞感を描いてみたい。といっても土着的なあれこれのなまぐさく残る農村を舞台にしたおどろおどろしい物語ではなく、若い男の楽しみといえば車の改造かセックスくらいしかなく、遊びに行くとなればボウリングかカラオケで外食はファミレスか回転寿司の二択みたいな、ジャンク風土的な土壌で形成された均質でのっぺりとした、それでいて奇妙に満ち足りてしまうがゆえにそれが退屈であることに内側にいては決して気づくことのできぬ退屈さをもてあそびやりすごすそんなひとびとを、要するに、京都に出てくることなく(…)や(…)とともに地元に居残ったじぶんの分身を書いてみたいというアレなのだけれど。でもこれはけっこうつらくて切ない作業になるかもしれない。