20130226

一つの命題は、一つの指示対象をもっていると考えられる。つまり、指示対象あるいは志向性は、命題の内在的な定数であるが、それをみたすことになる(あるいはならない)ものの状態は、外在的な変数である。しかし、言表に関しては事情が異なる。というのは、言表は、指示されたものの状態ではなく、反対に、言表そのものから派生する「言説の対象」をもっているのだ。これはまさに、根本的な機能としての言表の変化線の限界で定義されるような派生的対象である。だから、異なる志向性のタイプを区別して、そのあるものは物の状態によってみたされ、また別のものは一般に虚構的あるいは創造的であったり(私は一角獣に出会った)、あるいは一般に不条理であったりして(四角い円)、空虚なままにとどまる、といったりすることは何の役にも立たない。サルトルは言った。恒常的な睡眠の諸要素とも、覚醒時の普通の世界ともちがって、一つ一つの夢は、夢のイマージュは、それに固有の世界をもっていると。フーコーの言表は夢に似ている。それぞれが固有の対象をもち、一つの世界に囲まれているのだ。こうして「黄金の山は、カリフォルニアにある」は、確かに一つの言表である。それは指示対象をもたない。けれども、すべてを許すような空虚な志向性を引き合いにだすのは不十分である(虚構一般)。この言表「黄金の山……」は、確かに言説の対象をもっている、つまり、このような地質学あるいは地理学的な幻想を許したり許さなかったりする、限定された想像的な世界をもつのである。(「ホテル・リッツと同じくらい大きなダイヤモンド」を例に出せば、もっとよくわかるだろう。これは虚構一般に帰着するのではなく、フィッツジェラルドの言表をとり囲んでいる特別な世界に帰着し、この言表は、同じ著者の他の言表と関係して一つの〈族〉を構成しているのである。)
ジル・ドゥルーズ宇野邦一・訳『フーコー』)



10時半起床。(…)くんにメール返信。12時半から16時半まで薬物市場にて「邪道」作文。プラス4枚で計439枚。「邪道」の執筆を開始したのは記録によると2012年2月15日とあるのだけれど、丸一年書き続けてきてようやくこの作品に求められている語りのトーンのようなものが見えてきたという思いがある。冒頭からほとんど書き直しに近いことをしているが、正しい方向にむむかっているというたしかな手応えがあるので、いっこうに苦にならない。作業に区切りがつくと、壮快で充実した疲れを覚える。それから空腹を自覚する。早く部屋にもどって夕飯を食べようとワクワクしながら考える。うまく書けているときはなにからなにまでが申し分なくすばらしい。これをして奇跡という。
生鮮館で買い物をすませてから帰宅。筋トレ。大家さんのところへ灯油を入れにいったところまた煮付けをいただいた。見栄えはいまひとつよろしくはないが、しかしこれがけっこう美味いのだ。夕食を終えてさて仮眠でもとるかというところでその大家さんが玄関の引き戸をガンガンやりだして、おもてに出てみるといつでもシャワーを使ってくださいという恒例のセリフが待ち受けていたのだけれど、これまでずっと(…)さん(…)さんと呼ばれていたのに今日にかぎってひたすら(…)さん呼ばわりされていたのはなぜか。訂正できない。
よろこび勇んで自殺を決意する夢を見たようなそうでないような仮眠ののち、雨降りのなかを(…)へ。『草の葉』と『ブッダの言葉』をNasmerzbowをお供に延々と併読。帰りしなに(…)さんからまたパンの耳をいただいた。これ本当にありがたい。ちゃんとしたパン屋さんのパンなのでたかが耳ごときと馬鹿にできない美味さがある。(…)さんと小説近辺のことをちょっくら立ち話していたのだけれど、前回大量処分した書物のなかにはドゥルーズとかラカンとかフーコーとかバルトとか井上究一郎訳の『失われた時を求めて』とかもあったらしい。書物をゆずりましょうかとこちらに提案するまえにこんなもの誰も欲しがらないだろうと踏んで古書店に持っていったらしいのだけれどニアミスだ。ほかのどんな本よりもそいつらが欲しかった。悔やまれる。
今日の雨は冬の雨ではなくて春の雨だった。冬の雨は寒いし、夏の雨はじとじとするし、秋の雨は肌寒いし、やっぱり雨といえば春先のものがいちばんだ。詩情がある。なまあたたかい空気のなかに奇妙な期待感がただよって何かのはじまりが予感される。皮膚感覚に美しい。花粉の飛散量も減るし言うことなしだ。