20130304

「出会いは、それが確立した新しい必然性によって、はじめて正当化される。」
ジル・ドゥルーズ宇野邦一・訳『フーコー』よりミシェル・フーコー「監獄の誕生」からの孫引き)

 言表あるいは言説的形成にとって最も一般的な条件とはどんなものだろうか。フーコーの答えは非常に重要なものである。それがあらかじめ言表行為の主体を排除しているからである。主体は変数であり、またはむしろ言表の様々な変数の集合である。主体は根本的な機能から派生した機能であり、あるいは言表そのものの機能である。『知の考古学』は、この主体-機能を分析する。つまり主体は、言表のタイプや敷居によって非常に変化する場所や位置であり、「主体」そのものは、一定の場合に可能なこのような位置の一つにすぎない。一つの言表に関して、いくつかの位置が存在することさえありうる。だから、まず存在するのは「誰かが話す」であり、無名のざわめきであり、そのなかで、可能な主体にとって様々な配置が組み立てられるのである。「言表のたえまない、無秩序なひしめき。」
ジル・ドゥルーズ宇野邦一・訳『フーコー』)



10時半起床。記憶の半分以上がブランク。すさまじい夜の名残に負けじとひとまず(…)さんにお礼のメールだけ送信して薬物市場へ。やたらと雑誌コーナーで立ち読みしているひとが多いので何事かと思ったのだが、ひょっとするとジャンプの立ち読みが目当ての客だろうか。12時半より「邪道」作文。のつもりがまったくもって頭が働いてくれない。一晩明けてなお鋭い第七官界彷徨。光輝く音楽。自由席で盛大にいびきをかきながら眠りこんでいるおっさんがいるからにはイヤホンを取り外すわけにもいかない。仕方がないので30分も経たぬうちに退散。できることから優先して片付けていこうという作戦。図書館にて返却&貸し出し。生鮮館に立ち寄り買い物。デイリーヤマザキで角煮を購入。昨夜買うだけ買って食わずじまいだったカップ麺が家にあったのでトッピングにして食べようという魂胆。こんな馬鹿な買い物&食事をするのは初めてである。帰宅。ジャンクな昼食。うまい。うますぎる。メロンパンもたてつづけに食う。
ひと心地ついたところで14時半から先日読み終えたウォルト・ホイットマン『草の葉』上中下巻から延々と抜き書き。《いっそぼくは何もしないで聞くだけにしよう、/聞こえる音をこの歌に折折に歌いこむため、あまたの響きを歌の織糸として織りこむために。》というくだりを「偶景」のエピグラフしてみてもいいかなと少し思った。それをいえば、《さながら仲間を伴うように、おのれ自身の多様な位相を伴いながら旅ゆく者たち、/現実とならずに潜んでいた幼い日々からようやく外へ踏み出す者たち、》は「邪道」のそれっぽくもある。
抜き書きをしている途中このあいだネットで注文したボディピが届いたのだけれどさすがの安物だけあって粗悪品である。金属の表面が剥がれているし、くるくるまわして取り外しするキャッチのあのねじ山式のところが最初からぼろぼろで鬱陶しい。この金属だってどんな混ぜ物によるものか知れたもんじゃあない。荷物のなかにはぜひレビューを書いてくださいと直筆の手紙が同封されていた。ボディピアスを通販してくれるネットショップってだいたいどこも直筆の手紙を同封してくるのだけれど、これはボディピうんぬんにかぎった話ではなくてネットショップ全体にひろく認められる習慣なんだろうか。
『草の葉』の抜き書きを終えてからドゥルーズフーコー』の抜き書きに移行。途中で近所の酒屋へ灯油の買い出し。抜き書きやら調べものやら購読先の巡回やらをしているうちに気づけば21時。頭もずっと冴えている。ジョギングへ。いつもの1.5倍コース。帰宅して入浴。のち昨夜の残骸の中から拾い集めたものをかきあつめてハッピートーストを食したのちハワード・ホークス『モンキービジネス』。実験体のチンパンジーの動き回る様子を観ているだけでまず楽しい。ケージの鍵を内側から解錠したり椅子に腰かけてみたりシャンデリアにぶらさがったりぐるぐるぐるぐる回転するダンスを披露してみせたり、その運動性のいちいちに目を奪われる。薬を調合するケーリー・グラントを心配そうにながめる様子の執拗なクローズアップも良かった。ケージから脱出した彼が無人の実験室でひとり試験管をビーカーにかたむけるチンパンジーの迷い箸じみた躊躇いと踏ん切りの悪さがのぞく試行錯誤のおぼつかない手元なんてまるでガンギマリのジャンキーのようで、処理速度が低下したことによって数ある行動の選択肢の中からひとつを選ぶことにいちいちつきまとう困難、あるいはあるひとつの目標(目的)を達成するために必要ないくつかの手続きを時間と空間の限定に沿って直列化する(手順化する)ことの困難のように見えてしまう。処理速度が低下するがゆえに垣間みることのできるこれら一連の処理過程はむろん通常われわれにあって無意識のうちに一瞬ごとに実践されている営みであるわけだが、しかし話が逸れた。実験薬の効果で十歳児に退行してからのアメリカ人少年少女あるあるネタの羅列には笑った。ホークスは『赤ちゃん教育』にせよ『ヒズ・ガール・フライデー』にせよテンポの良いコメディー(スクリューボールっていうの?)を撮らせたらむかうところ敵なしだ。リネン庫に迷いこんだケーリー・グラントがランドリーシュートにあやまって落下してしまうくだりにはせっかくの休日にもかかわらず職場を想起させられたりして若干げんなりしたが、「発明の歴史は規則違反の人々の歴史だ」というセリフにはおっと思ったし、あと“terrify”と“tissue”を続けて言うように命令されたマリリン・モンローがいわれたとおりにすると爆笑、みたいなくだりがあって“terrify tissue"でひとつの隠語になっているんだろうかというか文面的にどうしても下ネタを想起せざるをえないのだけれど(おそるべきティッシュみたいな)、あとで調べてみたところどうやら“terrify”と“tissue”を早口で繰り返すとそのまま”care if I kiss you"(キスしてもいいですか?)に聞こえるとかいうやはり十歳児レベルのネタであった。
科学的知見を獲得してその知見に沿うたテクストを展開するのではなく、科学的言説をひとつのテクストとしてこちら側に思いきり引き寄せたうえでとてつもなく乱暴に利用してやる(ラカンの概念を好き勝手に用いるバルトのように)、すなわち、ソーカルの批判対象になりうるとんでもなくうさんくさくて、とんでもなく電波で、とんでもなくトンデモなテクストを書きたいと思った。これはおそらく「邪道」の延長線上に認められる課題だろう。できるだろうか? できるに決まっている。マイルス・デイヴィス曰く「オレは、自分を自信家だとは思うが、傲慢だとはちっとも思っていない。いつも自分が欲しいものはわかっていたし、自分が求めているものを理解していた」。そういうことだ。この楽天性、この不安のなさ、この自信、そういった諸々はすべておれはおれの求めているものを知っているという事実に由来するゆるぎなさの変奏だ。おれは・おれの欲望を・知っている。