20130306

話すことと見ること、あるいは言表と可視性は純粋な〈構成要素〉、ア・プリオリな条件であり、この条件のもとで、ある時点に、あらゆる観念が形式化され、様々な行動が現われるのである。このような条件の探究は、フーコーに特有な一種の新カント主義を構成する。しかしカントとは根本的な違いがある。諸条件は現実的な経験の条件であって、あらゆる可能的経験の条件ではないのだ(例えば、言表は、限定されたコーパスを前提とする)。それらは「対象」の側、歴史的形成の側にあるのであって、普遍的主体の側にあるのではない(ア・プリオリなものは、それ自身歴史的である)。どちらも外部性の形態なのである。しかしもしここに新カント主義があるとすれば、それは可視性が、その諸条件とともに一つの〈受容性〉を形成し、そして言表は、その諸条件とともに〈自発性〉を形成するからである。言語の自発性と、光の受容性。それゆえに、受容的を受動的と、自発的を能動的と同じことと考えるのは不十分であった。光が見させるもののなかには、能動も受動も同じように存在するのだから、受容的は受動的を意味しない。自発的は、能動的を意味しないで、むしろ、受容的な形態に働きかける「他者」の活動を意味するのだ。カントの場合もすでにこのようであった。彼において、「私は考える」の自発性は、この自発性を必然的に他者として表象する受容的な存在に対して行使されるのだ。ところがフーコーにおいて、悟性の自発性つまりコギトは、言語の自発性(言語の「そこにある」)に場所を譲り、直観の受容性は光の受容性(空間-時間の新しい形態)に場所を譲る。こうして、可視的なものに対して言表が優先することは容易に説明される。
ジル・ドゥルーズ宇野邦一・訳『フーコー』)



10時半起床。ウェブ上で太宰治賞の一次選考の結果が発表されていたのだが、余裕の一次落ちだった。これで群像、文藝と引き続き、三度目の一次落ちである。あんたらほんとに小説の読み方知ってんのかと関係者に問いつめたくもなるが、しかし新人賞というゲームに乗っかっている以上はなにをどう評価されようと文句はいえまい。たとえなんど一次落ちをくらったところで「A」がじぶんのキャリア最高傑作であることは疑いないのだ。ゆえに知ったことかの一点張りでまた別の新人賞に応募すればいいだけの話である。がしかし、規定枚数のことを考えると残す選択肢はおそらく新潮のみで、しかもその新潮の応募規定にははっきりとよその新人賞にいちど応募したものは受けつけないとある。こんなもん無視しちまえば問題ないんだろうけど、同じく規定を無視するのであればいちど(…)さんに応募を薦められたことのある日本ファンタジーノベル大賞というところに送ってみるのもいいかもしれない(応募規定によると300枚以上からとのことなのだが、「A」はたしか200枚ちょっとしかない)。「A」は世界観と物語だけを抽出して判断すればおそらくは十分ファンタジーと呼べるものになっているだろうし、というかそのせいで群像・文藝・太宰と三連チャンで足切りされたという気がせんでもないというか、はいはいまた剣と魔法みたいな世界観の小説来ちゃったよ純文学なめんじゃねーボッシュートみたいな判断を下されたという可能性もなきにしもあらずなのだけれど、しかしあの文体を目にすればそんな安易なものじゃないことは一目瞭然だろうよ、あんたらムージルの「ポルトガルの女」とか読んだことないのかよ、などとここにまたネチネチがはじまりかねないので自制。南無。
あるいは以前から幾度となく考えてきた選択肢であるわけだけど、どっかの同人誌とコンタクトをとって掲載してもらうか自前のウェブサイトを復活させてそこで公開するか、それともこれがもっとも現実的といえるのだろうけどBCCKSを利用して自費出版してネット上で販売するか(…)、そういう方向に舵を切ってみる潮時が来ているということなのかもしれない。いずれにせよすでに書き上げてしまった作品であるのだからあとはどうにか金もしくは知名度(両者はほぼ同義だ)に結びつける方法を見つけるだけのものでしかないというか、書き終えてしまった作品なんて書き終えた当事者からすれば金に換えるくらいしか使い道がないものだ。だがそれといっていざ何か事を起こすということになった場合、そのためのプロモーションやら何やらに時間と労力を注ぐ気があるかと問われればまったくもってないというのが本音で、そんなことしているヒマがあれば新しいものを1枚でも多く書いたほうがずっと楽しい。だからやっぱり理想は新人賞をゲットしてあとは全部出版社に丸投げというかたちになる。なにより賞金の魅力がでかい。50万なり100万なりあればバイトをやめることができる。それによってさらなる作業時間の確保が可能だ。週休七日制。考えるだけでよだれが出てくる。
それにしたところで、どうでもいい失敗作ではあるがいちおうじぶんの立ち位置を確かめるためにとの考えから応募した「(…)」と「Z」の二作が文學界および早稲田文学に残って、七年間にわたる執筆キャリアにてはじめてたしかな手応えを感じることのできた「A」が箸にも棒にも引っかからないっていうのはいったいどういうことなのか。じぶんと世間様とでは文学センスみたいなものががっつりずれてしまっているのだろうか。しかしムージルにせよベケットにせよカフカにせよヴァルザーにせよマンスフィールドにせよじぶんの好む作家はみな(その生前はともかく)現状それ相応の高評価を受けているというか、なんだったら世界文学史の主要なアクターとして位置づけられているといってもよいのであるし、となれば世間様とじぶんのセンスがそうずれているとも考えられない。もどかしいな。三度落選したところで傑作の確信はいっこうに揺らぐことがないから、余計に。この思いを何の花に喩えよう?
12時より15時まで薬物市場にて「邪道」作文。プラス6枚で計455枚。加筆ばかりでいっこうに前に進まないが、書けていることには書けているので問題なしとする。今日いちにちはなんだかんだで落選の結果をひきずるかもしれないと朝一で懸念を抱きもしたが、全然そんなことなかった。スイッチさえうまく入ればいつなんどきだって書けるし、書きはじめることによって書く行為以外のもろもろの雑念がじぶんからあっというまに遠ざかってしまう。気づけば完璧なひとり。瞑想。犀の角のようにただ独り歩め。
図書館にて返却&貸し出し。生鮮館で買い物。帰宅・筋トレ・炊事。夕食をとりながらニコラス・レイ『太平洋航空作戦』。傑作。実際に撮影されていた戦地の映像(ドキュメンタリー)とこの映画のために撮影された映像(フィクション)を同じ平面上に統合する媒介としてニュース映画的なナレーションが冒頭にどかんと置かれていたあたりからしてうまいなあと感心したのだけれど、しかし何よりもすばらしかったのはそういった小手先の技巧などとは一線を画する、たたみかけるような引用によって成立している数多くの空爆のシーンで、実際の戦地の映像をフィクションの合間に具合よく織り込むなどというレベルではもはやない、とにかくありったけの素材をフルに酷使してみせることによって可能となるモンタージュの圧倒的な密度とすさまじさはほとんどゴダール張りというか、ゴダールが引用の可能性に勘づいたきっかけはひょっとしてこの作品なのではないかと時系列を確認することすら怠り適当な予想をたててしまうくらいすばらしかったというか、すごい。とにかくすごい。資料-素材として残されてある映像とフィクションとして撮影された映像とではもちろん映像の解像度が全然異なるのだけれどそれらを接続させてしまってもまるで違和感を覚えないそのような並びになっているというか、そんな細部の帳尻合わせを重箱の隅をつつくようにして指摘する者らの声から問答無用で説得力を奪いとってしまう圧倒的なモンタージュがここに現前しているというこの質感がまさしくゴダールの引用と同質であって思わず見とれる。あと、台風が接近しているのでこれから24時間は事実上の停戦となるだろうという報告に大喜びする兵隊らの様子に、とてもリアルな戦争の現場を感じた。
映画を観終わってから仮眠をとるために横になりはしたもののどうにも眠れず、というのはたぶん今日いちにちがたいそう暖かく春めいていたからであって、花粉の飛散は真剣に鬱陶しいったらありゃしないけれどもこのポカポカ陽気は本当にうれしい。部屋で映画を観ている間いつも着ているスウェットを脱いでヒートテックとパーカーだけで平穏無事に過ごしているじぶんに気づいてものすごくテンションがあがったりして、以前にも書いたように思うけれどこういう春先の暖かさに触れるとこれから先もうなにひとつ悪いことなど起こらない気がする。ワクワクする。そわそわする。じぶんの人生にたいするキラキラした期待感がやばくて恍惚とする。ゆえに眠れず。眠れぬまま布団からのそのそと起き上がり21時半からジョギング。1.5倍コース。ひさしぶりに時間を計ってみたのだが、家を出てから帰宅するまで大体25分だった。思っていたよりもずっと早い。最低でも30分、できれば40分くらい走るのが理想的であるような気がするので、コース設定を変更することを考慮する。にしてもジョギングもいつの間にかすっかり習慣の一部と化した。じぶんの最大の武器はこの習慣化能力だろう。いちど習慣化して時間割に組み込んでしまえばよほどのことがないかぎり継続することができる。これはたぶん強みだ。神経症的主体の強み。書くための身体作りという名目が自身にいちど納得されさえすれば、あとは楽勝だというわけだ。書くための◯◯という公式が心底納得されたならばたとえ法を破ることだって辞さないじぶんがいる。ニーチェの教えを裏切ることになるが、この書くためにという中心化作用・目的論的な筋道のたて方が、じぶんに唯一許された生の様式なのだ。おそらく。パラノイアのど根性。わたしは世間の常識よりもわたしの条件を優先する。
入浴をすませてから昼間返却するのを忘れていたDVDを持ってアメリカへ。そのまま帰るのもしゃくなのでネコドナルドに立ち寄り小一時間ほど『ブッダのことば』を読みすすめる。読みすすめるというよりはじぶんの興味関心にひきつけて強引に読みかえるみたいな読書を意識的にしているのでけっこう時間がかかる。店内ではなぜか冷房がかけられていた気がするのだけれど、これはおまえら百円のコーヒーなんかで粘ってないでさっさと帰れやというクルーからのプレッシャーなのだろうかと勘ぐってしまう。100円のコーヒーといえば先日来店したさいに、3月いっぱいが有効期限の期間内であれば何度でも使用可能である、ホットコーヒーのMサイズ100円クーポンとやらをいただいていたのでさっそく使わせてもらった。
サージカル6Gのボディピが届いた。チェンマイの路上でなくしたものよりは若干小さい気がするが、これくらいのほうがパッと見、いかつくなくてちょうどいい気がする。zozotownからポイントの有効期限が切れそうだとメールがあったのでTAKEO KIKUCHIの値下がりしていたブレスレットを注文した。