20130307

 真なるものは、二つの形態のあいだの一致によっても、共通の形態によっても、対応関係によっても定義されないのだ。話すことと見ることとのあいだ、言表可能なものと可視的なものとのあいだには分離がある。「われわれが見るものは、決してわれわれの言うことのなかに住まってはいない。」また逆もいえる。連結は二つの理由で不可能である。言表は、それ自体に固有の相関的な対象をもっているのであって、論理学がのぞむように、物の状態や、可視的な対象を指示する命題ではないのだ。しかし、可視的なものもまた、現象学がのぞむように、無言の意味、言語において実現されることになる潜在的シニフィエなどもってはいない。古文書や、視聴覚的なものは、離接的なのである。こうして見ることと話すことの分離のもっとも完璧な例は、映画のなかにあることは驚くにあたらない。ストローブ、ジベルベルク、マルグリット・デュラスにおいて、一方で声は、場所をもたない一つの物語のように現われ、そして他方で可視的なものは、物語をもたない空虚な場所のように現われる。マルグリット・デュラスの『インディア・ソング』で、声は、決して見られることのない昔の舞踏会を喚起し、あるいは出現させるのだが、一方、視覚的イメージは、別の、無言の舞踏会を見せ、どんなフラッシュ・バックも視覚的な結合をしないし、どんな画面外の声も音声の結合をしないのである。そして、すでに『ガンジーの女』は、二つの映画、「イメージの映画と声の映画」の同時存在として現われていた。一つの空虚が唯一の「関係要素」であり、同時に蝶番であり隙間である。二つのあいだには、たえず非合理的な切断が存在している。しかし、これは何でもいいイメージに、何でもいい声を重ねたものではない。確かに、可視的なものから言表への、言表から可視的なものへの繋がりは存在しない。しかし、非合理的な切断の上、あるいは間隙の上で、たえまなく繋がりは回復される。まさにこのような意味で、可視的なものと言表は、一つの地層を構成するのだが、この地層は、たえず中心で考古学的な亀裂に横断されて構成されるのだ(ストローブ)。物と言葉にとどまっている限り、私たちは見ているものについて語り、語っているものを見ていると、また二つは結合していると、信じることができる。それはつまり、私たちが経験的な実践にとどまったままであるということだ。しかし、言葉と物を切開するなら、言表と可視性を発見するなら、言葉と視覚はたちまち、ある高次のア・プリオリな実践にまでたどりつく。すると、どちらもそれ自身を他から分かつ自身の限界に、見られることしかできない可視的なもの、語られることしかできない言表可能なものに到達するのだ。それでもやはり、それぞれを分離する固有の限界は、二つを関係づけ、盲目の言葉と無言の像という、二つの非対称的な面をもつ共通の限界でもあるのだ。フーコーは、奇妙にも、現代の映画に非常に近い。
ジル・ドゥルーズ宇野邦一・訳『フーコー』)



9時半起床。(…)からひさしぶりにメールが届いていた。コンタクトをとるのは前回スカイプをして以来だから一ヶ月ぶり以上かもしれない(と思ってアーカイヴをたどりなおしてみたところ前回スカイプしたのは1月9日とある。あれからもう二ヶ月! 早すぎる!)。メールを読み、そして、凹んだ。相手が何度となく繰りかえし送ってきているサインに気づいていながらも、じぶんの時間を優先するために拒絶してしまっていたその事実を、当の相手はとっくに察していたらしい。メール一通送信するのにも、スカイプで小一時間電話するのにも、いちいち相手に気後れを感じさせ、ためらわせてしまうじぶんはいったい何なのか。何者なのか。何様なのか。会いたい、話したい、といってくれるひとがいて、それも何度も繰りかえし、婉曲的に、迂回して、押しつけがましくなく、けれど愛情をほのめかしながらそういってくれているのに、なぜそれにたいして誠実な受け答えをしないのか。いっそキレてくれればいい、おまえいい加減にしろよと怒鳴ってくれればいい、これっきりだと切り捨ててくれればいい。遠慮しながらおずおずと切り出されるのがいちばんつらい。相手にそんな卑屈な態度をとらせてしまうじぶんが嫌になる。強烈な良心の呵責にさいまなれる。過去の回帰だ。同じことをまた繰りかえしている。繰りかえさせている。
11時半から薬物市場にて「邪道」作文。プラス1枚で計456枚。14時には早々と切り上げた。集中できるわけがない。会いたいかといえば会いたい。寝たいかといえば寝たい。けれど毎日電話でおしゃべりしたりチャットしたりメールのやりとりをしたいかといえば、そんなことはない。それは困る。困ってしまうじぶんがいる。一緒に暮らすなんてできっこない話だ。夢のまた夢、来世よりも遠い先の話だ。じぶんを裏切ってくれる恋人くらいでたぶんちょうどいいのだろう。そうすればじぶんにばかりかまけている彼氏と他人にかまけてばかりいる彼女という構図でふたりの付き合いはぴったり帳尻が合うことになる。
「邪道」の作文のかわりに(…)への返信メールを書くなどして薬物市場には結局16時前まで滞在した。大事なメールなのでわざわざ日本語で下書きを書くところからはじめた。帰宅してからまたメールの続きを書いた。ひととおり書き終えたところで18時半。筋トレと食事をすませ、ウェブ巡回をこなし、それからメールの推敲をした。送信するころには22時になっていて、ちょっとした大学のレポートみたいな分量になってしまった。(…)は7000wordsの小論文の期日がぎりぎりまで迫っており、締め切りまであと一日しか残っていないにもかかわらずまだ2000words分もの余白があると嘆いていて、あなたはきっとわたしがどれだけあなたとおしゃべりしたいと感じているのか、そしてあなたの文学にたいするパッションや、あなたの夢にむかう不屈の意志や、あなた自身の人生の物語を創造するための理想によって、どれだけわたしが刺激を受けたいと欲しているのか、きっとわからないのね。とてもシンプルな言葉でいうと、(…)、あなたがいなくてわたしはさびしいわ。そう、たしかに何度となくあなたをぶってやりたいと思ったことはある、でもそれもただ単純にわたしが未熟で不寛容だっただけ。こんなことをいうとあなたはきっとまた正反対のことをいってわたしを慰めてくれるんでしょうけど、でも最近のわたしはだんだんとじぶん自身のことがわかるようになってきたの。そしてそんなじぶんのとある側面や行動様式を受け入れることができるようになってきたわ。自分自身を罰しないように、そして選びとった選択肢については責任を持つこと。そう、選びとった選択肢っていうのはわたしの専攻について、あなたに話したことがあるかどうかちょっとはっきりしないけど……というふうに続く彼女の手紙の冒頭には、こんなふうにあなたに話しかけようとするときの勇気に満ちた気持ちは世界がわたしに与えてくれる最高の贈り物です、という一文が、そして末尾には、あなたは別の領域に存在するもうひとりのわたしなんだから、という一文が置かれていてお決まりのWith Love、パーイのバーでひとりジャムバンドのステージに乱入してトランス状態で踊り狂っていた彼女の姿、すごく目に焼きついている。丸テーブルに腰掛けてゆっくりビールやワインを飲んでいるほかの客の目なんていっさい気にせずひとりでステージに突っ込んでいってど真ん中でスカートをひらひらさせて踊って、あげくのはてには客席の間から間へとくるくるくるくる回転しながら軽いステップで飛ぶように跳ねるように移動してみんな引いちゃうくらいあっけにとられていて、女たちの嘲笑も男たちの嫌らしい目つきもみんなシカトして踊りに踊るその伏し目の横顔、そういうエキセントリックな行動をとられるたびにいつもならマジで恥ずかしいからやめてくれよとなるのにその日その夜その時だけは完全に見とれて言葉が出ない経験をした。きれいだった。本当にきれいだった。あんなにきれいに踊れる女の子ほかに見たことがない。天女みたいだった。じぶんのとなりの席に彼女が戻ってきたとき、恥ずかしさに誇らしさが打ち勝った。すごかった。(…)の妹はたしか元コンテンポラリーダンサーだった。きみはきっと音楽に愛されているとバーの帰りにたちよったアクセサリー屋を冷やかしているときに思いきって伝えると、でもわたしダンスの成績はいつもぜんっぜんダメだったのよ、いちども褒められたことがないわ、と彼女は上気した顔で答えて、そんな奴らは放っておけよ、いいか、きみは絶対に音楽に愛されている、絶対にだ、さっきのダンスを見ていて確信した、きみは音楽をやれよ、何らかのかたちで音楽にたずさわるべきなんだよ、と猛プッシュしつづけたところ、オー!(…)ー! といういつものあの大袈裟な泣き顔のハグが迫ってきて、(…)のハグは長いからそういうときはいつも日本人はシャイなんだよと途中であしらうのがパターンになっていた。たとえ異国だろうとなんだろうとそれが挨拶みたいなもんだろうなんだろうと人前であれこれするのはやっぱり照れがあるというか、それをいえばシェムリアップベジタリアンカフェで知り合ったドイツ人女性が別れ際にあのほっぺとほっぺをこすりあわせて耳元でキスする挨拶を仕掛けてきたときにはたいそうドギマギしたというか美人だったとはいえじぶんより身長も高く肩幅もひろいごつごつした肉食怪獣みたいな外貌だったものだから率直にいってなんか食われそう!という独特の圧迫感があってあれはけっこうこわかった。
入浴後、1時から一時間ほど読書。もうこういう考え方感じ方はよせよと思いながらも結局、メールを書いただけで一日が終わってしまったという苛立ちを眠る前に覚えないわけにはいかず、そんなじぶんにたいしてもまた苛立ってしまい、どうにも悪い寝つきだ。誰にも必要とされないのはつらいけれど、誰かに必要とされるのも同じくらいつらいな。必要に答えられないことばかりが続いて、すると本当に誰からも必要とされなくなるときがいつかやってくる。そのさびしさに耐える根性なんてじぶんにあるんだろうか。